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ぼーずのメモ帳…妙法蓮華経・方便品第二(諸法実相・十如是)

「佛の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯佛と佛と乃し能く、諸法の実相を究盡したまえり。所謂、諸法の如是相・如是性・如是體・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」

・この經文は、お釋迦様が佛と成って悟られた「真理」を「諸法実相」「十如是」として要略して語られた箇所。

つまり、これからお釋迦様が解き明かす「すべての存在はブッダの過去世の菩薩である」ということ。
ブッダと成って悟る十方三世普遍の真理は同じく、すべての存在は三世の生死の結末としてブッダとなる。
本門では、一切衆生の久遠実成を語る。成仏に始まり、成仏に終わる。無始無終にブッダに帰している菩提心そのものが、カルマでありダルマの実相(妙法蓮華経)。全體で知見すれば一切衆生ブッダそのもの(常不軽菩薩)。妙法蓮華経というダルマにどうあっても順じる事になる帰依心そのもの(南無妙法蓮華経)

「様々な罪福の業への真の懺悔滅罪・報恩謝徳の為にはブッダと成り法界世界の業の因果すべてを包括した悟りを語る。そして成仏に終わり、成仏に始まるという、実相を与える。悟りすべてをもの惜しみなく与え尽くす。

※Q:つまりどういう事が「真理」なのか?
A:つまり、有情無情のすべての存在は、カルマ・因果・業として、過去世・現在世・未來世の三世に渡る生死の修行の結末としてブッダと成り真理を自ら悟り一切衆生の抜苦与楽を作すことが、諸法の実相であり真理そのものである。

ブッダとなり法理・ダルマを悟り説き明かし、一切衆生の苦悩疑妄を抜苦与楽し解決して、三世十方に渡る生死のカルマを清算して、報恩謝得・懺悔滅罪し空に帰する

また、科段では「迹門」「正宗分」「略開三顕一(要略して三乗を開き一乗を顕す)」の長行の「絶言嘆権実二智」の「正絶嘆」の「最上人修得無上法故不可説」「甚深権実妙境不可思議故不可説」と記される部分。

《「科段」 参考書籍》
◇『法華三部經 真訓両読 法華経一部十巻』獅子王學會出版部


◇『漢和對照 妙法蓮華經』島地大等

・「諸法の実相」を表わした「十如是」は、有情と非情の「色心因果」を総括して述べたものでたると捉えられている。

《「色心因果」参考書籍》
◇『日蓮聖人御遺文講義』
〜『如來滅後五五百歳始観心本尊抄』の「百界千如と一念三千との區別を論じて、一念三千は有情非情の兩界を収むることを明かす」の箇所〜

・この有情と非情の「色心因果」は、現代に於ける日常的な言葉では「森羅万象・あらゆる存在・あらゆる生命」とも言える。
(※「山川草木 悉皆成佛」と言われる由縁)
 つまりこの「諸法実相・十如是(色心因果)」は、ブッダの悟りの視点から「過去世・現在世・未來世」に及ぶ「三世」と、種々様々な環境や状況の「十方」に及ぶ、あらゆる因果(業・カルマ・生死)の、無量無限の関係性を総括して「諸法」としてまとめている。
(※「五蘊世間・國土世間・衆生世間」の「三世間」も、この「十如是」という色心因果の中に包括され、その因果が互いに「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・佛」と称される「十界」の境界を具足し現じるという事も、突き詰めればこの箇所にまとめられている)

その諸法が因果・業の流れの中で帰結する「末」は、平等に佛に成る事であり、その因果・業の根源の根源である「本(無始)」も、三世に於いて培ったすべてを佛法・法華経として残し、空に帰した佛の業そのもの、という「実相」を明らかにしている部分です。
つまり「本」から「末」まで、真理を求め、真理に悟り、真理に帰る、という佛を目指す、菩提心の一念そのものが我(自己・心・私・意志)であるという、自分自身の実相を明らかにするのが法華経です。
日蓮聖人は、この菩提心・心・私そのものを「南無妙法蓮華経」の意であると示した。
カルマ・神は、成仏に終わり、空に帰し、成仏に始まる。無始無終。

