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石原特殊鎖製作所 38

墓参りに行く度に、木が切られ、山が削られ、拡張され続けていく霊園を見るのはつらい。
これからも次々に人は死んでいき、残されて管理されずに放っておかれる墓が増える一方、新しい墓が作られていくだろう。
実際に祖父母と伯父の遺骨が入っている墓の周囲にある墓には何年も放っておかれて、雑草が生え、朽ちてきている墓も多い。
僕は、子どもたちに単に墓の管理をさせるという面倒なことをさせたくないと同時に、放っておかれる墓がある一方、木が切られ、山が削られていく様子を見るのが嫌なのだ。

僕がまだ小さな時、両親に連れられ、春、その霊園に行くと、そこには桜並木があり、斜面の高台にある祖父の遺骨が納められている墓から反対側を眺めると、木が生い茂り、桜や、少し時期がずれると山の中に藤の花が咲いている様子が見えた。
秋になると紅葉が見られ、霊園に行くだけで、―その頃の僕にとっては長旅に感じられるような遠くにあり、車なしではとてもたどり着けないような場所にあるのだけれど―、その山を見る度に、季節を感じることが出来た。
けれど、もう、その霊園の墓から見る景色は一面墓で埋め尽くされている。
桜並木はあるし、遠くの方を眺めれば確かに山が見えるのだけれど、反対側の斜面は次々に木が切られ、山が削られ、そこに無数の墓が建てられている。

人はいつか死ぬ。
だからといって、その遺骨を毎回墓に納め続けていれば、墓の数は増え続け、人の数が少なくなっている今、無縁墓や放置される墓は必然的に増える。
だからこそ、祖父母と伯父の遺骨が納められている墓は、いつかなくさなければならない。
それは今すぐやれることではないけれど、両親が死んだ後、必ずやらなくてはならないことだ。
それについても兄と話をしなければならない時が来る。
両親にもそれとなく今のうちから言っておかなければならないかも知れない。
もしかしたら反対されるかも知れないけれど、反対されたとしても、それは僕がやらなくてはならないことなのだ。
たとえ反対されたとしても、両親が死んだ後ならば、あとは兄と僕とで決めることが出来る。

両親が死に、僕と兄が死んだ後、残されるのは僕の子どもたちなのだ。
子どもたちのことを考えたら、数回しか連れて行ったことのない、しかも長男しか連れて行ったことのない、その墓を守らせることは出来ないし、僕自身はそれを望んでいない。
兄と死んだ後、あの墓をどのようにしたいのかを聞かなければならないし、20年以上も話をしていない兄と話すこと自体どのような展開になるのか想像も予想も出来ないけれど、きっと強い反対をされることはないだろうと思う。
実家や両親が残したお金は財産ではあるけれど、墓はどう考えたって負債なのだ。
だからこそ、兄は反対しないと僕は思っている。

墓をなくすにはどのような手続きが必要なのか具体的には分からない。
けれど、共同墓地はあるし、僕自身の遺骨は細かく砕いて、森にでも撒いてくれれば良い。
僕自身は死んだら、なるべく痕跡が残らないようにして欲しい。なにせ、僕らは塵から生まれたのだから。
けれど、それを決めるのは、僕の子どもたちなので、それについてはいつか子どもたちと話しをしなければならない時が来るかも知れない。
その時間もなく、突然に僕の死がやってくるかも知れないけれど、その時には、まだ僕の両親がいるので、意思だけは伝えておけば、後は残った人たちが考えれば良い。
もしかしたら、墓を守るというかも知れないし、そうしたら、墓は残すことになるだろう。
そこには墓自体にはほぼ行ったことがないとしても、子どもたちにとっての祖父母と伯父の遺骨が納められ、もしかしたら、灰にと骨になった僕を形作っていたものが納められるのかも知れない。

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