第25回 「法隆寺貝葉写本」を読み解く・・・その8
今回は、「第7段 ニルヴァーナ」の現代日本語訳について紹介します。
これまでの「法隆寺貝葉写本」現代日本語訳で、私は、「ニルヴァーナ」を意味する単語(iha=イハ)を、「彼岸世界」という訳語で紹介してきました。
しかし、この第7段では、原文に「ニルヴァーナ」という単語が出てきますので、翻訳せず、原語のまま表記します。
「第7段 ニルヴァーナ」のサンスクリット原文は、次の三行です。
niSTha nirvaaNaH
tryadhva vyavastitaa sarva buddhaaH
prajJaapaaramitaa azritya anuttaraaM samyak saMbodhi abhisaMbuddhaa
玄奘は、この第7段を、「究竟涅槃。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。」と漢訳しています。
1行目のサンスクリット原文は、次の通りです。
niSTha nirvaaNaH(ニシュタ ニルヴァーナハ )
この1行目は、既存の全ての漢訳・英訳・邦訳「般若心経」で、前の段(第6段)の 文末の文として解釈されてきました。
梵英辞書のniSThaの項にも、「usually at the end of comp.」との前書きがあります。
マックス・ミュラーや中村元氏のサンスクリットテキストも 、前の段(第6段)の末尾の文として、viparyaasaatikraanto niSTha-nirvaaNaH、と修正しています。
しかし「法隆寺貝葉写本」の梵文は、明らかに、atikraantaH niSTha nirvaaNaHとなっていて、atikraantaHとniSThaの間は、連声(atikraanto niSTha)にはなっていません。
つまり、atikraantaHで一つの文が終わり、niSTha nirvaaNaHは別の文になっているのです。
「法隆寺貝葉写本」に書かれている通りに解釈すれば、niSTha nirvaaNaHは、前段(第6段)の文末ではなく、第7段の文頭の言葉なのです。
niSTha(ニシュタ)には「being in or on」の訳語があり、直訳すれば、「中あるいは上に存在 している」となりますが、niSTha nirvaaNaHと続けることで、「(トリップして)到達したニルヴァーナには」という意味になります。
nirvaaNaH(ニルヴァーナ)には、過去受動分詞で7、中性名詞で13の訳語が紹介されています。
私は、「nirvaaNaH=iha=彼岸世界」と理解していますが、ここでは訳さずに原語をそのまま音写します。
1行目の現代日本語訳は、次の通りです。
(トリップして)到達した(niSTha)ニルヴァーナには(nirvaaNaH)
2行目のサンスクリット原文は、次の通りです。
tryadhva vyavastitaa sarva buddhaaH(トゥルヤドゥヴァ ヴヤヴァスティター サルヴァ ブッダーハ)
玄奘は、この2行目を、「三世諸仏。」と漢訳しています。
玄奘訳に限らず、既存の全ての「般若心経」は、sarva buddhaaH(サルヴァ ブッダーハ=諸仏)を主語として、この2行目と次の3行目を一つの文と見なして翻訳しています。
しかし、詩文形式に構成すると、2行目と3行目は、全く別の文だということが分かります。
tryadhva(トゥルヤドゥヴァ)は、過去世・未来世・現世の三世を意味します。
vyavastitaa(ヴヤヴァスティター)はvi-ava-√sthaaの過去受動分詞で、vi(ヴィ)は「separation」「disjunction」を意味する接頭辞、ava(アヴァ)は「away」を意味する前置詞、sthaa(スター)は「to stand」「to stay」「to live」「to rest or depend on」等々26の訳語を持つ動詞です。
中村元氏は、vyavastitaaを、「います」と現代日本語訳していますが、私は、viとavaが付加され強調されていることから、「飛び飛びに誕生(出現)する」と訳します。
2行目の現代日本語訳は、次のようになります。
(過去・未来・現在の)三世に(tri adhva)飛び飛びに誕生する(vyavasthitaaH)、全ての(sarva)仏陀がいる(buddhaaH)。
3行目のサンスクリット原文は、次の通りです。
prajJaapaaramitaa azritya anuttaraaM samyak saMbodhi abhisaMbuddhaa(プラジュニャーパーラミター アシュリトゥヤ アヌッタラーン サムヤク サンボーディ アビサンブッダー)
玄奘は、この3行目を、「依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。」と漢訳しています。
しかし、なぜか、abhisaMbuddhaa(アビサンブッダー)は訳さずに省略しています。
「得」の一字を、訳語として当てているのかもしれません。
この3行目は、第6段と同様にprajJaapaaramitaa(プラジュニャーパーラミター)が主語になっています。
第6段と同様に、azritya(アシュリトゥヤ=補助されることなく)と強調することで、到彼岸瞑想行を実践修行するだけで、最高の悟りの境地(=仏陀)に到達することを説いています。
「阿耨多羅三藐三菩提」と音写されているanuttaraaM samyak saMbodhi(アヌッタラーン サムヤク サンボーディ)は、仏教では「無上正等覚」と訳され、最高の悟り(=仏陀)を意味します。
abhisaMbuddhaaはabhi-sam-√budhの過去受動分詞で、abhi(アビィ)には「towards」、sam(サム)には「completeness」、budh(ブドゥ)には「to know」「to wake up」等の意味があり、全体として「完全な悟りへと導く」という意味になります。
つまり、anuttaraaM samyak saMbodhi(アヌッタラーン サムヤク サンボーディ)とsaMbuddhaa(サンブッダー)は、同じ意味(最高の悟り、完全な悟り)のことを言っているのです。
3行目を現代日本語訳すると、次のようになります。
到彼岸瞑想行は(prajJaapaaramitaa)、補助されることなく(azritya)、無上正等覚(anuttaraM samyak saMbodhiH)、完全な悟りへと導く(abhisaMbuddhaH)。
「第7段 ニルヴァーナ」をまとめると、次のようになります。
(トリップして)到達したニルヴァーナには
(過去・未来・現在の)三世に飛び飛びに誕生する、全ての仏陀がいる。
到彼岸瞑想行は、補助されることなく、無上正等覚、完全な悟りへと導く。
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