その種々無限無量の因果が織りなす果ての果報(末)は究極的には等しく、ブッダと成る業に至り、自らがブッダの真理(三世の因果・業・生死)を悟って、法華経として語る事で、一切衆生の生死の無明の苦悩を、抜苦与楽する事で、三世に渡っていた自らの業が滅盡に至り空に帰する、という「三世に渡る因果・業・生死の全體像」を明らかにしています(佛知見)。
「本と末」が究竟して等しい。

◎この「十如是」は梵本には無く、鳩摩羅什の漢訳の妙法蓮華経にのみあるので、あまり重要に顧みない論調もあるが、
法華経全體の意義をこの方便品のこの時点で伝わる様に、より集約して意味内容を伝わりやすくしたもの。
現に法華経の方便品を中心とした前半部分(迹門)では、十方三世のすべての存在の「因果・業・カルマ・生死」の帰結(末)は佛と成り真の滅に至る事である事を明かす(二乗作佛・一切皆成)。
如來壽量品を中心とした後半部分(本門)では、如来そのもの、因果そのものを明かす。

方便品のこの後では、「一大事因縁(佛の唯一の目的=全存在の唯一の目的)」で明かすので、すべての因果・カルマ・存在は、自ら悟りを得て佛と成る事が、目的であるという唯一の三世に渡る行動理念・存在目的を明らかにする。一大事因縁。
しかし、三世の教えはお釈迦様が亡くなってから、二千年以上経った世の中(末法)では、理論として理解納得する人が皆無な為、「以信得入(信を以て入り得る)」と述べられ。自ら自身の身で経文を実践する「試みる事が大切」。
止観として指導できる者も見当たらない状況を鑑み。

《参考書籍》
◇『岩波文庫 法華経 上中下』

《参考書籍》
◇『梵漢和対照・現代語訳 法華経 上下』植木雅俊


・いわゆる諸法の如是〜(諸法・無量無限性)
如是本末究竟等(実相…本末が究竟すると等しい、ことが実相…平等)
・この「諸法」に「森羅万象」「全生命」「全存在」「一切衆生」「山川草木」すべてを納めて、その本末は平等に佛身である、と解き明かす。
佛教用語でいうと「五蘊世間」「國土世間」「衆生世間」と称される三世間を納めている。
何故なら佛に成って、真理を悟って、真理を語り、すべての生死の苦悩無知を明らかにして抜苦与楽する事以外に、業や因果が空に帰る事がない故です。
真の罪障消滅・根源的な罪障消滅は、法華経に限る・佛に成る事である、と古来述べられて来たのは、ここに理由がある。
(例:食物連鎖・命の頂いている。罪障消滅に即して報恩謝得にも成っている訳です)
・佛教の特徴はこの様にすべての事象を「業・因果」ある種の「情報」そのものと観る所にあると言えます。
・転重軽受…自業自得を受け切って、さらに悟りへ昇華する。一切衆生がブッダの過去世という佛知見の悟り実相を示す妙法蓮華経に帰依したからには、疾くブッダに成る為に必要な事しか起きない。むしろ次々起こる。事の一念三千。

佛が悟る諸法の実相とは、すべての存在の三世に渡る生死の因果の、本と末は等しく、自らが佛と成り、この真理を悟り、法華経として一切衆生の語り、すべての生死の疑問・無知・無始無明を晴らす→成仏に始まり、成仏に終わっている。削ぐわない事をするとバグが起きてより苦しむ。

「過去世・現在世・未來世の三世に渡る因果の全體像を明らかにしている。究極的な結末と根本は佛と成り真理・妙法蓮華経を悟り説き明かす」

◎「十如是」の三轉読
空諦…是の相は如なり(是相如)
仮諦…是の如き相(如是相)
中諦…相は是の如し(相如是)

