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第27回 「法隆寺貝葉写本」を読み解く・・・その10

 今回は、「第9段 エピローグ」と「第10段 終了宣言」の現代日本語訳を紹介します。
 ここで、「悟る」とはどういうことなのか、その真実が明らかになります。


 「第9段 エピローグ」のサンスクリット原文は、次の三行です。

tad yathaa
gate gate paaragate paarasaMgate bodhi
svaahaa

 玄奘は、この第9段を、「即説咒曰。掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提 僧莎訶」と漢訳しています。


 1行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

tad yathaa(タドゥ ヤター)

 玄奘は、この1行目を、「即説咒曰。」と漢訳しています。
 「即、咒(しゅ)を説いて曰(いわ)く」と読むのだと思いますが、この玄奘訳に基づいて、全ての漢訳・英訳・邦訳「般若心経」は、咒(しゅ=真言)を、次の2行目・3行目に書かれている梵文のことだと解釈しています。

 しかし、梵英辞書には、tad yathaa(タドゥ ヤター)の訳語として、「so that」「since therefore」「if then」等が紹介されているだけです。

 従って、私は、この1行目を、次のように現代日本語訳します。

 然れば(tat yathaa)


 2行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

gate gate paaragate paarasaMgate bodhi(ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ)

 玄奘は、この2行目を、「掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提」と漢訳しています。
 厳密に言えば、2行目を咒(呪文=真言)とみなし、翻訳すべきものではないとして、サンスクリット原文を、そのまま漢字で音写しているだけなのです。

 中村元氏の著作「般若経典」(東京書籍)にも、《この真言は文法的には正規のサンスクリットではない。俗語的な用法であって種々に訳し得るが、決定的な訳出は困難である。》と記されています。(注釈18 P151)

 そして、「gate(ガテー)とbodhi(ボーディ)は共に呼格である」と解説し、svaahaa(スヴァーハー)も一連の言葉とみなし、《往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、さちあれ》と現代日本語訳しています。

 しかし、中村元氏が「俗語的な用法であって種々に訳し得る」と解説するように、この2行目は、研究者によって様々に解釈されています。

 gateとbodhiは、一般的には、中村元氏の解説にあるように、女性名詞の呼格(正規の形はbodhe)と解釈されています。

 しかし、私は、梵英辞書のbodhiの項には男性名詞の訳語しか紹介されていないことから、bodhiは、男性名詞・単数・主格(正規の形はbodhiH)と解釈すべきだと判断しました。

 つまり、この2行目は、英語の「I am.」(私は、いる。)のBe動詞(am)を省略した、サンスクリット文特有の文章形式(名詞文)を形成しているのです。

 gateには「到達」、paaraには「彼岸」、saMには「完全」、bodhiには「悟り」という訳語があるので、2行目の現代日本語訳は、次のようになります。

 (意識・魂が)到達するとき(gate)、到達するとき(gate)、彼岸に(paara)到達するとき(gate)、彼岸に(paara)完全に(saM)到達するとき(gate)、悟りがある(bodhi)。

 謎めいた咒(呪文=真言)ではなく、到彼岸瞑想行を成就した暁には、(意識・魂が)、肉体から分離・離脱して彼岸(世界)に到達する、それが「悟り」の真実・真相であると何度も何度も念を押して伝授しているのです。


 3行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

svaahaa(スヴァーハー)

 玄奘は、この3行目を、「僧莎訶」と漢訳(音写)しています。

 中村元氏は、「般若経典」(東京書籍)の中で、《スヴァーハーは、願いの成就を祈って、咒の最後に唱える秘語である》と注釈しています。(注釈18 P151)

 ここまで翻訳してきて、「法隆寺貝葉写本」に書かれている梵文は、これから到彼岸瞑想行にチャレンジしようとする求道者(=シャーリプトゥラ)に対して与えられているものであることがはっきりしました。

 だとすると、svaahaaは、秘語と言うよりは、英語のGOOD LUCK(グッド ラック)やフランス語のBON VOYAGE(ボン ボヤージュ)のような、求道者に対する激励・はなむけの言葉ではないかと考えられます。
 俗に言う「がんばれ!」みたいなものです。

 3行目の現代日本語訳は、次のようになります。

 成就あれ(svaahaa)!

