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FUTURE...わたし、マスク外すよ

本棚の隙間から偶然出てきたツバメノート。この高級ノート、かつて満を持して購入して、満を持して使い始め、早々にすっかりその存在を忘れて本棚の地層でお眠り遊ばされていたノート。そういうノートがわたしには何冊かあるね。

開いて見たら、たった一度行った、野口整体・シュタイナー教育をしている人の講演で取ったメモが書かれてあった。


違う視点を持てると人はゆるむ


この一文がすとっと胸に刺さって、わたしが他の人のnoteを読むことで何を体験したいか、何を期待しているかと言いうと、そういうことだったんだな。自分の中にある何かが、違う視点で言語化されることで、ゆるむのか、何か、凝っていたものが。

ある要求が満たされずにいると、それがやがてこだわりにようになってアンコントローラブルになってくる。繰り返してしまう。過剰に摂取してしまう。満足しない。足止めされてしまう。反応してしまう。そういうこだわりを「こうけつ」と言う(字は分からない…)、それを取っていくのが「整体だ」と。

自分が親との関係の間で作った「こうけつ」。

小さい頃は問題にならないが、大きくなるにつれて満たされなかった要求に飲み込まれてしまう。子育てとは、自分が親との間で作ったこうけつと向き合っていくことでもある。だから整体するには三代かかると言われるらしい。子供を育てるとは、全生=欲求を満たして生きる、をサポートしてやる、ということになる。成長過程でいかに「こうけつ」を作らないか。

生まれたばかりの子供なら「飲みたい」「眠たい」、動詞で見ていくとズレが少ない。自分で動くようになると「跳ぶ」「走る」「書く」「歌う」、個性に合わせて要求にサポートしていくようになる。そうして「見た感じ満たされている」ようであることが重要である。子供は「感応」することで体が作られる。「感応」とは飛び込んで一体化する理解の仕方だ。大人は、そんな子供に「感応」、ポカンとして共鳴することで、その要求のありかや満足度を把握する。子供は批評すると分からない。批評とは、分断して離れたところから見るやり方だ。やがて子供が成長すると、今度は自分自身で奪って満たそうとすることで育っていく。幼少時、たくさんのものと感応していると、その後批評するやり方、共感、モラルに対する理解が早い。批評すると、肉体能力は落ちていく。

…というのが、ノートに書かれた整体的子育ての仕方であった。

ところで。

7月初頭。ここ一応法治国家日本で、元総理が銃撃を受けた。銃撃のあったその日の夕方か翌日には、その銃撃が力学的にあるいは全体的にどうも不自然であることや、クライシスアクターの存在が検証されて、数日後には現場で介抱される元総理の写真が2種類あることが指摘されていた。

プレスに出回っていた「リハーサル」写真と、「本番」の写真があるのではないか、という検証だった。唐突に怒りが、頭を突き抜けて、出て行った。


…やるなら、もっと上手くやってくれ…!!!


付き合いきれないや。急激に馬鹿らしくなって、わたしはマスクをするのを止めた。

コロナウイルスがマスクの隙間の300分の1の大きさであること、コロナウイルスがエアロゾル感染であること、つまりマスクをしていてもしなくても、コロナの感染力は変わらないことを知っていた。それでもわたしが公共の場でマスクをしていたのは、近隣のおじいちゃんおばあちゃんたちが不安がっていて、彼らの「それにはマスクが有効なんだ、マスクをしていれば大丈夫なんだ」という世界観を尊重して付き合おう、彼らが信じている世界をあえて壊さないようしよう、と思ったからだった。しかしどうでもよくなってしまった。だいたい、夏はわたしはマスクがダメなのだ。すぐに頭痛がしてしまう。

「PCR」という耳慣れない言葉がメディアで繰り返され始めた頃、わたしはPCRが何であるかを調べて、発明者キャリー・マリス博士が、パンデミックの前に亡くなっていることを知っていたが、どういう人となりかは全く知らなかった。

質問者:PCRの誤用というのはあるんでしょうか?ウイルスを検査する場合、つまりウイルスフリーのRNAを測定することになると思いますが、あるかも知れないし、ないかも知れないものを、ですが。

マリス博士:それはですね、PCRの誤用というのは不可能だと思いますね。測定結果、つまり解釈の問題ですよ。こう言えると思いますね。もしこのウイルスを、ひとつでも探したいなら、PCRを上手くやればたいていは何でも、誰にでも見つかりますよ。こうも言えるかもしれませんね。仏教的概念で言うと、万物は全てに含まれる(万物全て空である)。たったひとつの分子を増幅し、測定できるまでにするのを、PCRでは可能なんですよ。ゼロに等しい数の分子がですよ。1分子ですら体内に存在しないのに測れるとしたら、誤用と考えられても仕方ないでしょうね、それはPCRが有効との主張に対して。
(中略)
何もないところから、何かを作るプロセスと言えるんです。病気かどうかは、PCRではわからないんですよ。そういうものなんです。

https://www.jimakudaio.com/post-11556

え…。なんだかそういう、とても広いスケールで人間を見ている、ヒューマニスティックな方だと思ってなくて、殆ど存在を認識できないレベルで存在する、「あなたもあなたもあなたも、わたしたちは同じものを共通して持っている」ということを、つまり「わたしたちは同じソースから出来ている」ということを、物理的に観測可能にする技術であったのか、そういう発明だったと言う、人類に対する愛情みたいなものに、それを語る博士の様子に、わたしはなんだかすごく泣けてしまった。