《参考書籍》
◇『法華玄義 仏典講座』多田孝正
〜七番共解の会異の開顕の料簡〜


《参考書籍》
◇本多日生『法華経講義 上巻』


《参考書籍》
◇『一念三千とは何か(摩訶止観 正修止観章 現代語訳)』菅野博史
〜『摩訶止観』の正修止観章の十如是の総釋と随類釋の箇所〜

《参考書籍》
◇『釈尊の生涯』中村元

・サンスクリット語経典の翻訳で知られた中村元氏も著作『釈尊の生涯』の中で「ブッダの悟り」そのものについて考察した箇所では、

と述べられている。
法華経・方便品で、お釋迦様が自らの悟った真理を要略して語るこの箇所で、諸法実相・十如是で表される「色心因果・業・カルマ」は三世に及ぶ生死を包括して示したものと捉えれば、

正に唯一無二の真理の実相は、すべての因果・業・存在・出来事は「佛の過去世・佛へのプロセス」であると読み取る事ができる。

中村元氏の引用した仏典の内容とも符合し、正に絶対普遍の十方三世普遍の真理であると考えられる。

「衆生の運命を見極めた」=佛知見の道に入らしめんと(開示悟入の四佛知見・一大事因縁)=「知道者・開道者・説道者」=私と同じ様に法華経に説く真理を悟り、私と同じ様に佛に成る。

《参考書籍》
◇『絶対の真理〈天台〉』田村芳朗

《参考書籍》
◇『法華玄義(上)』 菅野博史
五重各説・釈名・正しく解す・法の解釈・広釈・衆生法・法数を列ぬ

《参考書籍》
◇『法華十講 上巻』山川智應

《参考書籍》
◇『法華経大講座 3 方便品』小林一郎

《参考書籍》
◇『新訳法華三部経 2 序品・方便品』庭野日敬

◇◇本来的にブッダに成る為に(プロセス・方法手段として)、仏教のすべての修行は存在する。それを忘失すると動機不純の指導者となる。根本的に何処に引導したいのか?

十章鈔
○華厳宗と申す宗は華厳経の円と法華経の円とは一なり。しかれども法華経の円は華厳の円の枝末と云云。法相(ほつそう)・三論(さんろん)もまたまたかくのごとし。天台宗かの義に同ぜば別宗と立つなにかせん。例せば法華・涅槃は一つ円也。先後に依て涅槃なおおとるとさだむ。爾前(にぜん)の円・法華円を一とならば、先後によりて法華あに劣らざらんや。詮するところ、この邪義のおこり、此妙彼妙円実不異(えんじつふい)、円頓義斉(えんどんぎさい)、前三為机(ぜんさんいそ)等の釈のばかされて起る義なり。

・華厳宗では華厳経も法華経もともに円経であるが、華厳経の円が根本で、法華経の円は枝末であるとする。法相宗・三論宗もまた、自分のよりどころとしている経と法華経は同じであるなどとしている。天台宗が法華経と爾前経(にぜんぎよう)(法華経以外の諸経)の円が同じであるという諸宗の意見に同意するのならば、別に一宗を立てる必要はない。たとえば、法華経と涅槃経とは同じ円教であるが、涅槃経が後から説かれた経であるから劣ると見るのである。もし爾前経の円と法華経の円を同じとしてしまうのならば、法華経と涅槃経の場合と同様に、法華経が後から説かれた経であるから爾前経より劣るとしなければならないであろう。どうしてそのようなことがあろうか。要するに、これらの間違った考えが起こった原因は、法華玄義(ほつけげんぎ)二の巻の「この法華の円教の妙も、かの華厳・方等・般若の中の円教の妙も、妙の義に違いはない」とか、法華文句記巻一の上の「華厳・方等(ほうどう)・般若(はんにや)の中の円教も、真実に違いない」とか、法華玄義十の巻の「はじめ華厳で得たのも、後に法華で得たのも、同じ円頓(えんどん)の仏の智慧である」とか、法華玄義釈籤(しやくせん)一の上の巻の「四教の中の前の蔵・通・別の三教は机(そ)であり、後の円教は妙である」などの解釈を誤解したために起こったものである。

