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第57回 消された章句、「是空法 非過去非未来非現在」!

  鳩摩羅什訳「般若心経」(魔訶般若波羅蜜大明呪経)に有って、玄奘訳「般若心経」(般若波羅蜜多心経)に無いもの。
 それが、「是空法 非過去非未来非現在」の章句です。

 非常に重要な教えを説いているのに、なぜか、鳩摩羅什から約250年後の玄奘訳「般若心経」では、この章句が削除されて無くなっています。

 今回は、なぜ「是空法 非過去非未来非現在」の章句は削除され無くなったのか、その理由について考えます。

 拙著「般若心経VSサンスクリット原文」(キンドル版電子書籍)で解明した「法隆寺貝葉写本」の現代日本語訳に基づきこの章句を解釈すると、この章句は、「(ニルヴァーナに分散している)実体を欠いた存在(=微細世界=諸世界)は、過去のものではない、未来のものではない、現在のものではない(=過去も未来も現在も全て含有するもの)。」という意味になります。

 即ち、(ニルヴァーナに分散して存在する)諸世界には、過去の歴史も未来の歴史も現在も、全てが内在(=確定して存在)していることを表わしています。

 こんな重要な内容を持つ章句が、玄奘訳「般若心経」では、そっくり削除されて無くなっているのです。
 玄奘訳「般若心経」の翻訳原本と同内容のサンスクリット写本ではないかと推定される「法隆寺貝葉写本」にも、この章句に対応するサンスクリット原文は記されていません。

 私は、拙著で、「(未来が確定していることを知ったら)修行僧達が、やけになったり厭世的になったりしかねない」ので、それを防止するためにこの章句は削除されたのではないかと推測しました。

 しかし、このnote上に公開されている仏教関係の論考をいろいろ読んでいて、「是空法 非過去非未来非現在」の章句が削除されたのは、上記のような単純な理由からではなく、仏教部派間・学派間の思想・教義上の対立があったからではないかと考えるようになりました。

 そこで、仏教思想・教義の変遷に焦点を当てて、「是空法 非過去非未来非現在」の章句が削除された理由について、改めて考察します。

 「是空法 非過去非未来非現在」の章句が書かれている鳩摩羅什訳「般若心経」の翻訳原本はすでに失われていて現存しませんが、私は、拙著で言及したように、この原本はパーリ語で書かれていたのではないかと推測しています。

 そう推測する理由は、鳩摩羅什訳「般若心経」の経文に書かれている「舎利弗」「般若波羅蜜」等の用語は、パーリ語の経典を漢訳する際に使用される仏教漢語だからです。
 即ち、鳩摩羅什が使用した翻訳原本は、小乗仏教の経典(=パーリ語で書かれている)ではなかったのか、ということです。

 一方、玄奘訳「般若心経」は、「法隆寺貝葉写本」等との比較から、サンスクリット語の原本から漢訳されたものであることが分かっています。
 即ち、この原本は、大乗仏教の経典(=サンスクリット語で書かれている)だということです。

 従って、いわゆる小乗仏教の経典であるパーリ語版「般若心経」から、大乗仏教の経典であるサンスクリット語版「般若心経」に移行する過程で、「是空法 非過去非未来非現在」の章句は削除されたことになります。

 この過程で削除されなければならなかった理由を考えた時、私は、小乗仏教における最有力部派である説一切有部と、大乗仏教における有力学派である中観派・唯識派との間で、「法」(ダルマ=存在するもの=諸世界)に対する認識の違い・対立があったからではないかと思います。

 三世実有・法体恒有説で知られる説一切有部の「法」に対する認識は、明らかに、三世(=過去未来現在)に渡る実体としての「法」の実在、即ち、「是空法 非過去非未来非現在」を肯定・是認する立場に立つものです。

 説一切有部の説く三世実有説とはどんな内容なのか、ウィキペディアの記述を引用して紹介します。

 《三世実有説
 説一切有部の基本的立場は三世実有・法体恒有と古来いわれている。森羅万象(サンスカーラ)を構成する恒常不滅の基本要素として70ほどの有法、法体を想定し、これらの有法は過去・未来・現在の三世にわたって変化することなく実在し続けるが、我々がそれらを経験・認識できるのは現在の一瞬間である、という。未来世の法が現在にあらわれて、一瞬間我々に認識され、すぐに過去に去っていくという。このように我々は映画のフィルムのコマを見るように、瞬間ごとに異なった法を経験しているのだと、諸行無常を説明する。》

 これに対して大乗仏教の中観派は、全ての法(=森羅万象)は実体の無い「空」であると主張し、唯識派は、実在するのは深層意識である阿頼耶識だけで、心(意識)を含めて、客観的な世界(=森羅万象)と我々が認識する全てのものは、阿頼耶識が生み出した表象(イメージ)にすぎず(=唯識無境)、実体としては何も存在しないと主張します。

 大乗仏教(中観派・唯識派)の立場からは、実体としての「法」が恒常的に実在することを示唆する「是空法 非過去非未来非現在」の章句は、到底認められない思想・教義だったのです。

 従って、大乗仏教版「般若心経」のサンスクリット経典では、意図的に、「是空法 非過去非未来非現在」に対応するサンスクリット原文が削除されたのではないか、というのが私の推測です。

 もっとも、大乗仏教が興隆した当初から「是空法 非過去非未来非現在」に対応するサンスクリット原文は削除されていたのかについては、疑問があります。
 恐らく、当初は、「是空法 非過去非未来非現在」に対応するサンスクリット原文は入っていて、途中から削除されるようになったのではないかと思われる節があります。

 その痕跡として私が注目するのが、「法隆寺貝葉写本」の1枚目の貝葉に残る、謎の空白部分です。
 「法隆寺貝葉写本」の現物写真を拡大して調べると、2枚あるうちの1枚目の貝葉の一部が斜めにカットされているように見え、不自然な空白部分ができているのです。

 当時の経典は、貝葉に書き込む、写本を作ることによって伝承されていましたが、その作業のどこかで、「是空法 非過去非未来非現在」に対応するサンスクリット原文は削除されるようになったのではないかと思われるのです。

 さらに想像を逞しくすれば、削除は、中観派又は唯識派の修行僧が写本を作成したときに、実行されたのではないか?
 「法隆寺」は元々法相宗の寺院であることや「法隆寺貝葉写本」の推定伝来年代を考えれば、この写本は、中観派か唯識派の経典の一部として持ち込まれたのではないか?

 いずれにせよ、小乗仏教版「般若心経」に書かれていたと推定される「是空法 非過去非未来非現在」の章句は、まぎれもなく釈尊の「悟り」の一部であり、無視することはできない真実です。

 「般若心経」は、この章句を入れた完全形で理解されるべきだと思います。

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