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戦争と平和とクライテリオン

おはようございます。フェニックス髙橋です。
半月ぶりの更新ですが、今日は天の邪鬼が毎年思うことをとても短くまとめます。

お盆が近づくと、毎年のように戦争特集のようなものをやりますよね。
蛍の墓とかは流石にもうやらないのかな?

アレを見るたびに「こんな無体なことしたアメリカ人、絶対許さんぞ」と自分は思うんですよ。
例えば自分の大切な人が無惨に殺されて、その現場を見ていたとして、その時に「僕たちが悪いことしてました。次からはやられないように反省します」とか思うようなヤツがいるんだったら、ソイツは人としてどうなんですか?と思わざるを得ません。
もしかしたら、死んだ人が極悪非道だったら(自分はそれでも良いとは思いませんが)やられても仕方がないと思う人はいるのかもしれません。

しかしながら、大半の日本人は「こんなことが2度と起きないよう戦争はしない方がいい」となるらしい。
もちろん戦争は無い方がいいでしょう。そこに異論はないのですが、その一方で自分の先祖が虐げられたことに関しての腹立たしさがあっても良いのではないか?とも思うんです。
もちろん日本の戦後はアメリカとの関係なくしては語れないですし、今の豊かさはアメリカに支えられたところもあるでしょう。
大っぴらに文句を言う必要はないんですが、隠れたところで「いつかボコってやるからな」という気持ちは必要ではないのかと思うんです。
例えば自分の嫌いな上司が偉そうな事を言ってたら、表面上は「分かりました」と長いものに巻かれても、心の中では「アイツ偉そうにしやがって」位な感じで同僚と飲みに行ったところで、上司に隠れて文句を言うようなことではないかと思います。
少なくとも自分は上司に媚びへつらっても何も感じないような人間と飲みには行かないかなと思います。

話が逸れ放題なので元に戻すと、最近思うのは「当事者意識」が足りないのではないかと。
戦争の是非は今回の論点ではありません。
責任論も置いておきましょう。話が広がりすぎてしまうので。
どんな状況であったにせよ、自分の家族が人為的なもので亡くなったら、その相手に対して怒りをもつのは当然で、表面上は「不作為なら仕方がない」と言いつつも裏では「絶対許さない」位の感情があるのではないでしょうか?それが家族と言うものなんだと思います。
何故か日本人を批判する人が右も左も大多数ですが、空襲したのはアメリカ人ですからね。日本人を批判しても良いんですが、その前に直接の加害者に怒りをぶつけるのが同胞として当然なのではないかと思います。

社会がおかしくなった根本的な原因がここにあるのではないかと思いつつ、夏の終わりを実感する今日この頃。引き続きご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

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