○止観(しかん)と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ。また二の巻の四種三昧(ししゆざんまい)は多分(たぶん)は念仏と見えて候なり。源濁(みなもとにご)れば流清(ながれきよ)からずと申して、爾前の円と法華経の円と一つと申す者が、止観を人によませ候えば、ただ念仏者のごとくにて候なり。

・止観の証拠の経文として、摩訶止観の中で華厳経の「心はたくみな画師(えし)のように、種々の物を造り出す。心と仏と衆生とは差別がない」という文が引かれている。また摩訶止観の二の巻の四種三昧は多く念仏の修行である。「源が濁れば流れは清(す)むことはない」といわれているとおり、爾前の諸経の円と法華経の円とが同じであると考えている者が摩訶止観を講義すれば、聞く人は全く念仏者のようになってしまう。

○ただし止観は迹門(しやくもん)より出たり、本門より出たり、本迹に亘ると申す三つの義いにしえよりこれあり。これはしばらくこれをおく。〔ゆえに知る一部の文ともに円乗開権の妙観を成ず〕と申して、止観一部は法華経の開会(かいえ)の上に建立(こんりゆう)せる文なり。爾前の経々をひき、ないし外典を用いて候も、爾前・外典(げてん)の心にはあらず。文をばかれ(借)ども義をばけずりすてたるなり。〔境は昔に寄るといえども、智は必ず円に依る〕と申して、文珠問(もんじゆもん)・方等請観音(ほうどうしようかんのん)等の諸経を引いて四種を立つれども、心は必ず法華経なり。〔諸文を散引して一代の文体を該(かぬ)れども、正意はただ二経に帰す〕と申すこれなり。

・しかし古来より、止観の観法は法華経の前半(迹門)に基づくという説や、後半(本門)に基づくという説、また本迹二門(法華経全般)にわたるという説があり、いろいろに論義されてきている。そのことはしばらく置いて、摩訶止観輔行伝弘決に「止観一部は爾前の権経も、法華の真実経を説くための方便であり、法華と別なものではないという絶待開会(ぜつたいかいえ)に立脚している観法である」と解釈されているように、摩訶止観の全体はすべて法華経の絶待開会の立場に立っている。このため、爾前の経々を引用したり、仏教以外の書を用いても、その説くところに従うのではなく、文字を借りただけであって意義は捨て去っているのである。また輔行伝弘決(ふぎようでんぐけつ)に「観ずる対境(観法によって知り得る境界)は、法華経以前の諸経に説かれる十二因縁などに基づくけれども、観ずる智慧は必ず法華の仏智に依る」と解釈されており、文殊問経・方等経・請観音経などの経典を引用して、四種三昧(ししゆざんまい)の観法を立てているが、その真意は法華経による観法を成就すること以外にない。止観義例に「広く諸経の文を引用して、釈尊一代の仏教全体をかねてはいるが、その本意とするところはただ法華経と涅槃経の二経に帰結する」と解釈されているのは、このことを指すのである。

○止観に十章あり。大意(たいい)・釈名(しやくみよう)・体相(たいそう)・摂法(しようぼう)・偏円(へんえん)・方便(ほうべん)・正観(しようかん)・果報(かほう)・起教(ききよう)・旨帰(しいき)なり。前六重は修多羅(しゆたら)によると申して、大意より方便までの六重は先四巻に限る。これは妙解(みようげ)迹門の心をのべたり。今、妙解(みようげ)によつてもつて正行を立つと申すは第七の正観十境十乗(じつきようじゆうじよう)の観法、本門の心なり。一念三千(いちねんさんぜん)これよりはじまる。

