見出し画像

第20回 「法隆寺貝葉写本」を読み解く・・・その3

 今回は、「法隆寺貝葉写本」の「第1段 礼拝の辞」と「第2段 プロローグ」の二つの段落の翻訳結果について紹介します。

 「第1段 礼拝の辞」のサンスクリット原文は、次の通りです。
 「namas sarvajJaaya 」(ナマス サルヴァジュニャーヤ )

 短い文章ですが、現代日本語に訳すと、「全てを覚智する御方に(sarvajJaaya)礼し奉る(namaH)。」となります。

 ただ不思議なことに、玄奘を始めとする漢訳者たちは、全員、この第1段の梵文を漢訳していません。
 彼らが原本としたサンスクリット原文(写本)には書かれていなかったのか、それとも翻訳す必要がないと考えて訳さなかったのか、理由は分かりません。

 その代わりなのかどうか分かりませんが、全ての漢訳者たちは、「般若波羅蜜多心経」(玄奘訳)等の「経名」を書き残しています。
 サンスクリット原文には、「経名」に相当する原語は、何も書かれていないのに、です。


 「第2段 プロローグ」のサンスクリット原文は、次の通りです。

aaryaavalokitezvara bodhisatvo
gambhiiraM prajJaapaaramitaayaM caryaaM caramaano vyaavalokayati sma
paMca skandhaas
taaz ca svabhaava zuunyaaM pazyati sma

 この第2段は、玄奘訳「般若心経」の、「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。」に対応しています。
 尚、「度一切苦厄」に相当するサンスクリット原文は、全く書かれていません。

 1行目の「aaryaavalokitezvara bodhisatvo 」(アールヤーヴァローキテーシュヴァラ ボーディサトゥヴォー )を、玄奘は、「観自在菩薩」と漢訳しています。
 玄奘に先行して「般若心経」を漢訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)は、この部分を「観世音菩薩」と漢訳しているので、古くは、異なる原語が使われていたのではないかと推測されています。

 すっかりポピュラーになった「観自在菩薩」ですが、不思議なことに、この「観自在菩薩」の名称は、「般若心経」だけに登場する名称であって、600巻という大部の著作である「大般若経」には、一度も出てこないのです。
 「般若心経」は「大般若経」のエッセンスを短く簡潔に要約したものである、との仏教界の定説からすれば、全く奇妙なことです。

 この事実は、昔から、「般若心経」の大きな謎とされてきましたが、「なぜなのか、理由が分からないまま」、スルーして現在に至っています。

 私は、一つ一つの単語の意味を詳しく調べ直した結果、この1行目は、「観自在菩薩」と訳すのではなく、次のように翻訳すべきだと判断しました。

 自在主を(iizvara)観じることを(avalokita)極める(aarya)求道者がいる (bodhisattvaH)。

 この現代日本語訳を確定した当時は気付かなかったのですが、後日、「スッタニパータ」を読み直してみて、「法隆寺貝葉写本」との関連性に気付き、この翻訳は間違っていなかったと確信しました。

 というのは、「スッタニパータ」の記述内容から、「法隆寺貝葉写本」の梵文は、「スッタニパータ」とほぼ同時期に成立していたのではないかと推測されるからです。
 「スッタニパータ」と「法隆寺貝葉写本」は、共に、釈尊の直説を文書化したものではないかと推測されるのです。

 「法隆寺貝葉写本」に書かれている梵文は釈尊在世時に作成された仏教文献だとすると、その当時、「観世音菩薩」や「観自在菩薩」の名称は、まだ存在していなかったはずです。
 「観世音菩薩」や「観自在菩薩」の名称は、釈尊が亡くなって数百年が経過した後、大乗仏教の興隆とともに使われるようになった名称だからです。

 玄奘に先行する鳩摩羅什は、大乗仏教の重要経典である「法華経」も漢訳しています。
 「法華経」の第25章には、「観世音菩薩普門品」(観音経)という章(品)があります。
 鳩摩羅什は、恐らく、その経名に影響されて、「aaryaavalokitezvara bodhisatvo」に該当する原語を、「観世音菩薩」と漢訳したのではないかと思います。


 2行目の「gambhiiraM prajJaapaaramitaayaM caryaaM caramaano vyaavalokayati sma 」(ガムビーラン プラジュニャーパーラミターヤン チャルヤーン チャラマーノー ヴィ アーヴァローカヤティ スマ)は、玄奘訳「行深般若波羅蜜多時。照見」に対応します。

 この2行目で一番問題なのは、玄奘訳を始め、全ての漢訳・英訳・邦訳「般若心経」が、「gambhiiraM」(ガムビーラン)を「gaMbhiiraayaaM」 (ガンビーラーヤーン)と修正して翻訳していることです。
 「法隆寺貝葉写本」のサンスクリット原文には、明らかに、「gambhiiraM」(ガムビーラン)と書いてあるのに、玄奘訳「般若心経」に合わせるように、「gaMbhiiraayaaM」(ガンビーラーヤーン)と修正しているのです。

 つまり、古今東西の全ての僧侶や仏教学者は、玄奘訳「般若心経」が正しくて、サンスクリット原文のほうが間違っている(=写し間違い)、と判断しているのです。
 他にも、このように、サンスクリット原文のほうが間違っていると解釈して、修正している個所が数個所あります。