唐突に「コロナ対策=マスク着用」に付き合う気がなくなってしまったわたしだが、丁度折しも「今感染者が増えていますから、ご家庭でも気をつけてください」と学校関係から再三通知が来る中で、ただ無言でマスクを外して、子供を迎えに行き、スーパーに行き、コンビニに行く。

わたしは、マスクをしている人々を、批判するつもりも、批評するつもりもない、一生懸命子供にマスクをつけさせ続ける指導者たちに、ガイドラインを懸命に遵守しながら子供の面倒を見てくれる立場の人たちに、自分の感じている感覚的な理解を、分かってもらおうとも、提案しようとも、思わない。ただ単に「コロナ対策=マスク着用」が信仰されている世界の中に、素顔でいることを自然体だと考えるわたしが、マスクをしないで立っているだけだ。

それでも初めの日は、何か言われるか、誰かに怒られるかな、と思ってびくびくしていたが。

意外に、誰も、何も言わなかった。

島で人と顔を合わせれば、「増えてるね」「怖いね」と言う会話になる。わたしは、「感染者数」とされている数字が、誰かがサイコロ振って数字を決めているようなものとしか受け取れないので、そして重症者数が我が県ではゼロ、2名以下の都道府県が全国で35くらいだそうなので、「全然怖くないですよ〜〜」、と言いたい。

でも言わない。

「マスクをしない」と言うと、すごくアンチズムがあるように、あるいは社会やメディアに批判的であるように、あるいは「あなたは間違っている、わたしは正しい」ということを証明したいのだ、とわたしが思っていると思われるのだが、そういうんとも違うんよ。この感じは。何と言うのかな…。だから良くTwitterで見る、反マスクの活動をしている人たちの発言が、自分の望みと明らかに違っているな、と思う時、わたしがしたいことは、

流れに逆らわない

ということが一番近い、というような気がした。

わたしはマスクが苦しいし、意味がないし、 只今の流行を怖れを元にした4回目のワクチンのキャンペーンだと思っているし、そうであると認識させないメディアのしかけを「悪」だと思い、許されない蛮行だと思うが、でも「その場ではマスクをする方が自然だ」と感じる空間ならば、わたしは場を尊重してマスクをする。例えば銀行でカウンターに座る時や、着用しなければサービスを受けられないとか、相手に気を使わせて互いに嫌な思いをする可能性がある場面では、わたしはマスクをして波風を立てない方を選ぶ。あるいは、知り合いであろうとなかろうと、同席したお年寄りがわたしにマスクをして欲しいと要求するなら、その場はマスクをして、その人の不安要素を1つ解消してあげるのは、その人の信じる世界を尊重してあげるのは、年配者に対する思いやりの一部ではないか、そのくらいの愛情を持って接してもいいのではないか、と、いう風に思う。わたしはマスクが自分にとって自然じゃないと思って外したが、イデオロギーでもアイデンティティでもなんでもない。単なるマスクよ。マスクの効果を信じている社会と決別したからと言って、分断を深めたいのでも、対立したいのでもない。他者が信じたいものを信じるのを、居たい世界に居たいだけいるのを、そのまま尊重しようと思う。それだけだ。

自分の感覚にも従い、環境にも従う。ケースバイケース。流動的。それは「流れに身を任せる」という言葉が一番しっくり来るようにわたしは感じた。

Always, I need it too
(いつも、俺にだって必要だ)
When I said do
(やる、と言った時には)
勇気と信念
ポジティブなリズム
Always, I need it too
(いつも、俺にだって必要だ)
When I said do
(やる、と言った時には)
未来を歩く
希望の歩み

そう、俺自ら決めたことも
決められないことも(Future)
近づくにつれて怖くなる
ひとりで耐えるのは大変で(Future)
Man, you must go with the flow
(よう、流れに身を任せろよ)
そうだ、流れるままに行こう

j-hope【Future】 訳:パクチー

だから、これはポジティブなことであって欲しい。「皆が信じるものに合わせない」、それには多少の勇気と信念が必要だったけれど、自分的には希望的な行為であるようにい続けたい。「マスクが要る」というこだわりも、「マスクはいらない」というこだわりも、どちらかに偏るならそれは「こうけつ」になっている。わたしがぽつんと独自のあり方でポジティブに立っていられるなら、「違う視点」として居合わせる人の意識にひっかかることができるんじゃないか。何かをゆるめるのでは?それならば余程意味がある。PCRが、マスクが、数字が無意味だとか言うよりも。そのためには、わたしは対抗意識でなく、アンチズムでなく、批判的精神も持たず、批評もせず、ただ体をゆるめて、その場の流れを肯定する。大きい方に合わせて自分を流す、自分の声か、環境の声か。

