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【こわい話】移植

※登場する名前や出来事のディティール、私と体験者の関係など、しってほしくない部分やわかりづらい部分を整理したり、変えたりして書かれています。

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 私の、出身の学校の後輩にあたる人からきいた話。
 彼とは学校のつながりではなく、あるきっかけで知り合ったらたまたま母校が同じだったという人だ。



「その場でビクッ!と飛び上がっちゃって、周りの乗客に舌打ちされるぐらいだったんですけど」

 はいったばかりの会社の、何日目かの勤務を終えて帰路についていたとき。
 満員電車の中で揺られながらウトウトしていると、あることを思い出して、慌てて次の駅で降りたという。


 犬に餌をあげなきゃ……。水も……。
 もう何日もほったらかしだ。


 血の気が引いていくのが自分でもわかったそうだ。
 人を押しのけながら改札を出て、駅前すぐのスーパーに飛び込み、なかば走るようにレジ近くのペット用品コーナーにたどり着いて、

「どうして忘れてたんだ…なんで忘れるんだろう……
どうしよう……今ごろ……」

 と頭の中に浮かんでくる嫌な光景を振り払いながら、馴染みのペットフードを選んでレジに急ぐ。
 ちょうど買い物どきで、どのレジも5、6人は並んでいたが、せめて早く進みそうな列につく。

 早く早く早く、急げ急げ急げ。

 脂汗が流れ、ガタガタと手が震える。考えたくないことが何度も何度も思い浮かぶ。どうして忘れるんだ。自分は最低だ。最悪だ。どうして、なんで。
 ようやく一人分、列が進んだが、次は満杯のカゴを2つも持った客だった。安ビールやらつまみやら、カップラーメンやらを店員が一つ一つ出していく。刻々と時間が過ぎていく。
 もうなんでもいい。万引きでもなんでも、あとで金を払えば……。
 列を離れ、カゴから出したペットフードを隠しながらそのまま店を出てしまおうと歩きだしたところで……

 あれ? と気づいたそうだ。



「犬、飼ってないんですよ。今まで飼ったこともないし、一人暮らししているアパートにもそんなのいません」

 
 そんなはずは……? と、考えてみたが、やっぱりどう思い返してみても自分の家に犬などいない。
 猫も鳥も、魚も虫も飼ってない。誰かから預かっているわけでもない。近所で犬を見かけたこともない。通勤途中で、どこか犬を飼っている家でもあったっけな…?
 いや、そんな家があったからって自分とはなんの関係もない。
 頭のなかの考えが変な方向に進み、いよいよ訳がわからない。

 けっきょく気の抜けたようになってしまい、ペットフードを適当な棚に戻して帰った。

 ふたたび改札を通って満員電車に挟まっている頃には、むしろ「あ、ちゃんと元の棚に戻せばよかった…」とそっちのほうが忍びなかったそうだ。



 たしかに変な体験だね、と言いながら、私は「こわい話があるということだったのでは……」と内心しょんぼりしていた。

 似たようなことは、私も無いではない。
 飛び起きて「今日は学校だった!」と慌てて制服を探したがそもそももう学生ではないとか、10万円分の本が買えるんだった!本棚にはいるかな!? と本棚を見つめたあたりで、直前に見ていた夢であったことを思い出すとか。
 しかし、彼は眉をひそめて「いや」と言った。

「そういう夢なら、それは俺もありますけど。テストなのに勉強してない!とか、待ち合わせがある!とか思って起きるけどそんなのない、みたいなやつでしょ。
 でもこの犬の記憶、起きてるときの話ですよ」
「電車の中でウトウトしてたって……」
「いや、まあ。でも……1回で終わらないんです。そこは変でしょ?」


 聞いてみると、似たようなことがその後も繰り返しあったという。
 おおむね一ヶ月に一回ほどだったというが、起きてしっかりしているときに、突然犬のことが頭に浮かび、吐き気のように焦りと後悔がこみあげてくる。

 ずっと餌をやってない……世話をしてない……どうしよう……。

 また同じように慌てるが、すぐに事実ではないと気づいて、それから「前もあったぞ」とようやく思い出す。
 すると波が引くように、急激に犬のことなどどうでもよくなり、しかし心臓はしばらくバクバクしているのだという。

