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第9回 物質的領域と非物質的領域

 前回(第8回)取り上げたスッタニパータ第754詩には、「物質的領域」、「非物質的領域」、「消滅」という三つの単語が出てきます。
 このうち、「消滅」については、「ニルヴァーナ」のことだと、前回説明しました。
 残りの二つについては、スッタニパータの翻訳書である「ブッダのことば」(中村元訳 岩波文庫)に、《物質的領域とは、色界をいう》、《非物質的領域とは、無色界をいう》と注釈されています。

 しかし、そうだとすると、第754詩は、欲界に住む我々人間の解脱については何も説いていない、というおかしなことになります。
 釈尊は、我々人間がいかにして解脱するかについて、弟子たちに説いていたはずだからです。

 物質的領域と非物質的領域については、スッタニパータの、「754詩の前文」、「754詩」、「755詩」の3篇の詩文で言及されています。
 どんな詩文なのか、「ブッダのことば」から引用して紹介します。

 《前文 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』というのが、一つの観察[法]である。『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。・・・すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。》
 《師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。》
 《第754詩 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。
 《第755詩 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。》

 「消滅において解脱する人々は、死を捨て去る」とは、「悟りに達した人々は、輪廻の流れから脱する」ことを意味します。
 二つの果報のうち「現世における〈さとり〉」も、同じことを意味しています。

 一方、「消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる」の文章は、二つの果報のうちの「煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らない」に対応していると考えられます。
 しかし、「この世の生存に戻ってくる」、「この迷いの生存に戻らない」、と結論が正反対になっています。
 この矛盾は、どういうことなのでしょうか?

 世界(=領域)を四つの区分(欲界・色界・無色界・ニルヴァーナ)に分けて説くようになったのは、釈尊が没した後のことです。
 釈尊自身は、スッタニパータの記述を見る限り、世界(=領域)を三つの区分(ニルヴァーナ・物質的領域・非物質的領域)に分けて説いています。
 では、釈尊の説く「物質的領域」と「非物質的領域」とは、具体的にどんな領域(=世界)なのでしょうか?

 意外なことに、「スッタニパータ」の記述と、「般若心経」のサンスクリット原文である、「法隆寺貝葉写本」の記述を対比してみると、「物質的領域」と「非物質的領域」の姿が見えてくるのです。

 私が「法隆寺貝葉写本」の梵文を現代日本語に翻訳したとき、玄奘訳「般若心経」には、ある翻訳間違いがあることに気づきました。
 翻訳間違いは他にも数多くあったのですが、その中で、絶対に見逃せない誤訳個所がありました。
 「意界」と翻訳すべき原語を、玄奘は、「意識界」と翻訳していたのです。「無限界 乃至 無意識界」の部分です。

 サンスクリット原文には、明らかに、「意界」と書かれているのに、なぜか、「意識界」と翻訳しています。
 中村元氏も、自著の注釈の中で、この翻訳間違いを指摘していますが、結論として、サンスクリット原文のほうが間違っていると解釈して、玄奘訳を支持しています。
 現在世間に出回っている「般若心経」関連本も、中村元氏にならって、すべて「意識界」と解釈・注釈しています。
 しかし、それが、間違いなのです。

 「般若心経」のサンスクリット原文にある「意界」こそが、スッタニパータの「非物質的領域」と同じものだと考えられるのです。

 漢訳で「眼界」とあるのは、肉眼で見える世界(=領域)、すなわち、我々が現住する地球あるいは宇宙のような、物質で構成された「物質的領域」を意味しています。
 それに対して「意界」というのは、どんな「もの」なのかは特定できませんが、「非物質」で構成された「非物質的領域」のことだと考えられます。
 具体的に書けば、物質世界である人間界を除く、「地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・天界」の五世界のことです。
 スッタニパータの3詩文に現れる「非物質的領域」は、この中でも、「天界」のことを指しているのではないかと思われます。

 この五世界の住人(=生存者)は、物質的な体を持たず、非物質の「もの」で形成されています。
 「臨死体験者」や「スピリチュアル体験者」等が証言している、リアルな見た目(ヴィジョン)をしている生存者のことです。

 21世紀に入るまでは想像もできなかったことですが、3Dで見る映画やテレビの映像、あるいは、特殊なゴーグルを装着して見る3D 映像のようなヴィジョンが展開している世界が、現実に存在しているということなのです。
 釈尊は、「悟り」を証得することにより、そのヴィジョンを現実に目の当たりにし、修行につとめ励めば実際に体験できることを、弟子たちに伝えようとしたのです。
 残念ながら、その域にまで達した弟子は、シャーリプトゥラ(舎利子)だけだったようですが・・・。

 上記の「矛盾」に戻りますが、「この世の生存に戻ってくる」を「現世に輪廻転生する」、「この迷いの生存に戻らない」を「現世ではなく、天界に輪廻転生する」と読み替えれば、矛盾なく意味が通じるのではないかと思います。

 眼界=物質的領域意界=非物質的領域と解釈することにより、「般若心経」のサンスクリット原文の意味、「スッタニパータ」の詩文の意味は、明瞭に理解できるようになります。

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