見出し画像

石原特殊鎖製作所 12

同じ学科では友人と呼べるような人に出会うことは出来なかったけれど、高校の時からの友人とは、飲みに行ったりはしていた。2人とは高校2年生の時から仲良くなり、僕らが通った高校では2年生と3年生でクラス替えがなかったので、2年間ずっと一緒のクラスだった。
正確には1人は1年生の時も同じクラスだったけれど、その時には殆ど話をしたことがなかった。
2年生になると2人は席順が並んでいて、2年生、3年生の2年間の間、席替えはしなかったので、2人が仲良くなり、僕は2人とは対角線の教室の後ろの端っこだったのだけれど、1人とは僕が1年生の時少しだけいた部活が一緒で、彼も部活を辞めていたので、なんとなく仲良くなった。

その時にはなんとなく仲良くなった、と思ったのだけれど、あとで考えると、僕を含めた3人とも置かれている家庭環境が似ていた。両親にとって二番目の子どもであり、その高校に見合っているような経済状況ではないというか、ギリギリ通えているような家庭にいた。
住んでいるところは都県が3人とも違っていたけれど、3人とも高校の時からアルバイトをしていた。
1人が登校時間の1時間くらい前に来ていて、もう1人もそれに合わせて来ていたので、僕もそれに合わせて登校するようになった。
部活の朝練をしているよりも前に、門にいる守衛さんが来るような時間に僕らは登校し、誰もいない校庭でキャッチボールしたり、なんだかよく分からない理由で走ったりして過ごしていた。
僕らが大学に進むことになったとき、1人は法学部へ、1人は経済学部へ、そして僕は文学部に入ることにした。

学部が違うので2人と会う機会は当然減った。
同じ授業に2人はおらず、特に友人と言えるような同じ学科の人もいない。特に僕が通った学科はその大学の中で一番人数の少ない学科だったので、高校の時の一クラスと殆ど変わらない人数だったのだけれど、僕が大学の人数の多さや、新しい環境に戸惑っている間に、既にその中ではいくつかのグループが出来ていて、グループに入らない人は、サークルなどに入って順調に大学生活というか人間関係を築いているように見えた。

今になって思うと、僕が大学の環境に一番戸惑ったのは、キャンパスが人工物であふれていたからなのだと思う。
僕らが通った高校は、僕らが2年生になると、中学校が併設され、それに伴い食堂が解体され、そこに中学校の校舎の建設が始まった。
それまでの高校生しかいない中で、なんだかよくわらからない小さな子どもたちが突然やってきて、校舎が出来るまでの間、入学してきたその中学生たちは図書館の上の教室にいた。
僕は図書館に毎日のように行っていたので、中学生たちが授業で図書館にいたり、2階から響く中学生たちの音に時々うんざりしたし、なによりも食堂がなくなったあとの2年間、食堂で昼食を取れないことが何よりも、恨めしかったけれど、それにはまぁ、仕方がない、と思うことが出来た。

けれど、大学に通うようになり、一番戸惑ったのは、木が見えない、ということだった。
僕らが通っていた高校は父が通っていた時と同じ30年くらい経っていた校舎で、グラウンドは、陸上用、サッカー用、テニスコート、野球用、更に特に何もないところには木が生えていた。
立派な大きく手入れされていた木から、あまり手入れされていないような木もあり、僕は基本的に授業で教師が話していることは聞かずに小説を読むか、寝るか、あるいは窓の外に見える木を見ていた。

大学にはそれがなかった。
木は少しだけあったけれど、キャンパスには人工芝のグラウンドしかなく、敷地の殆どは校舎で埋め尽くされていた。
今になって思うと、その校舎で埋め尽くされたキャンパスと、その校舎が必要なほどに沢山いる学生の多さに僕は戸惑い、混乱していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?