・摩訶止観十巻の内容は、大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰の十章に分かれている。摩訶止観の中にも「前の六重は修多羅(仏陀所説の教法を伝える章句)によって妙解を開く」とあるように、大意から方便までの前の四巻に収められている六章は、了解といえる程のもので法華経前半の迹門の心を述べたものである。第七の正観章は「妙解によって正行を立てる」とあるように摩訶止観十巻の中心をなす十境十乗の観法の説明で、法華経の後半の本門の心を述べたものである。一念三千の法門はこの正観章からはじまる。

○一念三千と申す事は迹門にすらなお許されず。いかにいわんや爾前(にぜん)に分(ぶん)たえたる事なり。一念三千の出処は略開三(りやくかいさん)の十如実相(じゆうによじつそう)なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文(えぎはんもん)、迹門は本門の依義判文なり。ただ真実の依文判義(えもんはんぎ)は本門に限るべし。

・一念三千という法門は法華経の前半の迹門でさえ真意を説くことを許されていない。まして爾前の諸経には絶えて明らかにされていない法門である。一念三千の法門は法華経の迹門の方便品の略開三顕一(りやくかいさんけんいつ)の段の中の十如実相の経文から出たものであるが、その義は法華経の本門に基づいている。法華経以前の諸経の経文は法華経の迹門の義によって意義を判定すべきであり、迹門の経文は本門の義によって判定すべきである。経文に説くままに意義を定めることができるのは、ただ法華経の本門に限るのである。

○されば円の行まちまちなり。沙(いさご)をかずえ、大海をみる、なお円の行なり。いかにいわんや爾前の経をよみ、弥陀等の諸仏の名号(みようごう)を唱うるをや。ただこれらは時々の行なるべし。真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存すべき事は一念三千の観法(かんぽう)なり。これは智者の行解(ぎようげ)なり。日本国の在家の者にはただ一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必ず体にいたる徳あり。
(※常に菩提心を持ち続ける)

・このため、円教の修行にもいろいろある。華厳経には自在主童子(じざいしゆどうじ)が沙(すな)を数えるのも、海雲比丘(かいうんびく)が大海を思惟するのも、みな円教の修行であると説かれている。ましてや法華経以前の諸経を読み、弥陀等の諸仏の御名(みな)を唱えるのも、もちろん円教の修行といわねばならないだろう。しかし、これらは時に応じての修行であって、真実の円教の修行ではない。真実の円教の修行として、常に口に唱うべきであるのは南無妙法蓮華経であり、心に観ずべきは一念三千の観法である。しかしこの観法と口唱との並修は智者の修行の方途である。今の日本国の在家の信者にはただひたすらに南無妙法蓮華経と唱えさすべきである。名は必ず体に至る徳があるから、南無妙法蓮華経と唱えれば必ず法華経の功徳が得られるのである。

○法華経に十七種の名あり。これ通名なり。別名は三世の諸仏みな南無妙法蓮華経とつけさせ給しなり。阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり。

・法華経には十七種の通名があるが、別名は過去・現在・未来の三世の仏がみな南無妙法蓮華経とつけておられる。阿弥陀如来でも、釈迦如来でも、諸仏が仏の位に登るまでの修行時代には必ず心には一念三千を観じ、口には南無妙法蓮華経と唱えて、仏になられたのである。

○これらをしらざる天台・真言等の念仏者、口ずさみには一向に南無阿弥陀仏と申すあいだ、在家の者は一向に念(おも)うよう、天台真言等は念仏にてありけり。また善導(ぜんどう)・法然(ほうねん)が一門はすわ球究天台真言の人人も実に自宗が叶いがたければ念仏を申すなり。わずらわしくかれを学せんよりは、法華経をよまんよりは、一向に念仏を申して浄土にして法華経をもさとるべしと申す。この義日本国に充満せしゆえに天台真言の学者、在家の人々にすてられて六十余州の山寺はうせはてぬるなり。

