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石原特殊鎖製作所 45

それ以来僕は祖父と父の故郷である町に行っていない。
そこには父が暮らした家も、通っていた教会もなく、父たちの生活やその痕跡がたどれるようなものがなかったからだ。
もう一度僕が訪れたところで何にもならない。
僕はその町で暮らしたこともなければ、父からそこでの暮らしを詳しく聞いたこともない。そういえば、父が通っていた小学校も中学校も聞いたことがない。
父たちが暮らしていたときと変わらないのは、祖父が勤めていた高校がその時と同じ場所にあるということだけだった。
祖父が勤めていたのはもう60年も前のことで、僕がその町を訪れたときでさえ50年は経っていたのだから、多分校舎は祖が働いていた時のものとは建て替えられていただろうし、その学校に行って、祖父が勤めていた痕跡のようなものを探そうとしても、何も残っていないかも知れない。
その町に行ったとき、祖父の姿を写真でも見たことがなかったので、何かしら残っていないか、聞いてみたいという気持ちもあったのだけれど、元教員の孫ですと言って、過去の資料を見せてもらえるとも思えなかった。

祖父がその故郷の高校から、母校の東京にある大学に勤めていたことを実際に確認できたのも、学院125年史か何かで、図書館長として名前が載っていたからだった。
通常なら教員が務めるその役割を職員だった祖父が何故務めることになったのかは分からなかったけれど、数年の間図書館長をしていたと、その学院史には小さく歴代の図書館長として祖父の名前が載っていた。
祖父の顔を知らなかった僕はずっと祖父の写真を見せて欲しいと言っていたけれど、父は持っておらず、父は祖母にちゃんと伝えていなかったのか、あるいは祖母も忘れてしまったのか、それとも父自身が祖父の写真を持っていなかったということは父が祖父に対してわだかまりのようなものを持っていたのか、それはもう完全に推測でしかないのだけれど、結局祖母と伯父が亡くなり、祖母の家を片付けた後に残ったものの中から見せてもらうことが出来た。

その時には僕は30歳近くになっていて、その時になってようやく祖父と写真越しにだけれど、顔を合わすことが出来た。
それはとても不思議な感じがした。周りの同級生や友だち、あるいは僕の子どもたちは、みんなおじいちゃん、おばあちゃんに会ったことがあったし、殆どの人はみんなまだ生きていた。
けれど、僕は父の祖父には会ったことがないだけでなく、顔さえも知らなかった。
そして、母方の石原の祖父母も僕が小学生になる頃に死んでしまったので、記憶の中では顔を思い出すことが出来ない。
実家に飾ってある2人の写真を見ていたから顔は分かるけれど、何かを話したりしたこともなければ、祖父母と僕が写っている写真さえ、一枚しかない。

僕のこどもたちや周りの人たちには当たり前のようにいる祖父母という存在。
でも、僕は祖父母のことは殆ど知らないし、30歳近くになるまで、全員の顔さえも知らなかった。
もしかしたらよくあることなのかも知れないけれど、少なくとも僕の近しい人にはいなかったし、そもそも、祖父母が明治生まれだということも聞いたことがなかった。
そういえば、父親が戦中生まれだということも聞いたことがない。
親の年齢が少し高く生まれてきたといっても、その殆どが戦後のベビーブーム時代の人たちで、僕のように父親が戦中、母親がベビーブームという友だちや同級生には会ったことがない。

祖父が写真に映っていた場所は、僕も通った大学の図書館の前で撮られたものだと一目見て分かった。
図書館長をしていた時に撮られたものなのか、何かしらの誇らしさというか、実直さが浮き出るような姿をし、白いシャツにネクタイを締めたモノクロの祖父が立っていた。
顔は父とも僕とも似ていなかったけれど、祖父がかけているメガネは父と母の結婚式で撮られた写真で父がしていたメガネと似ていた。

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