 あるいは、こんなこともあった。


 彼が地元からのつきあいの友人と飲んでいて、昔見ていた夕方のアニメの話題が出た。
 そのアニメではないのだが、

 ああ、そうだ。アニメだなぁ。

 それがきっかけだったな。
 小学生のころ、なにかのアニメをやってて……。
 なんだっけな。
 ロボットかなにかで戦うやつだっけ。ええと……。
 あ、そうだ『●●● ●●●●●●』だ。『●●● ●●●●●●』って名前だよね、たしか。
 二年生だっけ? 三年生だっけ? まだ早い時間に家に帰ってたから、そのくらいだよな。あったなぁ。
 主人公の一家が犬を飼ってて。なんか戦う話だからあんま家は出てこないけど、たまに出てくると犬がかわいくて。
 それですごく犬が欲しくなって、俺、家族に頼み込んだんだよなぁ。
 そうだった、そうだった。
 俺、それで犬飼いはじめたんだよ。


 思い出すまま口に出すと、友人は「え?」という顔をしている。
 お互いの家にしょっちゅう遊びに行っていた仲である。彼の家で犬なんて飼っていないということはよく知っている。
 「なんか、誰かの話と混ざってないかそれ?」と言われてから、彼も「あ、そうだった……」と思いなおす。

 思いなおすのだが。

 たしかに、
「あれがきっかけだったんだよなぁ」
 という、なんともいえない懐かしい感じが胸の中にじんわりと残っている。嘘の記憶にちがいないが、まるきり嘘とも思えない、妙な感じだ。
 首をひねりながら、「お前んちで飼ってたんだっけ?」などとごまかすように水を向けてはみるものの、友人は「ええ…?」と困ったように笑うばかりである。
「まあ、飼ってるやつくらいはいたと思うけど……」
 と、同じように首をひねって考えてくれたが、挙げられる名前は、家に上がるほどの仲ではない同級生数人ばかりだった。とても自分のことのように思い込む関係ではない。

 話しているうちに、また「餌をやってない……」という気持ちになり、酔いも醒めてしまったという。



「『それこそアニメかなんかの記憶と混ざってるんじゃないか』と言われて、そのときは納得したんですけどね。
でも、混ざってるにしてもアニメじゃないと思うんですよね。においとかも思い出すんですよ。犬のにおいもそうだし、ハーネスのかおりとか、いつもあげてるペットフードの袋のデザインとか。
 あとは、飼ってた家の間取りとか、散歩してたコースとか……ああ、あのへんにあれがあったなっていう場所の記憶みたいなのがリアルに思い浮かぶんですよねえ」

「飼ってた家の間取り?」

 私が口を挟むと、彼はきょとんとしている。

「なんか変ですか?」
「いや、なんか、聞いててふつうに君の実家とかで飼ってたっていう記憶なのかと思ってたんだけど。違うの」
「ああ、違いますよ。犬がいたのは別の家です」

 私はすこし言葉に困ってから、こう尋ねた。

「あらら。じゃあ、なに、架空の家なの。完全に」
「いや、どうなんですかねえ。かなりリアルには思い浮かぶんですけど。俺の家ではないですからね。架空なんですかね……」
「その、犬の散歩コース……の風景は、地元なの?」
「うーん……違うとおもいます。
地元は普通にマチナカつうか、田舎のマチナカですけど、その家はたぶん地元よりもうちょっと田舎なんですよね。家の周りも林みたいな感じで、山っぽいんですよ。ド田舎ってほどではないと思うんですけど」
「へえ……」

 秋田県北部の生まれの私は、なんとなく自分の地元に似て聞こえるその風景を想像してみた。林に囲まれ、里山があるようではあるがスゴい田舎というほどではない。道路はどんなかんじなのかな。


 ああ、道路はふつうにアスファルトですよ。砂利とか土とかじゃなくて……あ、でもちょっと行くとそういう道もありますね。そっちまでいくと山に近いんで、散歩ではあんま行かない……って感じがしますけど。

 家はたくさんある?

