ぼーずのメモ帳(年末年始の体調不良を挟んでの色々)

【業の話】…水で毒を生む蛇、水で牛乳を生む牛。
(笑顔、ダライ・ラマと糞尿の話。慈悲喜捨の心、)
※人の三業の振る舞い…同じ境遇でも生じる十界が異なる。

ICカードで怒りを生む年輩者、ICカードで笑顔を生む人。
(とりあえず笑っとけ)


社会が三毒を増す様な仕組みになっている
(三毒を増す様な社会になっている)

「〇〇はしなければいけない=執着」
「〇〇をしてはいけない=嫌悪」

そもそも世界はそう出来ていない。

自他の「行為の荒波」の人生・後生までを、どう渡るかのアドバイス・コツを先人の方々が説いているのが仏教。

「優先順位」が大切。
心を優先順位高くする。

「もういいや」という「消去法」が仏教。
どんどん嫌悪を執着の対象を「もういいや」とスッキリさせていくという心の修行のスタイルがある。

問題は「もういいや」の先に何を残していくか?です。
ここは「ブッダ的なもの」や「信愛」「慈悲」「
色々ありますが、各々の向き無不向きに合わせるという形になっています。
何はともあれ〜。

【コタツのコンセントに躓いてキレる業】
つまりこれは、今生65年生きて、自宅で自分でコタツのコンセントの紐に引っ掛かった後に「キレる」というカルマ・業・行為・習慣を積んできた、身に付けてきたという事、心身共にブッダを目指す佛道修行の立場からすると「65年何やってんすか?」という悲しさ憐れみの心境になる訳です。

これの逆を培ってるならいいですよ、気にしない、笑いに変える。励みに変換する。
しかし、怒りに至る、これ程虚しい65年はない、というのが仏菩薩的な慈悲心の目線ですね。
(しかし、これが佛道への敬愛・全託・帰依の一念により一転するのが、煩悩業苦の三道・法身般若解脱の三徳への変じ転じる、仏教の一番心揺さぶられる歓喜の善いところ…一念三千。当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に遍し…(聖地巡礼で友よ!状態))
(※志村ぎゃくぎゃく状態)


瞑想・超作・全託
(自分を手放す)

個人的には、
神佛(森羅万象・法界世界)への「敬愛・全託・帰依」でまとまる。

※何か眼前でイライラしそうな出来事が起きる
→次の信仰表現(敬愛・全託・帰依)として何しようか?を考えるだけで、怒るは地獄なならず悠々と乗り越えられるという氣づき。
(まさしくバクティ・渇仰恋慕、すべての愛着を神聖な対象に向け切る)


行き場所ない人
ドロップアウター
見捨てられ系

の担当がなんだかんだオレか?

大学のつるむメンツ
荒行の水行場に来るメンツ
道場の班分けのメンツ

※ルールを破ってでも、人を助ける荒行
※どうしようもない自分を構って見てくれる行堂(再行上人・報恩へ)


俺が俺がの我を捨てて、
おかげおかげの下で生きる。
by佐渡上人
卒後

Wikipedia
『岩波 仏教辞典』によれば、浄土には来世浄土、浄仏国土、常寂光土の3種類があるとされる[2]。

来世浄土

来世浄土は、死後に赴く浄土として来世に立てられた浄土である[2]。「この世に仏はいないが、死後の来世に他の世界へ行けば仏に会える」という来世他土思想に由来している[2]。阿弥陀仏の西方極楽浄土、阿閦仏の東方妙喜世界などが有名である[2]。

浄仏国土

浄仏国土(じょうぶっこくど)とは、現実世界の浄土化を意味する語であり、現実の中で仏道実践に励む菩薩の菩薩行として立てられたものである[2]。維摩経の仏国品などに説かれる[2]。

常寂光土

常寂光土(じょうじゃっこうど)とは、一切の限定を超えた絶対浄土[2]。仏の悟りである真理そのものが具現している世界[3]。天台宗で説く四土のうちの最高のものであり[1]、智顗が『維摩経文疏』1で説いた[2]。

三浄土説の対立

来世浄土、浄仏国土、常寂光土の3種の浄土説は、ときには矛盾・対立することもあった[2]。例えば、来世浄土は最も機根の低い者のための方便説であるとされて、来世浄土に基づく浄土念仏が批判され、真実説は絶対浄土としての常寂光土であるとされることがあった[2]。また、本覚思想などの現実肯定の立場からは常寂光土が歓迎されたが、智顗のように来世浄土を低く評価した者であっても、実際の死に際しては浄土への往生を願うことがあった[2]。


「絶対浄土」という衝撃と納得。ブリンダーバン!霊山浄土!常寂光土!の、帰依・バクティ・渇仰恋慕状態。


大黒天
袋で不満・愚痴を吸う
すると顔が満足・笑顔になる
打出の小槌でカルマに応じた役割・仕事をコツコツ続ける
すると自然に特高・徳が高く積まれていく

※シヴァのバクティヨーガ&カルマヨーガ&クンダリーニヨー

伝教大師の感応・夢中ではこの姿で私が日本に来たのには訳がある、とおっしゃっていたそうです。

全部の人がお釈迦様の心境に至るプロセス・過程・前段階・過去世と捉えるのが、基盤で基礎で肝要となる…南無妙法蓮華経(この事を常に心がけて生活して生きる…この肝要が無いと大幅にズレる)

唱える事が修行になる、とは言ったが、
唱えるだけでいい、とは言っていない。

仏の過去世(仏の因果そのもの)として生きている…事の一念三千

心の本源を鑑みる

自己のカルマの浄化というより、仏への乗り物の上で荷を降ろしているイメージ。
(表現と修行法門のイメージの違い)

周梨槃特の更なる考察
そもそも是れを「塵や垢という穢れ」と見る自分の心自体が、汚れているのだ。


その時に不浄と思っていた物は、
悟りへ導く金色の経文・佛語と見える。
更に、自分の心と法身そのものになる。


・誰に対して
・何を目的にして
・何を伝えている作品か?

を観る
※総じて作者の心の反映(部分的にもメタファーで象徴)

罪障消滅
懺悔滅罪
滅悪生善
寒水白粥凡骨将枯 理懺自悔聖胎自生
転重軽受
三道即三徳
宿業能転の法門
謗法懺悔
慈悲の瞑想(どうぞどうぞ・慈悲喜捨)
業の清算
すべて神佛の導き(腹括って全託・帰依)


出来事があって、悩んだら、内心から出る仏教用語を書き連ねるだけで改善する現象。


語る相手が明確で無い説法は、どうしても空虚な投稿に見えてしまう。
(SNS等、大手企業出版等)

白隠禅師の伝記や、日蓮聖人の信徒さんとお手紙の様な、読んでてクスッと笑えて、尚且つ感動してしまうモノが、本物の文章で生き方なのだと思う。(※仏弟子の面々然り)

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