【学習院大学卒業生謝辞】尖った姿勢と尖った内容は切り離して評価すべき

コロナの話題に隠れて議論を呼んでいたトピックがある。

まずはこちらの【謝辞①】を読んでほしい。

コロナの影響でさまざまな大学が卒業式を中止にし、その代わり卒業生代表のあいさつだったり、教授からのお祝いのメッセージだったりがweb上で公開されるようになった。学習院大学もそのひとつである。

そして、同大国際社会科学部の【謝辞①】が、賛否両論で議論を巻き起こしている。

書いた方は小堀奈穂子さんという方で、Twitterもやっている(@koboroid)。謝辞を読めばわかる通り賞を獲ったりするなど学業面で極めて優秀な成績を修めた方だそうだ。

賛否両論の賛成側の意見としては「尖った正論」「よくぞ言ってくれた!拍手!」みたいなものが多かった。

で、僕はどう思ったかと言うと、

尖った謝辞を載せるという『姿勢』は好きだけど、謝辞の『内容』は好きじゃない。

誤解の無いように言っておくと、僕は変人や尖った人やひねくれ者が大好きなので、こういう尖った謝辞を載せようとする人がいたこと自体がまず嬉しいし、小堀さんの優秀さも素晴らしいことと思う。ただ、尖った姿勢と尖った内容をごっちゃにして評価すべきではないと思った。というのも、小堀さんを過度に持ち上げている人の中には、尖ったことをしているというだけで謝辞の内容も吟味せずに無条件で拍手喝采している人もいたからである。棘っているから素晴らしい!というのは一種の思考停止であると考える。


次の2点において僕は小堀さんの謝辞に反対する。


第一に、自己への感謝と他者への感謝は両立しうるということ。小堀さんは謝辞の中で、

大学で自分が努力してきたと言えるならば、卒業生が謝辞を述べるべきは自分自身である。感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない。

と書いているが、別に感謝の対象は自分か他者かの二者択一ではないだろう。学業を頑張った自分に感謝するのは素晴らしいことだ。だが、学業を頑張れる環境を整備してくれた教員やスタッフ、家族などにも感謝することはできるのではないだろうか。そしてもし、彼女が家族や教員に見放されて孤独に学業に向き合っていて本当に誰にも感謝する気が無いのであれば、そもそも謝辞を書く器じゃない。引き受けたこと自体がミスチョイスである。


第二に、強者は何を言っても許されるというメッセージと読めてしまう点である。小堀さんは

私は素晴らしい学績を収めたので「おかしい」ことを口にする権利があった

と述べている。いやいやいやいや。どんなに学業優秀でも、どんなに地位が高くても、それを理由に「おかしい」ことが言いたい放題まかり通るならばそれは中世の独裁国家と何も変わらないではなかろうか。まぁ百歩譲ってここで言う「おかしいこと」の意味が、「社会の理不尽に対して声を上げること」だとしても、それならばどんな人間にも言論の自由が与えられているから、優れていない者でも「おかしい」ことを口にする権利があるはずだ。「おかしいこと」というワードをどのように解釈したとしても、小堀さんのこのくだりには疑問を抱かざるを得ない。


・・・とまぁこんな感じで僕は小堀さんの謝辞はあまり好きじゃない(何度も言うが姿勢は好きだ)。だが最後に、もっと倫理と知性を両立させて小堀さんの謝辞を見事に断罪しているツイートがあったので紹介しておく。僕の高校の後輩だ。

https://twitter.com/aike888g/status/1242714713009471488


おわり


P.S. 通常のwebサイトだとnoteに埋め込みできるんですがYouTubeやツイートを埋め込むことが出来ません。解決策知っている方いれば教えていただきたいです。ブラウザはMicrosoft Edgeから投稿しております。





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