 まあまあって感じです。高い建物はあんまないすね。工務店…?とか、ちっちゃい工場、倉庫…?とか、そういう建物はデカめですけど。ビルとかは全然。

 お店とかはあるの。ここみたいなファミレスとか、スーパーとか、なんかそういう普通の店。

 ファミレス……わぁ…あるかな? ●●●とか●●●●●とかはないです。ローカルなのかなぁ、なんか行く店はわかるんだけど、名前とかがわかんない感じで……。うーん。
 スーパーは……ちっちゃいけどありますね。あと…なんだ……

 それさあ、家族っているの。親に頼み込んだみたいなこと言ってたけど。

 いますいます。お父さんとお母さんと自分って感じです。三人暮らしでそこにいます。

 二人の顔とか、名前とかは。

 ええー…と……名前……わかんないな…。

 じゃあ、その町の名前はどう。

 うーん、なんか電柱とか見るとどっかに書いてありそうな……。

 


 そこまでやって、私も彼もすこし冷静になった。

「なんか退行催眠とか、そういうのみたいになっちゃったね」
「詐欺ってこういう感じなんですね……」
「私は真面目に聞いてたよ」
「なんか騙してお金とか取ろうとしてます? やめてくださいね」

 調子を取り戻して笑い出す彼に、私は呆れた。

「取られるほどお金あるの」
「いや、マジで貧乏ですよ。残高見ますか?」

 本当にスマホで見せようとしてくる彼をあしらって、私はドリンクバーにお茶を取りにいった。



 戻ってくると、彼が席にいなかった。
 荷物はあったのでトイレかなと思っていたが、10分ぐらい経ってようやく彼が戻ってきた。妙な顔をしていた。

「なに。体調わるい?」
「いやぁ……」

 唇を結んで目を伏せる彼に強いると、うーん……と話しだした。

「いま、さっきあって…」
「ん?」
「その……今トイレに入ったら、あーの……」
「なに」
「犬の……。あの、さっき話したことが、またあって」

 さすがに私も言葉に詰まった。

「今?」
「今ですよ。死んじゃってるかもしれないって思って……。すぐ、あ、違う違う、ってわかったんですけど」

 ため息をつく彼の顔は、変な話を聞きたがる私に少し盛ってサービスしてくれたという感じではとてもなかった。
 すぐに違うと分かった、とは言うが、席についた彼はちらちらと出口の方を見ている。飽きたとか、疲れたとか、そういうのよりは、なにか気がかりがあって早く帰りたいというような感じだ。
 
「本当に起きてるときにあるんだ……というか、今も続いてるんだ、それ。もう終わってる話なんだと思ってた。ごめんね」
「いや、そうなんですよ。
もう、来るのはしょうがないとして、疲れるんですよ毎回。
違うってわかっても、ほんとはいないんだと思っても、なんかこう、生き物のことじゃないですか。安心できないんですよね……。
これ、伝わりますかね……」

 まったく伝わらないということもない。なんとなくはわかる。
 でも、ちゃんとわかるとも言えなかった。

「なんですかね。臓器移植したら、臓器の持ち主の記憶まで移ったみたいな話って、あるじゃないですか。ほんとかどうかわかんないですけど。
 なんかこう、イメージとしてはああいう感じなんですよね……。記憶としては自分のじゃないけど、自分のものとして感じられて、なんていうかその権利……じゃなくて、そういうイイ方の意味じゃなくて……責任? 思い出してるからには責任は自分にあるし、その記憶も味わってるのは自分だし、みたいな。

 あ。当たり前ですけど、俺は臓器移植とかしてないですよ。マジで異常に健康なんで、大怪我も病気もしてないですし。輸血もしたことないです。
 すげーちっちゃい頃に知らずにやられてたら分かんないかもしれないですけど、それは無いでしょ?」

 ないだろうね、と私は言った。

「うーん……なんか疲れててそうなってるんだとしたら、そうとう疲れてるよね」
「疲れてるんすかね。自分ではそういう気はしないんですが……疲れてるとしたら、このこと自体で疲れてるんで……」
「大丈夫?」
「……まあまあキツイですね。思い出すときは。
 まあ、何十頭もいるようなもんですからね。キツイんじゃないですか。変なことなんで、自分でもよくわかんないんですが……」

 一度、ふーん、と相槌を打ってから、私は何か変なことを聞いた気がして、口を開いた。

「何十頭?」

「はい。
……あの、比喩ですよ。頭の中で架空の犬を飼い続けてるとかそういうことではないんで……そういう、記憶がバーってくるっていう話であって……」
「そこは誤解はしてないと思うんだけど、何十頭っていうのは、その記憶ではいっぱい犬を飼ってたって話なの?」
「ん?」
「え?」
「いや……?」