・止観(しかん)と唱題(しようだい)が根本の修行であることを知らない比叡山などの天台・真言等の念仏者は、口には称名(しようみよう)の行としてひたすら南無阿弥陀仏と唱えるから、在家の人々は念仏が比叡山・天台・真言等の修行であると思ってしまったのである。また善導や法然の浄土宗の者たちは、そらそら比叡山の天台・真言の学者でも自宗では成仏ができないから、念仏を申すではないか。わずらわしく天台・真言を学んだり、法華経を読んだりするよりは、ひたすら念仏を唱えて、弥陀の浄土に往生してから、法華経を悟るべきであると主張している。この浄土宗の主張が日本国を風靡(ふうび)したから天台・真言の学者は、在家の人々から見捨てられて、六十余州の寺々がほろびてしまったのである。

○九十六種の外道は仏慧比丘(ぶつてびく)の威儀よりおこり日本国の謗法は爾前の円と法華の円と一つという義の盛んなりしよりこれはじまれり。あわれなるかなや。

・昔、インドで九十六種の外道(仏教以外のインド思想)が起こったのは、仏慧比丘が悪い猟師に袈裟を袷ぎ取られて、裸のまま樹にしばられていたのを見て、修行の方法と誤認されたり、比丘が樹にしばられていたのをほどいて肌に土を塗ったり、樹の皮を着たりしたのを他の婆羅門がまねて、生死の苦界を脱れる修行であると思ったのが原因である。それと同じように日本国の謗法も「法華経以前の諸経の円教も法華経の円教も同じである」という間違った考え方によって起こったのである。まことにあわれなことである。

○外道は常楽我浄(じようらくがじよう)と立てしかば、仏、世にいでまさせ給いては苦・空・無常・無我ととかせ給いき。二乗は空観に著して大乗にすゝまざりしかば仏誡めて云く、五逆は仏のたね、塵労(じんろう)の疇(たぐい)は如来の種(たね)、二乗の善法は永不成(ようふじよう)と嫌わせ給いき。

・インドの外道の婆羅門(ばらもん)は、この世は常住であり、楽であり、自在であり、清浄であると説いたので、仏が世にお出ましになって、その浅いものの見方をうち破るために、反対にこの世は苦であり、空であり、無常であり、無我であると主張された。また声聞と縁覚の二乗は、仏のこの空であるという説に執著(しゆうじやく)して、大乗の常住の理念に進むことができなかったので、仏はこれを誡(いまし)めて「五逆の重罪も煩悩(ぼんのう)(心の迷い)も成仏の原因となるが、空(くう)にばかりこだわる二乗の理念では永久に仏になれない」と叱咤(しつた)された。

○常楽我浄の義こそ外道はあしかりしかども、名はよかりしぞかし。しかれども仏、名をいみ給いき。悪だに仏の種となる。ましてぜん(善)はとこそおぼうれども、仏二乗に向いては悪をば許して善をばいましめ給いき。当世の念仏は法華経を国に失う念仏なり。たといぜんたりとも、義分あたれりというとも、まず名をいむべし。そのゆえは仏法は国に随うべし。天竺には一向小乗(いつこうしようじよう)・一向大乗(いつこうだいじよう)・大小兼学(だいしようけんがく)の国あり、わかれたり。震旦(しんたん)またまたかくのごとし。日本国は一向大乗の国、大乗の中の一乗の国なり。華厳(けごん)・法相(ほつそう)・三論(さんろん)等の諸大乗すらなお相応せず。いかにいわんや小乗の三宗をや。しかるに当世にはやる念仏宗と禅宗とはもと方等部より事おこれり。法相・三論・華厳の見を出ずべからず。

