何を言ってもネタバレになるのでいい感じのタイトルがつけられない 〜映画『正欲』ネタバレあり感想〜

映画『正欲』について、原作と比較しつつ感想を書いていきます。

※映画および原作小説のネタバレがありますのでご注意ください。

全体の印象

ストーリー自体は原作小説と概ね同じなのですが、観終わってみれば原作とかなり印象の異なる作品に仕上がっていたように感じます。

端的に言えば、原作の方が「論争的」、映画の方が「情緒的」でした。

原作では「多様性」というテーマを巡って各視点人物の価値観が詳細に記述され、ライトな哲学書のような瞬間も見られるのに対し、映画では論争よりも登場人物たちの感情面がよりフォーカスされていました。

特に後半、新垣結衣さん・磯村勇斗さんの演じる「擬態」した二人のエピソードにより、この物語の持つ「悲しさ」「寂しさ」そしてほのかな「温かさ」が鮮やかに描き出されていたように思います。

以下、何点か具体的に感想を述べていきます。

「欲」の映像表現

原作ファンとして非常に気になっていたのが、この物語の中心的アイディアである「水への性的欲求」をどう表現するか、という点です。

演出の方向として、二通りの選択肢があったと思います。

①水を性的に演出する→視聴者は夏月たちの世界を「内側」から体験する。

②水を"普通に"美しく撮る→視聴者は夏月たちの世界を「外側」から見る。

このうち、今回の映画で選ばれたのはの方向性だと感じました。

劇中では何度か夏月たちが水浴びをして性的欲求を満たすシーンがありましたが、彼女たちの表情や仕草などは、「普通の」人間が水浴びをしている時のものと、さほど変わらないものに感じました。

そのため、映画の文脈関係なく水浴びのシーンだけ見た人がそこに性的ニュアンスを感じ取ることは難しいように思います。

(一応、高校時代の佳道が口を痙攣させるなど、官能的な表現もあるにはあるのですが、情報無しに見た場合は性的興奮であるとわかりづらい程度だと見受けられました)

このような演出により、視聴者に対し「自分たちの想像もつかないような他者」の存在を体感させる効果があったのではないかと思います。

八重子パートの大幅カット

原作との最大の違いは、原作の視点人物の一人である神戸八重子のエピソードが大幅に削られたことです。

とある大学の学祭実行委員として、多様性を称える祝祭の場「ダイバーシティーフェス」を企画する八重子。

過去のトラウマに起因する男性恐怖症、また容姿に対する自信のなさなどから、「"恋愛感情によって結ばれた男女二人組"を最小単位としてこの世界が構築されていることへの巨大な不安」(原作p.46)を持つ彼女ですが、一方で、自身も異性愛者としての「正欲」を抱き、男性と交わったり家庭を持ったりする「選択肢」が与えられていることで苦しんでいます。

そんな葛藤から「いっそLGBTに生まれていればよかった」(p.162)という思考すらよぎってしまう八重子は、生まれつき「正しくない欲」を持っている大也や佳道、夏月と正反対の存在。

真逆の苦しみを抱える八重子と大也の対話は、原作小説のハイライトになっています。

はじめから選択肢奪われる辛さも、選択肢はあるのに選べない辛さも、どっちも別々の辛さだよ

(原作p.343)

このように、原作小説において非常に複雑かつ重要なポジションにいる八重子ですが、映画では彼女のシーンが大幅に削られていました。

例えば……

○男性恐怖症のきっかけとなったエピソードの説明がほぼ全カット
 →これにより、八重子という人物の掘り下げがかなり控えめになります。

○よし香の出番縮小、紗矢の不在
 →原作では、八重子の親友であるよし香に彼氏ができる展開や、八重子の憧れの先輩である紗矢が結婚や出産について語るシーンがあり、身近な人達が恋愛や生殖といった事柄を「自然と自分ごととして捉えている」様子が、八重子の疎外感を際立たせていました(p.194)。映画ではよし香の出番が短くなり(彼氏の話題のほか、K-POPアイドルに熱を上げている描写も無し)、紗矢にいたっては登場すらしません。

○優芽との会話シーンのカット
 →原作では、ダンスサークル「スペード」の会長・優芽が八重子に「大也はゲイだと思う」と暗に伝える(実際は違うのですが)シーンがあり、それにより、八重子にとっての大也が恋愛対象から「孤独から救い出す」対象に変わります(p.168)。映画ではこの会話シーンがほとんどカットされているため、八重子が劇中後半において大也に対しどのような感情を抱いているかが少し曖昧になっていました。

先に述べた八重子と大也の対話シーンは映画でもあるのですが、彼女のバックグラウンドや思想が原作ほどは明示的でなくなったことにより、「わかりあえない者同士は対話すべきか? 相互不干渉でいるべきか?」という政治的対立軸の表現が原作よりは控えめになっていました。

その他、原作との違い

その他、原作との違いで気づいた点をいくつか取り上げていきます。

○プロローグの独白
 →原作では佳道が文章にまとめていた「たとえば、街を歩くとします……」ですが、映画では夏月に口頭で聞かせたものに変更され、文体も柔らかくなっていました。

○夏月が自殺しかけるシーン
 →原作では「信号機が目に入って無意識に交通ルールに従う」ことでブレーキをかけていましたが、映画では「自転車で前を横切った佳道を見て急ブレーキ」に変更されました。映像の場合はこちらの方がわかりやすいですね。

○西山修が水難事故に遭わない
→これはおそらく単純に尺の問題でしょう。

○啓喜と夏月が事件前に出会う
 →啓喜にとって「ありえない」存在である夏月が実は身近なところにいる、というニュアンスが伝わってきます。

○寺井夫妻が離婚調停に
 →この展開も含め、啓喜は全体的に小説よりもやや「悪役」としての印象が強く感じました。

○啓喜の「涙」フェチの設定が削除
 →原作の啓喜は、妻・由美が性行為の際に涙を流すことから自然と涙に性的興奮を覚えるようになっており、このことが原因で彼の「正しさ」が揺らぐシーンがありました。この設定が削除されたこともあって、映画の啓喜は原作よりもマジョリティとしての「隙のなさ」(そしてそれに伴う、マイノリティに対する想像力の未熟さ)がより強調されています。

まとめ

今回は映画『正欲』について原作と比較しつつ感想をまとめました。

原作とは違う雰囲気に仕上がりつつも、「別物」というよりは原作の「補完」にも感じられる作品で、映画を観たことでよりこの作品が自分の中に落とし込まれた気がします。

今回は以上です。最後までお読みいただきありがとうございました。

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