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石原特殊鎖製作所 7

祖母が死んで、母は母に形見分けされた着物を一枚一枚僕に見せながら嬉しそうに、そして懐かしそうにしながら桐箪笥にしまっていった。けれど、そこには僕の記憶にあるグレーのような色の着物は殆どなく、派手ではない落ち着いた様々な色の、様々な柄の着物があった。
母はその一枚一枚を見ながら、あぁ、これはあのとき着ていたものだ、こっちはあのとき着ていた、と言いながら、丁寧に着物が入っていた白い紙に包み、ひもで縛ってから桐箪笥にしまっていった。

母が着物を着ている姿を僕は殆ど見たことがないけれど、それは着物自体に何か価値があるのではなく、祖母のものであるということが母にとっては一番意味のあることなのだろうと思う。
祖母が死んでから30年近く経ち、今も実家の桐箪笥には祖母が着ていた着物が大切にしまわれている。
それを着てくれる人がいたら、しかも、母が喜ぶ形で着てくれる人がいたらどんなにか良いかと思うけれど、それは僕が考えているだけのことで、母にとってはとても大切なものなのだから、母が死ぬまでは今のように、ひっそりと今まで通り桐箪笥の中にしまわれたままにしているのが良いのかも知れない。

祖母も祖父のように穏やかに死んだのだけれど、僕が覚えているのは焼かれたあとの骨の少なさだった。骨の形を残している部分はあまり多くなかった。多くなかったというよりは殆どなかった。
それを見て母が、沢山子どもを産んだからだね、と言ったことを覚えている。今となっては、骨粗鬆症ということになるのだろうけれど、10人も子どもを産むということは、それこそ自分の肉体を削ることなのだと僕はその時に知った。
実際に、母は生まれた時点で病弱ではなかったが、十分な肉体を持っているとも言えなかった。それが端的に分かるのが歯だった。母の歯はもろく、そもそも生えてきていない部分もあった。
人間は10人も子どもを産むことが出来るけれど、同時に10人も子どもを産むと、産んだ人間の骨はスカスカになり、骨だけでなく、他の部分も大きく損なわれ、10番目に生まれてくる子どもも肉体的に何かが欠けている。

祖母が10人も子どもを産まなければ祖母はもっと長生きできたかも知れないし、骨もしっかりしていたかも知れず、母が10番目の子どもではなかったら、母の歯がなかったり、脆くなるようなこともなかったのではないかと思うけれど、そうすると、こうして僕は生まれてこなかったと思うと、とても不思議な気持ちになった。
それは、祖母が医師に「子どもはもう最後ですよ。」と言われて母を産んだことも同じようなことなのだと思うのだけれど、僕には知らない、その後を決定的に変えてしまうような、その時にはささやかな出来事によって、それらの連なりによって、僕や母、あるいは他の全ての人たちがいるということを、特に祖母の焼かれた骨を見て感じた。

祖父母の骨と灰が入れられた骨壺は上野駅から歩いて行ける、東京スカイツリーが見えるお寺のお墓に納められている。
子どもの時は両親に連れられ毎年墓参りに行ったのだけれど、僕が実家を出てからは殆ど行っていなかった。
けれど、数年前ふと、その墓に行ってみようと思った。
父方の祖父母の墓はどこにあるのかは知っていて、母から誘われれば一緒に墓参りに行っていたのだけれど、石原のお墓にはずいぶん行っていなかった。
僕は、母にその墓があるお寺の名前を聞き、スマートフォンで検索すると、上野駅からも歩いて行けることが分かった。
僕はそうして上野駅に行き、駅から出て、お寺までの途中にあるお花屋さんで「墓参り用に適当に選んで下さい」と頼んで、店員さんが僕に確認しながら選んでくれた花を買い、お寺に向かった。

両親と一緒に行くときは地下鉄を使っていたので、そのお寺に行くのは地下鉄を使わなければならないと勝手に思い込んでいたけれど、上野駅からも10分程度でそのお寺に着くことが出来た。
そのお寺には、【石原家】と書かれた桶があり、その桶に井戸水のポンプを押し引いて水を出して入れ、祖父母の骨壺が納められた墓に行った。

行った、と言っても、お寺の敷地自体もとても小さく、石原の墓は墓が並んだ一角のすぐ手前の左側にあり、僕が子どもの時の記憶からたどってもすぐに見つけることが出来た。

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