ぼーずのメモ帳(悪果報を卑屈に成らず、どう捉えるか?)

◇ ◇悪業の処分の仕方
https://youtu.be/rMcU-rgeepY
【生きてる時のトラップ・誤情報・マーヤをどう捉えるか?】(例:三世を否定する学者・仏教は空だから後生は説かないで今生だけといえホラ)
・負の面で捉えると、過去世に自分が人として悪い事をした行為がそのまま返ってきている。
(卑屈になる。…例:キリスト教の罪人の如し)
・正の面で捉えると、過去世に自分が天界の時に修行者を成長させる為にあえてもたらした事。
※マーヤだった時にした事が返ってきている。更に上位天界からの命令でしてたかも。
※バクティ・ヨーガ…神の恩寵。遊戯のリーラー。
(過去も実は未来なので、至高の本源からの働きかけ…無始の過去は久遠実成のブッダ。空で無始と言っても菩提心で繋がっているので、菩提心を通して、帰する為に色々カルマで滲み出る…未来からの働きかけが試練の恩寵として過去のカルマを通して滲み出ている…過去の本源は真理そのものなのでそこからの働きかけという捉え方…神の恩寵・すべて空・概念を超えている・卑屈になる必要はえない…)
※この出来事があった方がより深く無上の悟りに辿り着けるからとしての、五百億塵点劫の久遠の過去・無始の実成のブッダの影響の恩寵。
この出来事があると疾く悟りに行けるからこの出来事が起きる(ヒンドゥー教的な神の恩寵すらも包括した因果論…法華経の本因本果・本源的な過去はブッダであり、過去の根本は仏で菩薩で菩提心で帰依心で真理)
妙法蓮華経への帰依心・渇仰恋慕・菩提心を通じて出て来て覚知される。
※ブッダに成れる本因とは何か?元々ブッダに成る様にこの法界世界が出来ている。一切衆生のカルマがブッダに成り続けてるという諸法の実相。
※凡夫の過去が、凡夫の未来と成り、成仏・至高の智慧からのカルマの反映が投射されて、実在・叡智・至福へ導かれている。ただ単に悪業の反映で妨害が起きると観るのは浅い見方。…思議を超えて絶してる故に不可思議。…業の「悪果」も悪因によると限らず、悪業も善業も超過した、ブッダに至る業の流れ。すべてが無上の悟りに至る為に、必要な事となる。逆にすべて経験が起きないとブッダに成れない=修行完成者(すべて体感する為に佛道修行してるんだから過去のカルマの反映とかを超えて何が起こってくれても良い、むしろ体感する為に此処に在る)
※二元性を絶した佛性も久遠の過去から今の業に滲み出ていると観る。…故に卑屈になったり落ち込まない法華経への帰依。むしろ落ち込み様がなくなる。
すべて一切衆生に内在している久遠の過去の成仏のカルマからの反映・果報・恩寵
※久遠の過去の成仏のカルマの影響で、不可思議な事は、この人生なんでも起きる。すべてのカルマを刈り取って菩提へと加工して栄養にして行く佛道。ただただ悪業の因ゆえの悪業の果の報いを受けるだけではない。
…故に罪人・凡愚と苦悩する果報のたびに卑屈になるのは間違い。善悪業を超過してすべての出来事が縦横無尽に不可思議に巡っている。
…故に悪い出来事に見舞われてる人を見て「彼は悪業が重い。」とか言うのも間違い。
例:ネット界の仏教界批判
例:「法華経は内容がない」という近代仏教者という果報…聖典の読み方を知らない故(すべて自分の内心に当て嵌めて読む。妙法蓮華経そのものが心そのもので法界世界そのもの)
何でも起きるし。自他不二。深く疾い悟りに必要な事かもしれない、本人当事者しか分からない。(目標ブッダが唯一大切)
※カルマの因縁果報についてシビアに考え尽くすと此処に至る。不可思議である。ブッダしか分からない。日々黙々と刈り取って加工活用するのみ(明け渡し・変転・活用)。
…直近の因果で考えても「よりトラップ多く、重病な環境で、複雑で厳しい修行がしたい!」という、感情のカルマの反映とも捉えられる(何にせよ卑屈に成る必要はない)
※久遠の過去がブッダだから、不思議な十二因縁・不思議なカルマ因果が、往々に生じる。
※何故ブッダに至れるのか?その因は何か?→元々が神聖そのもの故に。それが因となり神聖なブッダに至る。

無始無終に永遠とブッダに成り続けている因果・行為そのもの=我・私・神・心
(本因本果・業・カルマ・ダルマ・真理・妙法蓮華経・悟り・法界世界)

不思議なる自業自得…菩提心・真理への帰依心・妙法蓮華経、佛法への帰依心で、不思議なる因である久遠の過去世のブッダに繋がると、不思議なる自業自得が生じ捉えられる。(転重軽受の法門・忍辱波羅蜜即歓喜)

・疾くブッダに成る為に必要な事が不可思議のまま縦横無尽にポンポン出て来る…修行課題の玉手箱(定型的な因縁果報を超える)(久遠の過去からの無量の恩恵の果報課題…本源がすべて故に、真空妙有、必要な事が何でも起こる)

