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第26回 「法隆寺貝葉写本」を読み解く・・・その9

 今回は、「第8段 到彼岸瞑想行への賛辞」の現代日本語訳を紹介します。
 この段にも、玄奘の重大な誤訳があります。

 「第8段 到彼岸瞑想行への賛辞」のサンスクリット原文は、次の4行です。

tasmaa jJaatavyaM
prajJaapramitaa mahaa maMtro mahaa vidyaa maMtraH
anuttara maMtra asamasama maMtra sarva duHkha prazamanaH
satyaM amithyatvaak prajJaapaaramitaa yaa mukto maMtraH

 玄奘は、この第8段を、「故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多咒。」と漢訳しています。


 1行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

Tasmaa jJaatavyaM(タスマー ジュニャータヴヤン)

 玄奘は、この1行目を、「故知」と漢訳しています。

 1行目の現代日本語訳は、次の通りです。

 故に(tasmaa)知るべし(jJaatavyaM)


 2行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

prajJaapramitaa mahaa maMtro mahaa vidyaa maMtraH(プラジュニャープラミター マハー マントゥロー マハー ヴィドゥヤー マントゥラハ)

 玄奘は、この2行目を、「般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。」と漢訳しています。

 上記のように、「法隆寺貝葉写本」のサンスクリット原文では、先頭の単語が、prajJaapramitaa(プラジュニャープラミター)となっています。
 prajJaapaaramitaa(プラジュニャーパーラミター)を誤写したのではないかと見なされていますが、他の文献にも同様な使用例があり、単純な誤写でもなさそうです。

 maMtro(マントゥロー)、mantraH(マントゥラハ)は、漢訳では「咒(しゅ)」とか「呪(じゅ)」と訳され、邦訳では「真言(しんごん)」と訳されています。
 私は、梵英辞書のmantra(マントゥラ)の項に「a means」(手段、方法、道具、手立て)の訳語があることから、「法隆寺貝葉写本」の梵文の場合は、宗教的な「行法」(ぎょうほう)と訳すべきだと判断しました。

 2行目の現代日本語訳は、次のようになります。

 到彼岸瞑想行は(prajJaapaaramitaa)、偉大な(mahaa)行法であり(mantraH)、偉大な(mahaa)明(悟り)の(vidyaa)行法である(mantraH)。


 3行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

anuttara maMtra asamasama maMtra sarva duHkha prazamanaH(アヌッタラ マントゥラ アサマサマ マントゥラ サルヴァ ドゥッカ プラシャマナハ)

 玄奘は、この3行目を、「是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。」と漢訳しています。

 この行は、特に問題となる個所はありません。主語は、2行目と同じく、prajJaapaaramitaa(プラジュニャーパーラミター=到彼岸瞑想行)です。
 「能除」と漢訳されているprazamanaH(プラシャマナハ)は、「calming」(沈静すること)等の訳語を持ち、ここでは、「制(御)するもの」と訳します。

 3行目の現代日本語訳は、次のようになります。

 無上の(anuttara)行法であり(mantraH)、無比の(asamasama)行法であり(mantraH)、全ての(sarva)苦を(duHkha)制するものである(prazamanaH)。


 4行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

satyaM amithyatvaak prajJaapaaramitaa yaa mukto maMtraH(サトゥヤン アミトゥヤトゥヴァーク プラジュニャーパーラミター ヤー ムクトー マントゥラハ)

 玄奘は、この4行目を、「真実不虚故。説般若波羅蜜多咒。」と漢訳しています。

 この4行目は、マックス・ミュラーと中村元氏のサンスクリットテキストでは、共に、satyam amithyatvaat prajJaapaaramitaayaam ukto mantraHとなっています。
 マックス・ミュラーや中村元氏は、明らかに、玄奘訳に合わせるようにサンスクリット原文を分かち書きしています。
 ここに、これまで長い間見逃されてきた、重大な問題が潜んでいるのです。

 はっきり言えば、最初の漢訳以来全ての漢訳・英訳・邦訳「般若心経」で、この4行目は、サンスクリット原文の分かち書きを間違えて、「ぎなた読み」して誤訳されたまま今日に至っているのです。

 「ぎなた読み」とは、「弁慶が、なぎなた(長刀)を持って」という文章を、「弁慶がな、ぎなたを持って」と、間違った区切り方をして読むことを言います。

 玄奘は、サンスクリット原文prajJaapaaramitaa yaa mukto maMtraH(プラジュニャーパーラミター ヤー ムクトー マントゥラハ)を、prajJaapaaramitaayaam ukto maMtraH(プラジュニャーパーラミターヤーム ウクトー マントゥラハ)と間違った区切り方をして、「説般若波羅蜜多咒」と漢訳しています。
 既存の全ての「般若心経」が、これをそのまま踏襲しているのです。

 サンスクリット原文のmukto(ムクトー)は、「(世俗的な存在や罪業から)解放されること」、すなわち、仏教でいう「解脱」(げだつ)を意味します。

 yaa(ヤー=女性名詞・主格)には「religious meditation」(宗教的瞑想)という訳語があり、prajJaapaaramitaa(女性名詞・主格)と同格・同意の関係にあります。

 問題は、amithyatvaak(アミトゥヤトゥヴァーク)をどう訳すかです。

 漢訳では「不虚」、マックス・ミュラー訳では「it is not false」、中村・紀野訳では「偽りがないから」と訳されています。

 一方、amithyatvaakを、「否定語a」「動詞mith」「未来受動分詞を形作るya」「抽象名詞を形作るtva」の四つに分解すると、全く違った訳文が導かれます。

 まず「動詞mith」の意味を梵英辞書で調べると、いくつか訳語がある中で、この文脈では、「to hurt」(傷つけること、損ねること)が最も適訳ではないかと判断しました。
 「to hurt」が適訳だとすると、amithyatvaakは、「(心身を)損ねることなく」という意味になり、前後の文意も無理なくつながり整合性のある訳文が導かれます。

 これらを総合すると、4行目の現代日本語訳は、次のようになります。

 宗教的瞑想である(yaa)到彼岸瞑想行は(prajJaapaaramitaa)、本当に(satyaM)、(心身を)損ねることなく(amithyatvaak)、解脱に至る(muktaH)行法である(mantraH)。

 ここで初めて、到彼岸瞑想行(prajJaapaaramitaa)が宗教的な瞑想行であることが、明示されます。


 「第8段 到彼岸瞑想行への賛辞」をまとめると、次のようになります。

 ゆえに知るべし
 到彼岸瞑想行は、偉大な行法であり、偉大な明(悟り)の行法である。
 無上の行法であり、無比の行法であり、全ての苦を制するものである。
 宗教的瞑想である到彼岸瞑想行は、本当に、(心身を)損ねることなく、解脱に至る行法である。

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