 この最初の修正が後続の梵文全体の翻訳に影響し、「般若心経」が、全く意味不明な経典になる原因になっています。
 玄奘訳「般若心経」は正しく翻訳されていると絶対視するのではなく、誤訳だらけだという現実を直視して、全体を再検証することが必要です。

 玄奘が「gambhiiraM」(ガムビーラン)を「gaMbhiiraayaaM」(ガンビーラーヤーン)と修正して漢訳したのは、「gaMbhiiraM」(ガンビーラン)が、「prajJaapaaramitaayaM」(プラジュニャーパーラミターヤン)を修飾する言葉だと勘違いしたからです。

 サンスクリット原文通りに解釈すれば、「gambhiiraM」(ガムビーラン)は、「prajJaapaaramitaayaM」(プラジュニャーパーラミターヤン)ではなく、「caryaaM caramaano」(チャルヤーン チャラマーノー)を修飾しています。

 この2行目の翻訳には若干のサンスクリット文法の知識が欠かせませんので詳細な説明は省きますが、修正せずに、サンスクリット原文通りに翻訳した場合、現代日本語訳は次のようになります。
 尚、「prajJaapaaramitaa」(プラジュニャーパーラミター)は、玄奘訳では「般若波羅蜜多」(はんにゃはらみった)と音写されていますが、私は、原文の意を汲んで、「到彼岸瞑想行」(とうひがんめいそうぎょう)と命名して現代日本語訳しています。

 到彼岸瞑想行では(prajJaapaaramitaayaaM )、不可思議な(gambhiiraM)動きをする(caryaaM)移動可能な意識(魂)を(caramanaH)、必ず(sma)、(肉体から)分離・ 離脱して認知する(vyavalokayati)。

 信じられないかもしれませんが、「法隆寺貝葉写本」に書かれている梵文は、肉体から意識(魂)を分離・離脱させる「瞑想修行法」について、詳細に言及・叙述しているのです。


 3行目の「paMca skandhaas 」(パンチャ スカンダース )は、玄奘訳の「五蘊」(ごうん)に対応しています。

 玄奘訳は勿論のこと、全ての漢訳・英訳・邦訳「般若心経」が、この「paMca skandhaas」(パンチャ スカンダース )を、「五蘊=色受想行識」と翻訳しています。
 「paMca」(パンチャ)を数詞の「五」と解釈し、「skandhaas」(スカンダース)を「色受想行識の集まり」と解釈しているからです。

 しかし、「paMca」(パンチャ)には「数詞」だけでなく、「形容詞」としての意味もあります。
 形容詞としての「paMca」(パンチャ)は、「分散して」と訳されます。

 2行目を上記のように翻訳した場合、「paMca」(パンチャ)は、数詞ではなく、形容詞として解釈したほうが文意が明確になり、前後の文脈との整合性もとれます。
 3行目の梵文は、肉体から分離・離脱した意識(魂)が、到達した彼岸世界(=ニルヴァーナ)で垣間見る、諸世界の様相を叙述したものとなり、次のように現代日本語訳されます。

 分散して(paJca)諸世界がある(skandhaaH)。

 仏教の世界観では、彼岸世界(=ニルヴァーナ)には、無数の世界(三千大千世界=諸世界)が存在するとされています。
 その無数の世界が、「集まり、集合」を意味する、「skandhaas 」(スカンダース)という、複数形の単語で表現されているのです。


 4行目の梵文「taaz ca svabhaava zuunyaaM pazyati sma」(ターシュ チャ スヴァバーヴァ シューニヤーン パシュヤティ スマ )は、玄奘訳の「皆空」(かいくう)に対応しています。

 これだけの長さのサンスクリット原文を、「皆空」の二文字だけで漢訳する玄奘は、「見事」なのか「雑」なのか?
 後世、この「空」(くう)の解釈をめぐって様々な混乱が起きていることを考えると、罪作りな漢訳だったと思います。
 ちなみに、「pazyati sma」(パシュヤティ スマ)は、全く漢訳されていません。

 「taaz ca」(ターシュ チャ)は、英語で書けば「and them」に相当するので、この4行目は、前の3行目の内容を引き継ぐ形で書かれています。
 意識(魂)が到達した彼岸世界(=ニルヴァーナ)で、諸世界はどういう形態で存在しているのかについて書かれているのですが、次の第3段で更に詳しく述べられているので、ここでは翻訳過程を省略し、現代日本語訳だけを紹介します。

 そして(ca)、それら(taan=諸世界)自身の(sva)存在形態が(bhaava)実体を欠い ているのを(zuunyaaM)、必ず(sma)、意識(魂)で知覚する(pazyati)。

 第2段全文の現代日本語訳をまとめると、次のようになります。

「第2段 プロローグ」
自在主を観じることを極める求道者がいる。
到彼岸瞑想行では、不可思議な動きをする移動可能な意識(魂)を、必ず、分離・ 離脱して認知する。
分散して諸世界がある。
そして、それら自身の存在形態が実体を欠いているのを、必ず、意識(魂)で知覚 する。

 玄奘訳「般若心経」や中村元・紀野一義訳「般若心経」とはまるで異なる内容の現代日本語訳に、驚かれる方も多いと思います。
 しかし、第2段をこのように翻訳したことにより、後続する第3段以下の梵文が、首尾一貫したものであり、釈尊の「悟り」の内容を詳述するものであることが、明らかになります。

※ この翻訳には、東京外国語大学がインターネット上に公開している梵英辞書、「Apte Sanskrit Dictionary Search」を使用しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?