 自分で言っておいて、彼は考え込んでしまった。
 私はそれを見ながら、そういえば犬の特徴をぜんぜん聞いてなかったなと思った。

「その犬って、どういう子なの。大きいの? ちっちゃいの?」
「大きいのもいますけど……多くはないです。だいたい小さい、ちゃんとした犬種がちょっとアレなんですけど……」
「そういうのをいっぱい飼ってる家なんだ、記憶では?」

 それにしても何十頭は多いなと私は思ったが、

「いや、ん……?」
「ちがった?」
「うーん、あ、そうだ。わかった、わかった。毎回違うからだ。なるほど」
「え?」

 どうも混乱した話なので、私も自信はないのだが、まとめてみるとこういうことらしい。

 彼が犬のことを「思い出す」とき、それは毎回違う犬なのだそうだ。
 それぞれの記憶のなかでは、犬は一頭で飼われている。
 抱き上げたときの手触り、暖かさ、におい。もちろん名前も、はっきりとわかる。
 そんな犬の世話を長いこと忘れてほったらかしていた、というありもしない記憶が込み上げるように思い出され、それが不意に何度もあるので大変つらい。
 
 しかも、その何十回も「思い出す」それぞれの犬について、彼は今も明確に思い出せるし、違う犬だということも当然わかっていた。

 だが、いまさっき自分で口にして私に訊かれるまで、それをまるで一頭の同じ犬のように「分類」していたというのだ。

 もちろん、繰り返しになるが違う犬だということはわかっている。
 だから「何十頭」と彼は言ったのだ。
 でも、頭の中で「分類上は」同じだから……という気がしていて、一頭のような、そうでないような……とあやふやな状態で、それを指摘されて初めて気がついたという。


 それがいったいどういう状態なのか、私にはよくわからないのだが、話しているうちに彼自身は腑に落ちたようだった。


「なんか、ますます夢って感じですねこれ」

 ややして、彼はそうあっけらかんと言った。

「自分でもわかんないけど、疲れてるんでしょうね。なんか、ちょっとスッキリしました」
「私はかえって分からなくなったけど……本当に大丈夫?」
「真面目な話、一回くらい病院行こうかとは思ってるんですよ。
こういうのって心療内科ですか?」

 ちょっと予想しなかったセリフなので、私は面食らった。

「心療内科……まあそうね。クリニックとかでもいいかもしれないけど」
「あー、そっち系でもクリニックってあるんだ。あ、そうですね。なんとかメンタルクリニックとか、言われてみればアチコチありますね。そうだそうだ。病院ってぜんぜん行かないんで、あんまり分かんなくて……。
 病院詳しいですか? なんかいいとこ知ってます?」
「病院詳しくはないけど……」

 彼の興味が通院に移ってしまい、私としても「お前の健康はいいからさっきの話を…」と言う気にはならなかったので、彼の家の近くの、パッと行けそうな病院やクリニックをいくつか検索した。
 ここはどうだ、いや口コミの評判が……という話をいくらかしてから、彼が「ここにする!決定!」と綺麗そうな外見のクリニックを一つ選んだので、そこで話を終えることにした。

 会計を済ませてファミレスを出ると、既に日も落ちかけていた。
 少し先の最寄り駅の駅舎に、夕日が隠れようとしているのが見えた。

 そのとき、彼が「あっ」と小さく声を漏らしたので、私は彼を見た。
 まさかまた、と思ったが、彼は軽く笑みを浮かべていた。

「わかりました! 名前!」

 なんの、と尋ねると、彼はなめらかに答えてくれた。

「あのねえ。町の名前とか人の名前とかはわかんないんですけど、思い出すと、その犬飼ってる自分の家に看板があったんですよ。
 こう、家を出て振り返ると、脇に立ってる古いのが一つと、家の別の玄関の方に一つ大きいのが掛かってて、それは塗り直したから新しいんですけど。
『●●●動物クリニック』って書いてました!」

