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第31回 釈尊(お釈迦様)は、二つの道しか説かなかった!

 現在、仏教には八万四千の法門(宗門・宗派)があると言われています。そして、それぞれの宗門・宗派は、自分たちが信奉している教えは、全て釈尊(お釈迦様)が説いたものだと自賛・自称しています。
 しかし、釈尊が実際に説いた教えを伝承している、最古の仏教経典「スッタニパータ」には、二つの道(到達すべき目標)が説かれているだけです。

 一つは、自らが仏陀になることを目指す、求道(ぐどう)の道であり、もう一つは、今の人生より優れた境遇・環境に輪廻転生(りんねてんしょう)することを目指す、信仰(救済)の道です。

 求道の道は出家修行者に向けて説かれている道で、ニルヴァーナ(涅槃)への解脱か、天界(梵天界)への昇天を目指しています。
 修行者に対して非常に厳しい戒律・修行を課しており、修行者は、家族や友人・知人との全ての絆(きずな)を断って、独り、人里離れた森の中や山の中にこもって修行することを求められています。

 このように厳しい修行が求められているのは、釈尊が証得した「悟り」は、他人から教えられたり書物を読んだりして実現できるものではなく、あくまでも、自身の修行によってしか体得できないとの釈尊自身の実体験によるものです。

 この修行は結構厳しいものであるため、釈尊は、成道後、「悟り体験」は自分だけのものに留め、誰にも伝えずに、このままニルヴァーナ(涅槃)に解脱しようと決心していました。
 しかし、それを知った天界の主である梵天(ぼんてん)が釈尊の前に現れ強く翻意を迫ったため釈尊も思い直し、機根(素質)のある者だけに自らが証得した「悟り体験」を説くようになった、ということが「梵天勧請」(ぼんてんかんじょう)というエピソードに書かれています。

 その機根(素質)のある者の第一人者が、釈尊の筆頭弟子であるサーリプッタ(舎利弗)です。サンスクリット語では、シャーリプトゥラ(舎利子)と表記されます。

 最古の仏教経典「スッタニパータ」の557詩には、《サーリプッタは、私に続いて出現した人です》と書かれています。
 サーリプッタは、釈尊から伝授された求道の道を実践・成就し、釈尊に続いて仏陀になった人なのです。

 「スッタニパータ」の557詩には、《私が回した無上の「真理の輪」(法輪)をサーリプッタが回す。》とも書いてあります。
 釈尊は、自分の後継者を、サーリプッタと定めていたのです。

 しかし、サーリプッタは釈尊より前に亡くなり、後継者として活躍することはありませんでした。
 釈尊最後の旅の様子を記した「大般涅槃経」(だいはつねはんぎょう)には、亡くなる前の釈尊が、自分の後継者を指名しなかったことが書かれています。
 このことは、釈尊と同等の仏陀のレベルにまで到達したのは、サーリプッタだけだったことを示唆しています。
 それくらい、仏陀になる、求道の道は険しいものだったのです。

 一方、信仰(救済)の道は、人里離れての修行など望むべくもない在家信者を、何とか救ってやりたいとの思いから説かれた教えです。

 教えの内容は、いわゆる倫理道徳の範疇(はんちゅう)に属するもので、極端な生活・行動を戒め、中道・八正道(はっしょうどう)・六波羅蜜(ろくはらみつ)を実践した生き方をしなさいというものです。

 この信仰(救済)の道が目指すのは、求道者が目指すニルヴァーナ(涅槃)への解脱(げだつ)や天界への昇天ではなく、西方極楽世界や東方浄瑠璃世界などの、如来(修行成就者)が誓願を立てて造った浄土世界への往生(おうじょう)です。
 私は、キリスト教でいう天国も、浄土世界の一種ではないかと思っています。

 仏教の歴史では、仏陀になることや天界に昇天することを目指す求道の道(いわゆる小乗仏教)が最初に生まれ、数百年後に、浄土世界への往生を目指す信仰の道(いわゆる大乗仏教)が生まれた、というのが定説になっています。
 しかし、最古の仏教経典「スッタニパータ」を読んでみると、二つの道は、釈尊の教えとして、同時期に説かれているのです。

 二つの道は釈尊在世時ははっきりと分かれており、出家修行者や在家信者が交じり合うことはなく、別々の集団として、それぞれの目標に向けて信仰・修行していたと思われます。
 しかし、釈尊が亡くなった後、時代を経るにつれてその垣根はあいまいになり、両者が混交し合うようになった結果、多様な教えが生まれ、法門が乱立するようになったのではないかと思います。

 意外に思われるかもしれませんが、日常生活上の規範とされる中道や八正道それに六波羅蜜の実践は、必ずしも、仏陀になるためや天界に昇天するための必要条件ではないのです。

 仏陀になるための修行法を説いた「法隆寺貝葉写本」には、明確に、プラジュニャーパーラミター(漢訳で般若波羅蜜多。私の訳で到彼岸瞑想行)を行じるだけで仏陀の境地に達することができる、と説かれています。

 求道の道と信仰の道は、明確に区別されるべきものなのです。

 成仏(じょうぶつ)という言葉が安直に使われ、浄土世界への往生も念仏だけで簡単に実現できるとされているにもかかわらず、昨今、人々は仏教を忌避し遠ざかろうとしています。
 僧侶も、葬儀会社が主宰するセレモニーの、一構成員に過ぎなくなっています。
 仏陀になるための修行を目的に造られたであろう、山間部にある寺院の荒廃は、目に余るばかりです。

 救いを求める人が、減ったわけではありません。むしろ、増えています。

 釈尊が説いた二つの道は、混迷が深まり、将来への環境危機が迫る現代にこそ、再確認され実践されるべきものではないかと思います。

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