・「稲刈り→加工→栄養→種まき」の喩え
…刈り取って活用し続ける無上佛道

◇ ◇
かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧(ちえ)にみちびかるべし(『書簡』より)

人を軽しめば、還って我が身・人に軽易せられん。(佐渡御書)


末那識(まなしき、梵: manas…アストラル・内在意識)とは、阿頼耶識を所縁(=対象)とする識である[1]。また、眼、耳、鼻、舌、身、意という六つの識の背後で働く自我意識のこと。
末那識は常に第八識を縁じて、自我という錯覚を生じる。第六識(意識、mano-vijñāna)と区別する為に、manas マナスのまま音写して末那識という。
我法二執の根本である。
恒に睡眠中でも深層において働き続ける。
八識はみな思量の作用があるが、末那識は特に恒(間断なく常に作用する)
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける。
この深層的な自我心(名色・自我・エゴ)を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる。
我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩。


マナス
manas
サンスクリット語で心のこと。漢訳仏典では意と訳される。『リグ・ベーダ』では不滅の霊魂を言い表わす語であった。バイシェーシカ哲学ではマナスは原子大で身体に一つだけ存し,きわめて速く活動し,アートマンと感官との媒介をなすものとみられる。『アディヤートマ・ラーマーヤナ』や『マーンドゥーキヤ・カーリカー』では世界の動力因とも考えられている。

*マナス(=揺れる心)
お腹が空いた、外が暗くなってきたなどいろいろなことに気づける心。アンテナ的な働きをする。心が揺れ動くことは一つの大事な機能でそれがあるから人の気持ちに気づくこともできる。「家の鍵を閉めたか?」など迷っている状態、腑に落ちていない状態もマナス。

無意識、内的感覚、精神、潜在意識、アストラル


阿頼耶識(あらやしき)は、瑜伽行派独自の概念であり、個人存在の根本にある、通常は意識されることのない識のこととされる。八識。


プルシャは、“何の質もない意識”のこと。「イーシュヴァラ」と呼ばれたり、「全宇宙」、「真我」と訳されることもある。

空間や時間すらも「プルシャ」がなければ存在できず、世界が移り変わっても変化しないのが「プルシャ」。あらゆる創造の「目撃者」とも言われる。

「プルシャ」はサーンキャ哲学の言葉で、それと本質的に同じ意味の言葉に、「ブラフマン」、「アートマン」がある。「ブラフマン」は宇宙原理そのもの、「アートマン」は個人という視点から見た宇宙。最終的に宇宙と個人が一体になることがヨガの境地であるため、二つは同じ意味を表している。

◇カルマ・業は「摘み取る」イメージ

一生も種の摘み取り。出来事も種の摘み取り。一日も種の摘み取り。淡々と詰んで行く。

そこに苦楽・惑欲・恨まず・責めずを介入しない。
また摘み取りに行く。

※神聖なものに向ける時だけにカルマやエゴ活性化させる。
※稲刈りの喩え…坦々と刈りまくる。そして生活に役立つ様に加工する(工藝細工)


法華経と申すは八幡法蔵の肝心・十二部経の骨髄なり。
三世の諸仏は此の経を「師」として正覚を成じ、十方の仏陀は一乗を「眼目」として衆生を引導し給う。(兄弟抄)

法華経第一に云く「我れ則ち慳貪に堕せん、この事さだめて不可なり」。第二に云く「その人命終して阿鼻獄に入らん」。
…仏教の目的を、後生良い所に行くこと、方法は1つと狭めるか⇄ブッダを目指して行を修めること、日々のすべての行いがブッダの過去世の行いで(南無妙法蓮華経)過去の業を摘み取ってエゴを神聖なものに変転活用し続ける事。
…何処まで語るかで、指導者は、慳貪で阿鼻獄の因となる(目的・動機・目指す所・目標・意図が大切)


帰依
優れたものに帰投し、伏依すること。また帰命(きみょう)ともいい、自己の身心を捧(ささ)げて信順すること。絶対の信をもってよりどころとすること。
信仰と同意で、仏・法・僧の三宝に帰依することを三帰依といい、これは仏教徒の信仰を示すもっとも基本的なものとなっている。
浄土真宗では帰依の「帰」を帰投と解して、阿弥陀仏(あみだぶつ)の願力に帰投し依憑(えひょう)することであるとし、これが信心にほかならないとしている。

大乗仏教の一部の宗派では、帰依とは勝れたものに対して自己の身心を帰投して「依伏信奉」することをいう。

自らのエゴを投げ出して、順ずる、拠り所
…猿の子供の如くしがみつく


・釈尊から妙法蓮華経を聞法して、
自らの久遠の成仏を悟って、ブッダの過去世の菩薩として、佛道を志して行を修めている、鬼子母神・私・僧侶・日蓮聖人・貴方。
(故に心・志は同じなので、総じて大曼荼羅の前、ブッダの内面)
(久遠成仏・一切皆成仏を悟った存在…地涌の菩薩)

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