 あれ見て思い出したんです、と彼が指さしているのは、ちいさなビルの一階に入っている小綺麗な動物病院だった。

「あそこは『●●き ペットクリニック』でしょ。あれ~?なんかピンとくるな~と思ったんですけど、『●●●』と一字違いなんですよ。思い出した思い出した。
 だから、あそこのお父さんとお母さんも『●●●さん』だと思いますよ。下の名前は知らないですけど」



 ガラガラの電車に乗る彼と別れ、満員の電車に詰め込まれながら携帯で検索をしてみたが、『●●●動物クリニック』というのはパッと検索した限りでは日本には存在しなかった。
 「●●●」は名字のようで、そんなに珍しいものでもないと思うのだが、意外にも「●●●動物病院」とか「●●●ペットクリニック」みたいな表記でも1件もなさそうだった。

 もちろん、Google検索で引っかかるサイトに日本すべての動物病院が完全網羅されているとは限らないし、潰れた病院なら出てこないこともあるだろう。
 調べる方法は何かしらあるだろうが、そもそも彼の現実ではないと思われる「記憶」でしかないし、仮に同じ名前の場所があったとしてそれが何を意味するかと言われれば、別に何も意味しないと思う。
 だから、特にこだわって調べることもせず、すぐにやめた。

 念のため添えておくと、「●●●」は彼の名字ではない。ありふれた名字ではあるが、親しい知り合いにもいないそうだ。



 もうひとつ大事なことだが、彼はその後、最初に行くと決めた所とは別の(最短で取れる予約が数カ月先であきらめたらしい)、どこだかのクリニックに数回通って以来、「犬の記憶」に襲われることがパッタリと無くなったそうだ。
 そこの先生と彼が話し合った結果、彼なりの解釈としては、

「苦労しながら就職活動をして、落ちた会社への未練であったり、学生生活への後悔であったり、入った会社での不安や緊張であったり、色々なストレスをケアしないまま自分でも気づかないうちに長く溜め込んでいて、それが『動物の世話を忘れていた』というイメージで強く出たのでは」

 ということのようだった。
 彼自身、「明るく気楽で悩まない」という自認があり、ふと心身の疲れを感じても「気のせい」と思い込んで流してしまいがちだったかもしれないと言う。


「自分の世話をしろってことだったんですね~」

 と言う通話での声は健康そのものだったので、実際もう平気なのだろう。
 そう言われてみると、ファミレスでポロッと語っていた「権利」とか「責任」とかいう言い回しは彼らしくないところで、新卒で会社に入りたてというのもあってか、色々なことを自分に引き付けて考えすぎていたのかもしれない。

「じゃあ、もう元気に会社の犬をやれてるんだね」

 こわい話でもふしぎな話でもなくなりそうだったので適当に返してあげると、彼は「です!」と健康な犬そのものの返事をくれた。

「ただ、また急に来たら怖いんで」

 ケージを買って、アパートの部屋に置いていると彼は言った。



動物が「いる」としたら
『た●●動物クリニック』ではなく

現実の部屋の「そこ」であって

さらに「そこ」は空っぽなのだから
つまりなにもいない

いないものの世話はしなくていい

おしまい


 そういう理屈のハシゴをつくっておいて、次に「犬」が来たときには、その理屈のハシゴをのぼればすぐ安心できる。

 それもクリニックの先生と話し合ったのかと尋ねると、一応相談しつつ自分で考えた、とのことだった。先生も苦笑いしていたが、止めはしなかったらしい。


 コロナ禍の前後で彼が仕事をやめ、彼の地元に戻って再就職したこともあり、その後のことを詳しくは聞いていない。
 ただ数回LINEで話した限りでは、収入は減ったがまあまあ元気だそうだ。
 農家を営む両親と、父方の祖母といっしょに、四人で暮らしているという。

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 個人的な好みの話をさせていただくと、動物の……とりわけペットとしての動物がかかわるこわい話はそこまで好きではないのですが、この話は、直接聞いた原型では犬や猫などのペットの話ではなく、話をわかりやすく・マイルドにするために「犬」としただけなので、いいかと思って書きました。
 
 彼のイメージに出てくるのが「何とかいう名前の動物病院」というところと、一連の出来事が理由で、対処として「彼が空のケージを部屋に置いていた時期がある」というところはそのままで、「犬」でも話が通るように細かな部分を変えています。


2023-07-12

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