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第28回 「般若心経」と「スッタニパータ」の接点

 原典がサンスクリット語で書かれた般若心経と、パーリ語で書かれたスッタニパータ。全く異質な二つの経典に、接点はあるのでしょうか?
 現在、仏教界で、この二つの経典を関連付けて論じている僧侶・仏教学者は、まずいないのではないかと思います。
 スッタニパータは原始仏教系の経典、般若心経は大乗仏教系の経典、だと固く信じられているからです。

 私自身、般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」を現代日本語訳するまでは、そう信じていました。

 しかし、「法隆寺貝葉写本」の翻訳を終えた後、スッタニパータを読み直してみて、この両経典は、ほぼ同時期に成立した車の両輪のような関係にある経典だと気付きました。

 今回は、「スッタニパータ」と、般若心経のサンスクリット原文である「法隆寺貝葉写本」には、どんなつながり・接点があるのかについて論じてみたいと思います。

 スッタニパータは、紀元前5世紀頃に在世していたと伝えられる釈尊が、実際に説いていた教えを記録した、世界最古の仏教経典だと考えられています。

 一方、般若心経は、約600巻に及ぶ大著「大般若経」のエッセンスを短く簡潔に要約し、紀元4世紀頃に成立したと推測されている、大乗仏教系の経典です。

 両経典は何百年も時を離れて成立した経典であり、双方の経典には何の関係・関連もないと認識されている(と思います)。

 私も、スッタニパータの第5章に「彼岸に至る道の章」というタイトルがつけられているのを知る(気付く)までは、全く、関係があるとは思っていませんでした。

 「彼岸に至る道の章」というタイトルに惹かれて第5章を読んでみて、この章は、一般修行者向けの「到彼岸瞑想行」入門書みたいなものではないかと思いました。

 第5章「彼岸に至る道の章」が「到彼岸瞑想行」の入門書で、般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」に書かれている梵文が、実践修行の奥義書ではないかと思ったのです。

 更に、スッタニパータ第3章「大いなる章」の第557詩を読んだとき、推測は確信に変わりました。

 第557詩には、こう書いてあったのです。

 ≪557詩 師が答えた。セーラよ、わたしがまわした輪、すなわち無上の「真理の輪」(法輪)を、サーリプッタがまわす。かれは「全き人」につづいて出現した人です。≫(「ブッダのことば」 中村元訳 岩波文庫より引用)

 「全き人」は釈尊自身、パーリ語表記の「サーリプッタ」(舎利弗)は、サンスクリット語表記のシャーリプトゥラ(舎利子)のことです。

 つまり、シャーリプトゥラ(舎利子)は、無上正等覚を悟って、釈尊に続いて仏陀になったと言っているのです。
 シャーリプトゥラ(舎利子)は、「到彼岸瞑想行」を、見事に成就していたのです。

 これらのことから、「スッタニパータ」と般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」は、釈尊在世時に、ほぼ同時期に成立していたのではないか、と結論付けたのです。

 スッタニパータと般若心経の関係については、本シリーズの第1回に詳しく書いていますので、興味のある方は、そちらも参照して下さい。


 「法隆寺貝葉写本」全文のまとめは本シリーズの第2回に掲載していますが、再度掲載しますので、第18回~第27回の各段解説を参照しながら、スッタニパータとの関係も念頭に置いて、改めて読んでみて下さい。


 「法隆寺貝葉写本」全文の現代日本語訳

全てを覚智する御方に礼し奉る。

自在主を観じることを極める求道者がいる。
到彼岸瞑想行では、不可思議な動きをする移動可能な意識(魂)を、必ず、分離・離脱して認知する。
分散して諸世界がある。
そして、それら自身の存在形態が実体を欠いているのを、必ず、意識(魂)で知覚する。

彼岸世界では、シャーリプトゥラよ
大世界は、微細世界の形態で存在する。微細世界は、まさに、大世界なのである。
微細世界は、大世界と異ならない。大世界は、微細世界と異ならない。
大世界であるところのもの、それが、微細世界になる(変化する)のであり、微細世界であるところのもの、それが、大世界になる(変化する)のである。
受・想・行・識も、まさに、このようにある。

彼岸世界では、シャーリプトゥラよ
全ての存在するもの(諸世界)は、微細世界の形態をしている。
探知されない。限定されない。不透明でも透明でもない。
減ることはない。満杯になることもない。

それゆえに、シャーリプトゥラよ
(諸世界は)微細世界モードだから
色がない。受がない。想がない。行がない。識がない。
眼・耳・鼻・舌・身・意がない。
色・声・香・味・触・法がない。
眼界がない。さらに、意界がない。
明(悟りの世界)がない。非明(迷いの世界)がない。明(悟りの世界)が消失することがない。非明(迷いの世界)が消失することがない。さらに、経時変化がない。経時変化が消失することがない。
苦(=世界)・集・滅・道がない。

煩悩が滅却し、五感が滅却すれば
求道者(が実践するところ)の到彼岸瞑想行は、補助されることなく、心を覆うものを取り去る。
心を覆うものが存在しないから、(身体に)拘束されることなく、(心が)トリップ状態になる。

(トリップして)到達したニルヴァーナには
(過去・未来・現在の)三世に飛び飛びに誕生する、全ての仏陀がいる。
到彼岸瞑想行は、補助されることなく、無上正等覚、完全な悟りへと導く。

ゆえに知るべし
到彼岸瞑想行は、偉大な行法であり、偉大な明(悟り)の行法である。
無上の行法であり、無比の行法であり、全ての苦を制するものである。
宗教的瞑想である到彼岸瞑想行は、本当に、(心身を)損ねることなく、解脱に至る行法である。

然れば
(意識・魂が)到達するとき、到達するとき、彼岸に到達するとき、彼岸に完全に到達するとき、悟りがある。
成就あれ!

到彼岸瞑想行伝授式、終了。


 釈尊が筆頭弟子であるシャーリプトゥラに「到彼岸瞑想行」を伝授したとき、「第1段 礼拝の辞」と「第10段 終了宣言」は、なかっただろうと思います。
 この二つは、後世、「到彼岸瞑想行」の実態が失われ、単なる宗教儀式用の文書として求道者に伝授されるようになった時、新たに付け加えられたのではないでしょうか。

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