 ※ svaahaa(スヴァーハー)は、「法隆寺貝葉写本」から書き起こされた写本に書かれている原語ですが、「法隆寺貝葉写本」そのものにはsvaaha(スヴァーハ)と記されています。
 激励・はなむけの言葉だとすると、svaahaa(スヴァーハー)と間延びさせるのではなく、svaaha(スヴァーハ)と短く切った「法隆寺貝葉写本」の記述のほうが正しいのではないかと思います。

 私の推測ですが、この第9段は、オリジナルの段階では
tad yathaa
gate gate paaragate paarasaMgate bodhiH
svaaha
と、bodhiHで一旦息を吐き切った止音(=文章の終わり)になっていたのではないかと思います。

 「第9段 エピローグ」をまとめると、次のようになります。

 然れば
 (意識・魂が)到達するとき、到達するとき、彼岸に到達するとき、彼岸に完全に到達するとき、悟りがある。
 成就あれ!


 「第10段 終了宣言」のサンスクリット原文は、次の通りです。

prajJaapaaramita hRdaya samaapta(プラジュニャーパーラミタ フリダヤ サマープタ)

 玄奘は、この第10段を、「般若波羅蜜多心経」と漢訳していますが、「経」に該当するサンスクリット原語はありません。

 第10段は、マックス・ミュラーや中村元氏のサンスクリットテキストでは、いずれも、iti PrajJaapaaramitaa-hRdayaM samaaptam.と修正されています。
 iti(イティ)は「これで、これにて」の意味を表し、中村元氏は、第10段を、「ここに、智慧の完成の心が終った。」と現代日本語訳しています。

 玄奘が「般若波羅蜜多心経」と漢訳したのに合わせるように、サンスクリット原文を、PrajJaapaaramitaa-hRdayaM(中性名詞・単数・主格) samaaptam(中性名詞・単数・主格)と修正しているのです。

 しかし、「法隆寺貝葉写本」には、明確に、prajJaapaaramitaa hRdaya(中性名詞・ 単数・呼格) samaapta(中性名詞・単数・呼格)と書かれています。

 第9段と第10段の間には本文の終了を示す記号が書き込まれているので、本文は第9段までということになり、第10段は、samaapta(サマープタ=終了)を宣言する梵文になっています。

 サンスクリットでは、格が違えば文章の意味も全く違ってくるので、主格と呼格の違いは無視できません。
 ところが、既存の漢訳・英訳・邦訳「般若心経」は、全て、主格と解釈(修正)し、hRdaya(フリダヤ)を、「心、精髄」の意味に翻訳しています。
 「法隆寺貝葉写本」に忠実に、呼格として翻訳している著作はありません。

 しかし、印度学仏教学研究第58巻第2号所収の阿理生著『「般若心経」の成立試論』という論文を読んでみて、この第10段は、「法隆寺貝葉写本」通りに、呼格として翻訳すべきだと確信しました。

 同論文では、ヴェーダ文献の用例研究などから、hRdaya(フリダヤ)の意味として、「運ぶ手段・方法=伝達法」とするのが適切である、との論が展開されています。

 即ち、この第10段は、「般若波羅蜜多心経」という「架空の経名」を読み上げて、第9段までの本文の終了を宣言しているのではないのです。

 これから「到彼岸瞑想行」にチャレンジしようとする求道者(=シャーリプトゥラ)に対し、「到彼岸瞑想行のエッセンス(=第9段までの文章)」を口頭で伝授する、宗教儀式(=伝授式)を終了する宣言だったのです。
 だから、「主格」ではなく、「呼格」で書かれているのです。

 「第10段 終了宣言」の現代日本語訳は、次のようになります。

到彼岸瞑想行伝授式(prajJaapaaramitaa hRdaya)、終了(samaapta)。

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