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ダメな子③~溺れる~

「店長ーーー!店長ぉーーーー!」
「おお、ユキちゃんどうした?テンション高いな」
「店長!良介と付き合ってる!」
「なにっ…マジか!なんっだお前ら、早すぎやっし!」
 
 もう、世界中の人に言って歩きたい。幸せすぎて、死ねる。
 
 
 
***
 
 あたりが暗くなると、私の心は騒ぎだす。

 寮で適当に夕飯を済ませ、彼のアパートへ走る。夜を一緒に過ごし、朝別れる。裸で抱き合う感覚が猛烈に好きで、こんなこと初めてで、夜が楽しみで仕方なかった。毎日繰り返しのこのルーティーンがたまらなく楽しみで、大学もバイトも一日中ふわふわしていた。

 処女を捧げる、なんて言いすぎだけど、心待ちにした瞬間だった。怖いような楽しみなような初夜も終え、もう処女じゃない優越感に浸る間もなく、毎晩のセックスが待ち遠しかった。隣室との壁の薄さなんて気にも留めず、めいっぱい声をあげた。それすらも、快楽の一部だった。

 少し肌寒い部屋の中、彼の生温かい背中に抱きついて布団で暖をとる。これ以上の幸せってあるんだろうか。部屋に充満したお香のにおいが、布団にも、身体にも、染みついていた。
 

「ユキ、どした?」

 余韻に浸っている私を気にしてか、良介が声をかける。
「ん、ふふ。幸せすぎて」
 隣でにこりと微笑む良介。
「あっ、ちょっと!」
 ぎゅーっと抱きしめられる。背中に押し付けられる、良介の太い指。
 きつい。でも、幸せすぎて、たまんない。この幸せはずっと続くんだと、確信した。

 そう、確信した。

 
***

 ガシャーーーーン!

「あっ、ごめんなさい」
「おいー、何やってんの!気を付けて、ほら、早く、お客さん踏んじゃうから急いで!」

 割れたグラスを片づける。
 幸せなはずなのに、バイトの不出来は変わらない。
「仕事中は集中するんだよ」
 別に集中してるし。付き合ったことを責められてるようで、悔しい。ただ手が滑っただけだし。
「いらっしゃいませー」
 相変わらずBarの接客はテンションが上がらない。早く良介のとこに行きたい。抱かれたい。余計なこと、考えたくない。
 

 ガチャリ。
 鍵のかかっていない無防備なアパートのドアを開ける。
「おお、ユキ、今終わったの、お疲れさま」
「ありがと」
 そう言うのが精いっぱいだった。
 グラスを割ったこと、バイトが嫌なこと、言えないまま布団に入った。
 
 抱き合うと、その瞬間は満たされる。何も考えなくていいほど、のめりこむ。良介の腕が、私の皮膚を包み込む瞬間が好き。良介と顔を寄せてキスをする瞬間も、好き。そこから唇が、首に、下に、下がる瞬間は、もっともっと好き。
 
「俺、高校のとき水泳部でさ」
「だからこんなに体格いいんだ。うちのバスケ部は痩せが多いなぁ」
「ずっと水泳やってきたからな。夏休みは海で遠泳とかしてさ…」
 
 布団でのおしゃべりが、ルーティーンに加わった。話好きな良介の横で、頷きながら天井を見つめていた。
 話が終わるのを待って、肌を重ねながら眠る瞬間が大好きだった。
 

***
 
 付き合って二か月が経った。前よりも増して彼の部屋に通っていた。
 セックスは、私の脳内を狂わせてくれる。お酒なんかの比にならない。口内を搔き乱すキスも、全身を這う舌も、良介を欲しがる膣も、全部ぜんぶ、私の頭を無にさせた。麻薬って、こんな感じなんだろうか。
 ひたすらに愛し合って求め合って力尽きて、布団に息絶える。
 これだけで十分だったのに。
 
「大学院でさ、自殺した人がいてさ」
「え…何それ」
「何回か話聞くんだよね。大学と院に六年もいると、よく聞くよ」
「そっか、嫌だね。私の後輩も突然病気で亡くなってね」
「階段でさ、ゴミ袋かぶって、それで窒息するんだって」
「…そうなんだ」
「苦しくないのかなって思うよ。あとはね、理学部の知り合いでね…」
 
