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戦間期のブルガリア航空産業(1920~30年代)

※この記事は、個人ウェブサイト( https://pier3.penne.jp/bulavia/top.html )に掲載した記事(https://pier3.penne.jp/bulavia/1-2.html)を転載したものです。なお転載にあたり、読みやすくするために一部改稿・画像の追加などを行っています。

国営航空機工廟「DAR」製の航空機たち

ボジュリシュテ飛行場にて展示される「DAR」製航空機(1926年撮影、パブリックドメイン)

 第一次大戦後、ブルガリアにおける航空機生産の歴史は、既存の機体のコピー生産から幕を開けた。

 1925年7月、ブルガリア政府は第一次大戦後に破壊された航空産業の基盤を再建すべく、ドイツ人技師ヘルマン・ヴィンターを招聘した。ヴィンターの指導の下、ボジュリシュテの「DAR」(国営航空機工廟)ではまず第一次大戦時のドイツ機のコピー生産が開始された。(「U-1」および「DAR-2」の2機種)これらコピー生産機にて経験を蓄積した「DAR」では、1926年よりオリジナル設計機「DAR-1」の製造が開始された。

ブルガリアでの航空機製造において、ヌイイ・シュル・セーヌ条約の規定(戦闘能力を持つ航空機を所持することを30年間にわたって禁止し、またエンジン出力を180馬力までに制限するもの)、そして官僚的・保守的な軍当局の姿勢は、常に制約としてつきまとった。
たとえば1930年に試作された軽戦闘機・高等練習機「DAR-5」は、戦闘機としての性質がヌイイ条約の制約に抵触することから量産化が阻まれた。
また、1933年に試作された、モノコック構造・密閉式風防といった先進的な設計の単葉連絡機「DAR-7 SS.1」は、適切な大馬力エンジンを調達できなかったこと、およびより保守的な設計の機体を好む軍当局の姿勢から量産化が見送られることとなった。このような要因から、1920年代から1930年代前半までの「DAR」製の機体は、低馬力エンジンを搭載した複座・複葉機という、技術的には「枯れた」設計のものばかりであった。

「カプロニ・ブルガリア」社製の航空機たち

 戦間期ブルガリアにおける航空機製造は、なにも「DAR」一社が一手に引き受けていたわけではない。
1930年にはイタリア資本の「カプロニ・ブルガリア」(KB)社が設立され、カザンラク市の航空機工場(1927年よりチェコスロヴァキア資本で建設が進められるも、チェコスロヴァキア-ブルガリア間の交渉決裂により宙に浮いた存在となっていた)での航空機生産が行われた。
当初はイタリア・カプロニ社製の機体をベースとした改良機の製造を行っていたが、先述のヌイイ条約の制限から、いずれも低馬力エンジンを搭載したベーシックな機体に限定されていた。しかし、1930年代後半になるとオリジナル設計の機体も手掛けるようになり、1932年から1942年までの間に合計8機種を生産した。

1930年代後半のブルガリア航空産業

DAR-3「ガルバン」III型。第二次大戦時にも運用され、戦後はユーゴスラヴィア空軍に引き渡された。(パブリックドメイン)

1930年代後半になると、ブルガリア空軍は従来の消極的・保守的な姿勢から一転し、装備近代化を通じた空軍力の積極的な拡充を図るようになった。近代化にあたっては、外国製軍用機の輸入と並行して、国内メーカーに対しても近代的かつ高性能な機体の発注が行われた。
1938年にテッサロニキ協定(サロニカ協定)が発効し、ヌイイ条約による軍備制限・馬力制限が解除されたこともあり、DAR・KB両社ではブルガリア空軍の要求に基づいた新型機および改良機の設計・製造が積極的に行われた。この時期に製造された、DAR-3「ガルバン」KB-6「パパガール」などといった機体は、同時期の他国製機体と遜色のない性能を持つ、すぐれた機体であった。

増大する国内航空機需要に応えるべく、ブルガリア政府は北西部の街ロヴェチに新たな工場を建設することを決定した。国営航空機工場「DSF」と名付けられたこの工場では、「DAR」設計による各種機体の大規模生産のほか、近隣諸国の航空機メーカー(ポーランド・PZL社、チェコスロヴァキア・アヴィア社など)と協業しての新型機開発が計画されていた。しかし1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦が勃発したことで、これらの計画は破綻することとなった。

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