改めて【Yet To Come】についてのnoteを自分で読み返して、今、また違った感覚を持った。

例えば戦争があって、終わって、戦中あったたくさんの非日常的な不条理が、終わったからといって全てが心地よい状態に戻るにまでには、なかなか時間がかかるだろう。終戦の合図、それは平和の始まるファンファーレで、それを「Yet To Come」、これから来るんだと思うことは必要な希望だけれど、本当に「Yet To Come」が指しているのは、終戦、暗闇が支配する時代が終わることの希望、ではなく、その先、うんざりするような気の遠くなるプロセスをひとつひとつ経て、その先にやっと至れる、全てが健全さを取り戻して、潤滑に機能する、すべての人がハピネスの状態、を指しているのだと思った。

そこまで至ろう。何があっても、良い目をみるまで、そこまで粘ろう。「本当にいい日」はそこから先のことで、だってそれはまだ来ていないんだもの。

その、もどかしい、戦後の苦しい混沌と混乱から、時に自分自身をプロテクトするものとして、輝かしい、美しい、手にいっぱいの思い出、「EMERGENCY EXIT」がいくつも書かれた黄色いバスはそれを象徴しているのかもしれないと思った。過去の良きものは、必ずあなた自身を守る。無くならない。あなたを強める。単なる逃避でなく、休息、癒し、力を溜め、力を得るための。

そして、混沌の渦中で一番重要なのが、「流れに身を任せる」といういアティチュードであるとわたしは思った。自分の主義、主張を声高に表現するのではなく、イデオロギーを、正しさを、弾劾を、間違っている、こうするべきと批評して体を固くするのでなく、「自分の正しいと思うもの、それは、各々みんな持っている」。みんなが違うものを心に持っていることを尊重しながら、真心を表に出して、その場その場に感応しながら、望む仕事をすればいいと思ったのだ。それがわたしの、混沌と混乱を乗り切るためのイメージだ。

ところで、強要されるマスクはいかんともしがたいが(なんせ去年の夏は4回も倒れた)、元音大生、マスクというアイテムについてはそれなりに信頼と愛情がある。声を使う人、歌う人には必須で力強い心の友なのですよ。

わたしがマスクに信頼する力は、何と言っても保湿である。扁桃腺っちゅうのは、体の門番なんだよね。たいていのウイルスは肺に行きます。口内でウイルスは繁殖しますが、それを喉で止めます。どうやってか。ウイルスは平熱で繁殖するが、38度以上では繁殖できない。粘膜がウイルスをキャッチし、炎症を起こして、熱を発して対処しようとする。喉が痛いとはそういうことです。喉の免疫機能をアクティブにするために、「温める」と「乾燥を避ける」が最も有効で、マスクは手っ取り早くその二つが出来る。もっと保護する必要があれば、首にストールを巻いて、のど飴を舐める。これが秋冬の声を使う人のデフォルトです。

舞台の稽古場などでは、夏でも空調が効いていれば、秋冬ならばなおさら乾燥するので、スタッフが時折、空中に霧吹きで水を撒いていました。手動による加湿。ツアーでホテル滞在になると、ちょうど良い環境にするのに大抵は空調を多く使って室内が乾燥します。わたしは先輩のミュージシャンに、夜、風呂場にお湯を溜めて、扉を開けたまま寝る、という方法を教わりました。部屋全体がじっとりするすごい加湿の方法ですが、飛行機で寝る時、ホテルで寝るときはマスク、そうやって保湿によって免疫を高め、喉風邪をひかないようにするのです。ホテルでうっかり何もせずに寝落ちしてしまったりした日には、次の日喉がダメになって後悔の海の底です。

だから「したほうがいいな」というシュチュエーションも、マスクによる効果の体感も自分の場合はある。近くにいる人が扁桃腺が腫れているにおい・・・がすると、わたしはマスクをする。菌をもらわないようにではなく、自己免疫を高めるためにだ。風邪は、体が必要な時に感染る、という野口整体の教えをわたしはその通りだろうと思っているので、感染るときはどうしたって感染る。そしたら大人しく熱を出して、体をリセットする。数年に一度、そうやって高熱を出す方が、大病を避けるにはいいと思っている。

つまり…

なんの話だ…

つまり、わたしは素晴らしいアイテムであるところのマスクと、自分が主体して望むように付き合うことを決めた、ということです。

でした。

それではまたね。




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