・外道(げどう)の主張した常楽我浄の意味は誤っていたが、その名は後に大乗において仏がお説きになった涅槃の四徳と同じもので、名は良かったのである。しかし仏は外道の間違った考え方を打破するために、この名を嫌われたのである。悪も仏の種であるとともに、善はもちろん仏の種となるのであり、二乗の空の思想は善であって悪ではないのであるけれども、二乗の執著を断ち切るために、仏はその善をきつくいましめたのである。今の念仏はこの国から法華経をほろぼす念仏である。このため、たとえ念仏は善であって、意義において間違いでなくとも、より大きい善である法華経のために念仏は否定されねばならず、その名を批判せねばならない。なぜならば、仏法は国によってふさわしい法があるからである。インドには、小乗ばかりの国、大乗ばかりの国、大乗と小乗をあわせて信ずる国があって、いろいろと分かれていた。中国も同じである。しかし日本国は大乗ばかりが弘まる国であり、大乗の中でも法華一乗が弘まる国である。華厳・法相・三論等のもろもろの大乗の教えですらなお相応しない国である。まして倶舎(くしや)・成実(じようじつ)・律(りつ)の小乗の三宗は相応するはずがない。当世に流行している念仏宗と禅宗は、それぞれ方等部に属する無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の浄土三部経と、首楞厳経をよりどころとしている。したがって法相・三論・華厳の義を出てはいない。

○南無阿弥陀仏は爾前にかぎる。法華経においては往生(おうじよう)の行にあらず。開会(かいえ)の後、仏因(ぶついん)となるべし。南無妙法蓮華経は四十余年にわたらず、ただ法華八箇年にかぎる。南無阿弥陀仏に開会(かいえ)せられず。法華経は能開、念仏は所開なり。法華経の行者は一期 南無阿弥陀仏と申さずとも、南無阿弥陀仏ならびに十方の諸仏の功徳を備えたり。たとえば如意宝珠(によいほうじゆ)のごとし。金銀等の財備えたるか。念仏は一期申すとも法華経の功徳をぐすべからず。たとえば金銀等の如意宝珠をかねざるがごとし。たとえば三千大千世界に積たる金銀等の財(たから)も、一つの如意宝珠をばかうべからず。
(※ブッダの過去世をなす、菩提心の南無妙法蓮華経の法華経の行者は、すべてを具えている)

・南無阿弥陀仏と唱える称名念仏の修行は、法華経以前の方便の経では往生の修行であったが、真実の法華経からみれば往生の修行ではない。法華経が説かれることによって、すべての経に説いた修行がみな法華経の修行のためであったことが明らかにされて(開会(かいえ))、はじめて念仏も成仏の因となるのである。そして南無妙法蓮華経と唱える唱題の修行は法華経以前の諸経(四十余年)には全く関係なく、ただ釈尊の生涯における最後の八年間の法華経に限るのである。南無阿弥陀仏によって開会される法ではない。法華経は開会する法であって、念仏は開会される法である。このため南無妙法蓮華経の法華経の題目を信じ唱える修行者は、一生の間、一度たりとも南無阿弥陀仏と唱えなくとも、阿弥陀と十方のあらゆる諸仏の功徳を備えているのである。それはちょうど如意宝珠が金銀などのすべての財宝を備えているのと同じである。それに対して、南無阿弥陀仏と一生の間、唱えつづけても、法華経の功徳は備わらない。ちょうど金や銀が如意宝珠のようにすべての宝を生み出す宝珠ではないように。ちょうど全世界の金銀を積んでも、一つの如意宝珠に替えることができないように。

○たとい開会(かいえ)をさとれる念仏なりとも、なお体内の権(ごん)なり、体内の実(じつ)におよばず。いかにいわんや当世に開会を心えたる智者も少なくこそおわすらめ。たといさる人ありとも、弟子・眷属(けんぞく)・所従なんどはいかんがあるべかるらん。

・また、たとえ仏教を統一的に解釈する立場に立って、法華経のための念仏であることを心得た上の念仏であっても、やはり権(ごん)と実との区別は存在しており、法華経の内の権(仮りの教え)である念仏の行は、法華経の内の実(真実のおしえ)である題目の修行にはおよばないのである。まして現在では法華経のための念仏であると心得て念仏を修行する智者は少ない。たとえそう心得た人があったとしても、その弟子やつき従う者どもなどは、このように心得ることはできないであろう。

