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秋田の冬祭り 金沢八幡宮梵天(金沢のぼんでん)観覧記⑤

 前回の記事↓の続き。 

 太鼓が、鳴り出す。

 始まる!という喜びを、顔に出せずにはいられずに口元が緩む。

 はじめのうち、太鼓は風流な雰囲気の拍子だ。

 各団体も、その拍子に合わせるように、それぞれに力自慢が梵天(ぼんでん、と濁る)を片手で差し上げるなどしている。他の団体などいないも同然といったふうだ。
 高く上げることに成功すれば、周りが拍手したり「フォー」という歓声をあげたりし、失敗したら、立て直すといった感じだ。
 さがり、と呼ばれる布も垂れたままの梵天が多い。
 増田の梵天では「妙技」も競うと聞いたが、金沢は、技で競い合うということはしないので、単純にその時の「気持ち」でやっている。奉納前に神前に力を示すということもあったのかもしれないが、いわれは分からない。
 ただ、確実に言えるのは、「梵天が多少壊れても良い」と考えてやっている、ということだ。
 それにしても、持つだけでもたいへん重く、バランスの悪い梵天を片手で差し上げるのもすごいし、たまに、ひたいや顎に乗せる人もいて、マジすげー、ってなる。(練習とかはしてないのに、どうやってその技能を身につけるのか疑問でもある)


↓記録程度の短い動画です(汗)

 

それぞれの団体の力自慢が、梵天を輪の中で高く差し上げる。より高くあげ、神様の目に留まらんとするようだ。

 そうこうしているうちに、だんだんと、倒れた梵天を他の梵天にわざとぶつけるなどして、梵天を介しての参加者同士の押し合いが始まる。
 おしくらまんじゅうのようでもあるし、ラグビーのモールのようでもある。
 それらと違うのは、硬い杉の竿で作られた梵天を挟んでいることで、見ているとあまり感じないが、参加した経験上、この輪の中にいるのは怪我をする恐れをひしひしと感じるほどに危険だ。(押し合いの前にスマホや眼鏡などは、壊したり無くしたりしないように家族などに預ける人が多いよ)
 押し合いは、程なくして解けて、また梵天は地面ドンとに立つ。そして今度は違う梵天に絡み合いに行く。

押し合いの様子。三吉節ではないが「人に押し負け大嫌い」を体現しているようでめっちゃ好きな場面。

 この行事を見ていると、梵天を擬人的に感じることが多々ある。
 
 気持ち良く、高く上がっているところに、横からちょっかいをかけられて「なにすんだよ!」と押し返して、「そっちこそ!」とやり返して、一息ついて、また、喧嘩をふっかけてー、といった感じ。

 実際に金沢の梵天は「腰巻き梵天」「おなご梵天」と古くから呼ばれていて、かつての人々も私と同じように擬人的に見做していたことがわかる。(腰巻きとは打掛けを腰のあたりで結んだもの) 
 しかも、とくに、女性になぞらえられていたというのが興味深い。
 そういえば、金沢の梵天は垂れ下がった布(さがり)が他の梵天に比べて、明るく、鮮やかな柄物が多い。

↑腰巻き姿の女性(お市の方)
↓腰巻き梵天(ガチャピン)

 なるほど。見比べればよく似ている。「腰巻き梵天」とは納得の表現だ。

 話を戻そう。押し合いをしている間に奉納団体の方々のボルテージがどんどん高まってくるのを感じる。
 最初はやや遠慮がちだったものが、遠慮がなくなり、動きが大胆になってくるようだ。
 
 上から見ていて、原因は定かじゃあないが、殴り合い寸前の掴み合いをしている様子も見られた。
 血気盛ん、といえば聞こえは多少は良いか。(良くない)
 昔は流血がよくあったとか、もっとだんじゃぐだった(乱暴)だったという話はよく聞くし、自分が子供の頃も、押し合いには子どもが簡単に近寄っちゃあいけない雰囲気があった。
 今はそこまでじゃないし、基本的には面白みさえ感じるような楽しい祭事だが、そういう一触即発の雰囲気がこの祭りのスパイスになっているのは間違いない。

 激しくなる押し合いにあわせるように、太鼓の音が変わる。
 梵天も布(さがり)をさらにしっかりと竿に結びつけ、戦闘モードのギアを1段あげたようだ。
 押し合いの激しさで、趣向を凝らしてこしらえた頭飾りが壊れ始めている梵天もある。或いは、取れてしまった梵天もある。

高い位置にさがりを結んだ梵天。
「決戦の刻」に向けた備えだ。

 「金沢の梵天」がクライマックスofクライマックスを迎えようとしていた。

(つづく)

好評の第1弾はこちら↓


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