見出し画像

石原特殊鎖製作所 50

上申書に書いた調停員の男性を変えて欲しいという要望は通ることはなかったけれど、最終的には、財産分与と養育費の金額が決まった。
あまりにも長い間調停をしていたので、僕としては、これで決まらなかったら審判に、という気持ちで臨んだ調停で、突然元妻が折れ、調停が終わった。
元妻の意向としては、子どもたちを育てるにはお金が必要で、だから一切お金を払う気はなく、その上で僕に養育費を要求していた。
けれど、それぞれが提出した資料から見れば、元妻の収入が圧倒的に高く、僕はパートで稼ぐような金額でしかなかったので、養育費は微々たるもので、財産分与に関しても、僕が持っていたお金は結婚したときより少なくなっていたので、むしろマイナスになっていた。
マイナス分を分けるということは出来ないということで、結局結婚していた間に蓄えられた元妻側のお金を均等に割る形になった。

その財産分与と養育費の金額が決まったあと、僕はもう元妻とは関わりたくないので、養育費を一度に払いたいと調停員に伝えたところ、調停員からは、養育費は子どもたちのもので、元妻のものではなく、父である僕と子どもたちとの関係にあるものなので、毎月子どもたちに払うようにと言われた。
子どもたちとの関係を維持するためにも毎月子どもたちの口座に振り込むこと、確かにそれならば今は元妻が管理しているかも知れないけれど、通帳には毎月僕の名前が残ることになるし、元妻がその口座から勝手にお金を引き出すということはないというか、そこまでするような人間ではないと信じたかったこともあり、調停員の言うとおりにすることにした。

財産分与と養育費の他に決めた子どもたちとの面会は、とても緩やかな決まりに落ち着いた。
毎月一回会うとか、宿泊することもあるとか、最初はそういう具体的な内容を決めようとしたが折り合いが付かず、最終的には子どもたちが会いたいと思ったとき、あるいは子どもたちが僕と会うことが必要だと思ったときに、最大限それが実現するように僕と元妻がお互い配慮するということになった。
と言っても結局子どもたちから会いたいという連絡は殆どなく、僕から連絡を取り、会う形が殆どだった。
あるいは、子どもたちの学校での行事、運動会などを僕が事前に調べて行くくらいで、それは月に一度とかではなかったので、最初は、いや今でも苦しく感じるときがある。

毎日食事を用意し、洗濯をし、保育園に送りに行き、お迎えに行き、習い事について行き、一緒にお風呂に入り、保育園や学校での話を聞き、夕食を食べ、寝る前に絵本を読む。
12年も繰り返していたその毎日が突然なくなった。
誰かが殆ど常に一緒にいる生活から、殆ど1人でいる生活になるのは、さみしさというよりも苦しさを強く感じた。
それは端的に孤独というものだったのだと思う。
その孤独を埋めるために、それまでだったら、家事育児や子どもたちと接していた時間がなくなった分、余計に時間というものを意識することになり、時間がやたら余って仕方がなく、何をすれば良いのかも分からず、タバコを吸って時間を潰していた。
時間があるということは仕事に忙殺されたり、それに加えて育児家事をしている人たちや介護をしている人たちのような人には、うらやましがられることもあるのだろうけれど、時間があるということで苦しみを感じさせることもあるということを僕はその時初めて認識したような気がする。

僕は1人になったのだった。
それは生まれてから初めての経験だった。
家に帰れば、その時には誰もいなくても、そのうち誰かが帰ってくるか、帰ったときには誰かがいる生活を35年近く送ってきた。
誰もいない家に帰り、誰も帰ってこない家で過ごすのは初めての経験で、僕の生活は怠惰になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?