 なんとなく会話が噛み合っていないことに気づき出すには、そう時間は要さなかった。
 良介は、自分の話ばかりする。私の話はいつも、無かったことにされる。気のせいだろうか。良介みたいに、自分の話ばかりすればいいんだろうか。そんな主張、できっこない。
 だったらもう、話なんてしなくていいからさっさと抱き合って眠りたい。退屈な話は眠気さえ呼びつける。私の幸せは、セックスと、抱き合って眠ることだけだよ。
 

***
 
 時計がいつもの夜八時を指した。バイトのない日は、駆け足でアパートへ向かう。興奮した身体を一度落ち着かせ、静かにドアを開ける。
 
「来たよー」
 
 しんとした部屋。
「あれ?良介―?」
 電気をつけると、布団に突っ伏してる良介。
 そっと近づいて肩を叩くと、驚いたように顔をあげた。
「あっ、あぁ、ユキ、おかえり。うわ、俺寝てたのか」
 最近、研究で忙しいのだろうか。
「お疲れ、良介、いいよそのままで」
 いつものように、布団に入る。
 背中を向けてる良介に優しく抱きついて、こちらを向くのを待つ。

 …

 あれ?

 思いもしない沈黙が、突然部屋を流れた。時計の音だけが、空間に響き渡る。心臓の音も、聞こえるように全身に響きだす。いつもと違う様子に、はっと気づく。
 
「ごめん、ユキ。
今日ちょっと疲れてて。ごめん」
 
良介のやつれた声が、頭を刺した。抱きついた手が、ぴたりと止まる。
 

 いま何て言った?
 

 頭の中が、白くなった。
 何?今日セックスできないの?疲れてるって、ヤれば元気になるんじゃないの?私が癒してあげるよ?
 口から溢れ出そうな言葉を、喉元で留まらせた。

 …言えるはずがなかった。
 ヤリたいなんて、みっともなくて言えない。でも…。理性と本能が交わる。心臓が飛び出そうなほど、高鳴り、苦しい、吐きそう。言葉の代わりに、私の気持ちに気づいてほしくて、背中に頬をつける。
 
「ほんとごめん…」
 
 ヤレない絶望の暗黒が、急に目の前に押し寄せてきた。
 冗談じゃない…。私からセックス取らないでよ。ヤらせてよ。暴走した子宮、どうすんのよ…。
 絶望と怒りと焦りと、行き場のない性欲が脳内を取り乱す。悔しいけど、何も仕掛けられない。「抱いてほしい」、たった一言が言えなかった。 
 ただただ、口をつぐむしかなかった。ぎゅっと閉じた唇が、心が、痛かった。せめてこの、傷んだ唇にキスしてほしかった。それすらも、言えなかった。いつも聞き役の私は、話す勇気が持てなかった。私なんかが、意見なんて言ってはいけない。断られたらと思うと、猛烈に怖い。
 
 頭の中でぐるぐると考えてる間に、すぅと寝息が聞こえた。
  
 明日になればまた抱いてくれる。たった一日待てばいい。でも、私の目の前は暗転した。暗い。何も見えない。
 
 ふっと涙が頬を伝った。
 やばい。なんで泣いてるの。セックスできないだけでなんで泣けてくるの。大事にされてないわけじゃないでしょ。嫌われたわけじゃないでしょ。これじゃあまるで私が、セックスしないと生きていけない人みたいじゃない。
 悲しいのか、悔しいのか。それとも別な何かなのか。口に出せないよく分からない感情をどうしたらいいか分からず、部屋を出た。
 逃亡は、仕返しになるかなと、思っただけ。朝起きて私がいないことに気づいたら、良介、少しは反省してくれるだろうか。
  

 カランカラーン。
いつもより重いドアをグッと開ける。ふらついた足は、いつのまにかバイト先に辿り着いていた。
 こんな日はもう、酒に溺れたい。ひとりになりたくないよ。
 

 ぜんぶ良介のせいなんだからね。

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