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石原特殊鎖製作所 25

石原特殊鎖製作所が作る鎖は市場から徐々に姿を消していった。
僕が小学生の頃、通っていた小学校の校旗を立てかける金属で出来た三脚の一部にも石原特殊鎖が使われていて、その頃やっていたサッカーチームが出場する大会でも、旗を立てかける三脚の一部に石原の鎖が使われていたのを見たことがある。
たまに父に連れられ訪れたホームセンターに行くと、僕はとりあえず鎖が売っているコーナーに行き、石原の鎖がないか見ていたのだけれど、小学生の時は売っているホームセンターがいくつかあった。

けれど、少しずつその鎖を見る機会は減っていった。
圧倒的な資本の前に、一家族経営の、従業員が伯父2人を含めた3人だけの小さな会社では販路を広げることが出来なかった。
今ならもしかしたらインターネットで宣伝することも出来たのかも知れないけれど、その頃にはSNSで宣伝したりするということは殆ど行われておらず、ホームページも有限会社が持っているところも殆どなく、兄がホームページを作ったけれど、結局販路を広げることにはつながらなかった。
そうして、僕が大学生になる頃には、鎖だけでは生活が出来ないということで、母の4番目兄である伯父は外で働くようになった。

伯父はもうその時には60歳に近くなっていたから、フルタイムではないとしても、新しく他の場所で働くというのは中々大変なことだったと思う。
その時、伯父がどんな仕事をしていたのかは知らないけれど、30年以上も鎖を作り続けていた人間を快く受け入れてくれる会社、やらせてもらえる仕事というのは多くはなかったはずで、多分肉体を削るような、体力を振り絞るような仕事をしていたのだと思う。
けれど、その時の伯父には2人の子どもがいて、それはつまり僕のいとこたちということになるのだけれど、2人は大学と大学院に通っていたから、どうしてもお金が必要だったのだと思う。

今では、建設現場や道路工事の誘導員、コンビニやファーストフード店などでも高齢の人たちが働いているのをよく見かけるようになったけれど、その頃にはそういう仕事は若い人たち、例えば大学生や時間を持て余した人たちがとりあえずお金を稼ぐためにやっていた仕事だったから、伯父がそういう仕事をするのは、単に肉体的にきついだけでなく、置かれた環境そのものがシビアなものだったのだろうと思う。

石原特殊鎖製作所を廃業すると聞いたのは、伯父が外で働き始めて、割とすぐだったように思う。
僕は経営に携わっていたわけでもないし、祖父母が亡くなって、祖父母の家が取り壊され、新しく建てられた伯父の家には行かなくなっていたので、僕が何か言えるような立場ではなかった。
けれど、一つだけお願いをした。
それは、石原が作っていた鎖、特に特許も取得していた石原特殊鎖を少しで良いから欲しい、ということだった。

それを母に伝えたところ、3種類の鎖を後で渡された。
一つは黒っぽい色をし、手を通すことが出来ないくらいの輪になった石原特殊鎖、もう一つはキーホルダーにでも出来そうな長さの、輪になったものよりも一つ一つが大きめで6つが連なっている銀色の石原特殊鎖、そして、黒色のものを同じくらいの大きさの輪になった一つ一つが小豆のような形をした銀色の鎖をもらうことが出来た。
僕はそれを印鑑らを入れるところにしまっていて、ごくたまにそれを取り出しては触れ、その鎖が確かにあったこと、伯父たちが作っていたこと、今ではもう誰も作っていないことを思い出す。

石原特殊鎖製作所が廃業してから、もう何年も経っているので、もう殆ど使われていないかも知れない。
けれど、その鎖を見る度に、僕は祖父母の家を思い出し、あの小さな部屋で整然と並べられた小さな箱たちと、鎖や工具、木の机、そして金属と油の混ざった匂いを思い出す。
僕が好きだったあの場所は永遠に失われてしまったのだ。

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