ぼーずのメモ帳(忍辱波羅蜜の時=自分が変化する時期・「まっさら〜」な感覚を憶い出し安住する…空諦)

劇的な「忍辱」の状況に追い込まれたら
=「あっ、そろそろまた、自分の替え時なんだ」と理解する
=自分がまっさらになる感覚
=まっさらの感覚を思い出したら、習慣をサラッと変える

(※「忍辱」は同時に、貴方「替え時」ですよ、という事のメッセージ…例:家族・悪業)
(「まっさら」の感覚を思い出すのがコツ…そもそも本来的にまっさらである…例:様々なまっさらを思い出す。お寺、大学、道場、荒行、温泉、部活、義務教育…非常に気持ちいい、清々しい)
(※日本人は言葉を聞いた時、別に昇華して「自分の言葉」として降りて来るタイプかもしれない…本気の心からのそっか〜、そうですね、それでか、なるほど、があると言葉で苦の煩悩がサラッとまっさらになる…修行をする上での落とし穴より」)

※忍辱と思っていたが、自己の変容が無ければ、ただの我慢である。
心の器も広がっていない。


まっさら
真新
真更
新品
真っ白


クリアヨーガの、
吸って頭のチャクラに背骨から回して、吐いて鼻骨まで下げる事を行う

世俗の文化は、貪をそのガイドとしています。それに対して、ブッダの教えは、慈悲とダンマ(真理)をそのガイドとしたものなのです。


【仏教は、体験によって更新されてきた】
仏は原始仏教を成立せしめているのではあるけれどもこれだけでは水が十分に流れない。そこで、後世人がときどきにその流れの中に自分のものを加えて、従来の偉大さを、持続すると同時に、さらに何かまた勢いを加えて行く、こういうことにならなくてはならぬ。これには僅かに寄与したものもあり、あるいは大いに寄与した者もあるかも知れない。たとえばインドにおいては竜樹菩薩、天親菩薩というような偉大なる知識者になると、もとの流れに一段盛んなる流勢をつけたというようなことになるであろう。また中国においては達摩とか智者大師とかあるいは善導というような人々が、仏教のためによほどこの勢いをつけた。日本では親鸞聖人、法然聖人、日蓮聖人、また、禅宗では、近来なら白隠和尚というような人である。彼らはいずれもこの流れの中に偉大なる自分の体験というものを注ぎ込んだ人々である。
鈴木 大拙

小さい者は小さいだけに、それ相応に、自分にこの仏教生活をその流れの中に注ぎ込む。これを山を造るに譬えるとよい。大人物は何百人何千人という人がよってするだけの仕事を一人でして、そこに土を盛り上げたとするならば、われわれはホンの一片か二片の土を加えるようなものである。しかし、加えないというのではない、一片だけでもそこに盛っているのである。したがってそれだけの力をのせているはずである。こういうように見るのである。ところが、そういうように考えて行くと、仏教はあくまでも生きて進展増大するものであると、こう見てよいのである。

※色読、実修実証の南無妙法蓮華経、法難、一切衆生ブッダの過去世、身口意の三業受持、四弘誓願、発菩提心=当時者意識、実体験、経験


十悪業・十善戒
(十地経、第二品)


 突き詰めると、人間に大切なのは「美意識」「信念の美意識」である。

…どういう「信念・信仰・志向性」を持っていて、どういう「美意識・価値観・是とする美的基準」を持っているかが、その人の根幹を成り立たせる。

社会も環境も是に順ずる
◇ 
声帯を壊して1年間、長い時間まともに喋れなかった時に思った事
(文章で話していると喉の痛みが出てくる…過去世で言葉と口で詰んだ悪業の浄化作用…修行すると疾く沢山出てくる)

「何でせっかく話せるのに、こんな悪口陰口ばかり話しているんだろうか」
「何で自由に話せるのに相手を楽しませたりしたがらないんだろうか」
「何で苦しんでる人を更に苦しめる事をするんだろうか」
「何故言葉を大切に使わないのだろう…テレビ語」
「せっかく話せるのならば、より良く用いたい…仏語」

布施・持戒・忍辱→精進・禅定・智慧
(回復し歓喜した後、言葉の智慧を得る)
(道場→布研→荒行→世俗→家→一切皆苦→菩提心(もうブッダに成るしかない)」
※NO佛法、NO LIFE…

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