第15回 小乗仏教・大乗仏教の源流?
私は学校で、大乗仏教は、釈尊が亡くなって4~5百年後に始まったと習いました。
それまでの仏教(小乗仏教)は、自分(修行者)だけが仏陀になることを目的とする、自利(じり)の仏教であり、大乗仏教は、大衆全ての救済を目的とする、利他(りた)の仏教であるとも習いました。
しかし、過去に何度か、大乗仏教は釈尊が説いた仏教ではない、という大乗非仏説論が唱えられたことがあります。
現在は、釈尊が説法した教えに基づいているから、大乗仏教も釈尊の教えである、とされています。
しかし、仏教で最初に生成発展したのは小乗仏教であり、大乗仏教はそれから4~5百年遅れて興起・発展した、という歴史認識は今でも変わっていません。
小乗仏教と大乗仏教の教理の違いはあまりにも大きく、同じ仏教の教えなのだろうかと戸惑うほどですから、時間的にも空間的にも隔たった背景で発生したと考えるのも無理はありません。
私は、教えの中身は違っても、同じ仏教教団の中で生成・発展したから、両者とも、同じ「仏教」を名乗っているのだと思いますが、それぞれの源流がどこにあるのか、改めて考えてみたいと思います。
小乗仏教の起源が釈尊の在世時の説法にあることは、誰も異論のないところです。
問題は、釈尊の没後4~5百年後に興起したとされる、大乗仏教の起源が正しいかどうかです。
現在の学説では、大乗仏教は、経典名に「般若(はんにゃ)」を冠した、一連の「般若経典群」の成立から始まったとされています。「八千頌般若経」や「十万頌般若経」等々です。
「般若心経」も、これら「般若経典群」の中に含まれる経典だとされています。
「般若心経」の成立時期については諸説あり、確固とした定説はありません。が、大方の見方では、膨大な「般若経典」のエッセンスを短く簡潔にまとめた経典だとして、紀元4世紀頃に成立したのではないか、と考えられています。
しかし、このシリーズ第1回に掲載しているように、私は、「般若心経」は最古の仏教経典とされている「スッタニパータ」と同時期に成立した、と結論付けました。
「般若心経」のサンスクリット原文である「法隆寺貝葉写本」の梵文と、「スッタニパータ」の「第5章 彼岸に到る道」とが、同じ内容のことを説いている文献だと気付いたからです。
この事実を基に改めて「スッタニパータ」を読み直してみると、「スッタニパータ」には、明らかに出家修行者に対して説いている教えと、在家信者に対して説いている教えとが、混在していることが分かったのです。
例えば、「第5章 彼岸に到る道」は、内容から見て、明らかに出家修行者に対する教えですが、次に例示する詩句等は、明らかに、在家信者に対する教えです。(「ブッダのことば」中村元訳 岩波文庫より引用)
《第1章 六 破滅・・・「これは破滅への門である」で終わる各詩句》
《第1章 七 賤しい人・・・「かれを賤しい人であると知れ」で終わる各詩句》
《第2章 四 こよなき幸せ・・・「これがこよなき幸せである」で終わる各詩句》
《第2章 「次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。」で始まる、393詩から404詩に至る各詩句》
等々です。
特に、《404詩 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮している在家者は、(死後に)〈みずから光を放つ〉という名の神々のもとに赴く。》の教えは、後の大乗仏教(浄土教)の教えそのものです。
すなわち、釈尊は、出家修行者と在家信者に対して、異なる説法をしていたと考えられるのです。(当たり前でしょうが・・・。)
出家修行者に対しては、あくまでも、解脱して「ニルヴァーナ」に赴くことを説き、在家信者に対しては、天界(梵天界)や極楽などの「浄土世界」に赴くことを説いていたのです。
ただ、恐らく、教団内に出家修行者と在家信者が混在していたためではないかと思いますが、釈尊の没後、両者に対する教えが区別されなくなりごちゃ混ぜになったのが、後に小乗仏教と呼ばれるようになった、「自利」と「利他」がミックスされた仏教ではないかと思います。
一方、大乗仏教は、「自利」を排し、「利他」に特化した仏教だと思われています。
しかし、拙著「般若心経VSサンスクリット原文」で解明したように、「般若心経」自体が、ニルヴァーナに到るための瞑想修行法を指南した経典であることが明らかになりました。
つまり、「般若心経」は、極めて小乗仏教的な経典なのです。
それに続く一連の「般若経典群」も、本来は、小乗仏教の経典として分類されるべきものなのです。
「アートマンは無い=無我」という教理展開をしてしまったために、このような混乱が生じたのだと思いますが、小乗仏教も大乗仏教も、その源流は釈尊の説法にあることを、再確認する必要があると思います。
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