○愚者は智者の念仏を申し給うをみては念仏者とぞ見候らん。法華経の行者とはよも候はじ。また南無妙法蓮華経と申す人をば、いかなる愚者も法華経の行者とぞ申し候わんずらん。
(※天台・伝教の行う念仏‥目的は成仏にあった)

・また、たとえ智者のする法華経のための念仏であったにせよ、おろかな者はこれを見てただの念仏だと思い、法華経のための念仏とは思わないであろう。しかし南無妙法蓮華経と唱える人であれば、いかなるおろか者であろうとも、法華経の修行者であると思うであろう。

○当世に父母を殺す人よりも、謀反をおこす人よりも、天台・真言の学者といわれて、善公(ぜんこう)が礼讃(らいさん)をうたい、然公が念仏をさいずる人々はおそろしく候なり。

・当世には、父母を殺す人よりも、謀反を起こす人よりも恐ろしいやからがある。それは、天台・真言の学者といわれながら、善導の往生礼讃(おうじようらいさん)を読んだり、法然の称名念仏を口に唱える人達こそ恐ろしいのである。

○この文(ふみ)を止観よみあげさせ給て後、ふみのざ(文座)の人にひろめてわたらせ給べし。止観よみあげさせ給わば、すみやかに御わたり候へ。

・摩訶止観の講読が終わった後で、講座出席の人々に、この書の内容を知らしめして、それから鎌倉へ帰るようにしなさい。摩訶止観の講読がすんだら、直ちに帰るようにするのですよ。

○沙汰(さた)の事は本より日蓮が道理だにもつよくば、事切らん事かたしと存じて候しか。人ごとに問註(もんちゆう)は法門にはにず、いみじうしたりと申し候なるときに、事切るべしともおぼえ候わず。少弼(しようひつ)殿より平(へい)の三郎左衛門(さぶろうざえもん)のもとにわたりて候とぞうけ給わり候。この事のび候わば問註はよきと御心え候え。またいつにてもよも切れぬ事は候わじ。また切れずば日蓮が道理とこそ人々はおもい候わんずらめ。くるしく候わず候。

・訴訟の事(富木氏ら三人をめぐる問注のことを指すか。問注得意鈔を参照。)は、日蓮の申したてる道理が強ければ、落着はむずかしいと思う。法門をけなしている人々が、そろってこの訴訟についてほめているようでは、事件が落着するとはとても思えない。訴状は弾正少弼業時(だんじようしようひつなりとき)殿から平左衛門頼綱(へいのさえもんよりつな)のもとへ廻っているとのことである。この度の事件は時間が延びるようであれば訴訟は有利なものと承知するがよい。またいつかは落着する時が来る。また落着しなければ日蓮の申し立てが道理であると人々は思うから、延びても苦しくはない。

○当時はことに天台真言等の人々の多く来て候なり。事(こと)多きゆえに留め候いおわんぬ。

・近頃は天台・真言の人たちがことさらに多く鎌倉に来ている。いろいろ忙しく煩雑であるので、これで筆をとどめる。

・日蓮は少より今生の祈なし、只佛に成んと思ふ計り也。
・今度、強盛の菩提心ををこして退転せじと願ぬ。
・ただ生涯もとより思い切って候。今に翻返るなく、その上また遺恨なし。もろもろの悪人はまた善知識なり。摂受折伏の二義、佛説に任る。あえて私曲にあらず。万事、霊山浄土を期す。

・一大事因縁【いちだいじいんねん】
仏がこの世に出現するに当たり、目あてとした最大の目的。『法華経方便品』に示されている言葉で、一切の生あるものをして仏の知見に目ざめさせることだとされる。転じて、悟りを開くきっかけ。(一切衆生ブッダの過去世・本來的に久遠成仏のブッダ)
※正法眼蔵(1231‐53)授記
「唯以一大事因縁故出現といふなり」

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