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第8回 釈尊(お釈迦様)は、なぜ出家したのか?

 小国とはいえ一国の王子であった釈尊が、29歳の若さで、次期国王の座を捨てて出家したのは、仏典に記された事実です。当時、お妃(ヤショーダラー)との間に一子(ラーフラ)をもうけており、妻子を捨てて出家したのです。
 周囲が羨(うらや)むような境遇にありながら、なぜすべてを捨てて出家したのでしょうか?

 仏典では、お城の東門から出たときに老人を見、南門から出たときに病人を見、西門から出たときに死者を見、北門から出たときに清らかな修行者を見て出家を決意した、という四門出遊(しもんしゅつゆう)の出来事が紹介されています。
 しかし、それだけの理由で、すべてを捨てて出家したとは、到底思えません。もっと深い理由があったはずです。

 仏典には、出家した後、アーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカラーマ・プッタ仙人の下で修行し、二人が指導する瞑想行を両方とも完成させた後、それに満足することなく、さらに、別の難行・苦行に挑み続けたと書かれています。
 そして、難行・苦行では究極の平安である「悟り」を得ることはできないと気づき、方針を転換して菩提樹の下で静かに瞑想に入り、ついに「悟り」を証得したと記されています。出家してから6年後、釈尊35歳の時です。

 6年間もの間、挫折することなく、強い決意で求め続けた「悟り」とは、どのようなものであったのか。すべてを捨ててまで、求める必要性を感じた「悟り」とは、どのようなものであったのか。

 釈尊が生きていた時代、人々の心を支配していたのは、バラモン教の教えです。一国の王子であった釈尊は、帝王学の一環として、バラモン教を学んでいたはずです。
 従って、当時のバラモン教の中に、出家を決意させるほどの、重要な教えが存在していたと考えるべきです。

 バラモン教の教えの中で私が最も注目するのは、「輪廻転生(りんねてんしょう)」と「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の二つの教えです。この二つの教えに導かれて、釈尊は、出家生活を選んだのだと思います。

 二つの教えでは、「アートマン(漢訳で我)」が、共通した主語になっています。
 前者は、「アートマンは、(解脱しない限り)、永遠に輪廻転生する」ことを、後者は、「アートマンは、(解脱すれば)、ブラフマン(漢訳で梵)と一体化する」ことを説いています。
 釈尊は、この二つを至高の教えとして修行に励み、ついに、仏陀の境地(=ブラフマンとの一体化)に達したのです。

 ところが、釈尊亡き後の仏教教団は、「アートマンは無い(無我)」と解釈してしまい、つじつまを合わせるために、細々(こまごま)とした難解な教理を展開しました。
 それが、現在に至る、仏教の混迷を引き起こしたのです。

 私は、「般若心経」のサンスクリット原文である「法隆寺貝葉写本」を、梵文の構成形式から検討し直して、現代日本語に翻訳しました。
 その結果、釈尊が目指していたのは、苦の連鎖である「輪廻」の流れから脱却(=解脱)し、永遠の平安であるブラフマン(梵)との一体化、すなわち、「梵我一如」を実現することだったのだと確信しました。
 「梵我一如」を実現するための修行法、それが、「プラジュニャーパーラミター(漢訳で般若波羅蜜多)」と名付けられた瞑想修行法だったのです。
 「法隆寺貝葉写本」の梵文は、その瞑想修行法のプロセスを、筆頭弟子シャーリプトゥラ(漢訳で舎利子)に教示するために、釈尊が伝授したものだったのです。

 「法隆寺貝葉写本」には、肉体から解き放たれ、不可思議な動きをする「意識(魂)」のことが書かれています。これが、バラモン教でいう、「アートマン」のことだと思います。
 「アートマン」と「肉体」が一体化したもの、それが「人間」だという認識です。
 「アートマン」は非物質的な「意識(魂)」であり、物質的な「肉体」とは異なる「もの」である、と理解すべきだったのです。
 それを、どこでどう間違ったのか、釈尊の弟子たちは、「アートマンは無い」と解釈してしまったのです。

 最古の仏典である「スッタニパータ」の第754詩に、次のような記述があります。(「ブッダのことば」中村元訳 岩波文庫より引用)
 《第754詩 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる》
 ここでの「消滅」は、「ニルヴァーナ」を意味します。
 分かりやすく意訳すると、
(地球のような)物質世界に生まれている諸々の生存者(人間)と、(天界のような)非物質世界に住んでいる諸々の生存者(神々、菩薩)とは、まだニルヴァーナに到達していないので、再びこの世に輪廻転生してくる
となります。
 つまり、物質的領域と非物質的領域に共通して存在する「アートマン」は、解脱しない限り(=ニルヴァーナに到達しない限り)、永遠に輪廻転生を繰り返す、と言っているのです。
 ちなみに、西方極楽世界や東方浄瑠璃世界等の浄土世界は、天界と同等の世界であり、ニルヴァーナとは全く異なる、輪廻の流れの中にある世界です。最終ゴール(=ニルヴァーナ)ではないのです。

 現在は科学技術があまりにも発達しすぎて万能視され、科学で証明されない事象・現象は、すべて、非科学的な妄想・幻覚・迷信だとして一蹴されています。
 非物質的な事象・現象を解明する手段・方法は、物質世界の科学・技術には存在しないのです。
 「臨死体験」や「スピリチュアル体験」等の「体外離脱体験」は、多数の人が経験している現象ですが、任意の再現性に欠け、安全に実現されるものでもありません。
 しかし、釈尊が体得した瞑想による「体外離脱体験」は、困難な修行を伴いますが、実現可能なものです。
 アートマンと一体化しているすべての人間は、瞑想修行により仏陀になれる可能性がある、というのが釈尊が自ら体得した境地であり、広めようとした教えの根幹ではないかと思います。

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