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初めてBTSオンラインライブ見たよ\(^▽^)/PTD_ON_STAGE_SEOUL

BTS、2年半ぶりの韓国での有人ライブ。ライブより音源をじっくり聴くスタイルのパクチー 、視聴可能な日曜日は丁度家族と団欒の時間であったし、いつもは悩まないんだけど、今回ばかりは、

「見たいような気がする…」

旦那くん「じゃみんなで見ようよ」
パクチー「え?!」
旦那くん「えっ…?一人で見ないとだめなの?どっか外に見にいくの?それとも子供連れて出て行けってこと?」
パクチー「いや、それはさすがに」
旦那くん「俺も世界のBTSのライブがどんななのか見てみたいなあ。居間のスクリーンに映してみんなで見ようよ。娘ちゃんも喜ぶんじゃない」
パクチー「……」
娘「見たい!見たい!」
パクチー「……………」

するするっと決済はあっという間に終わり、どういう顔して旦那くんの前でBTSを見ればいいのか答えのないまま、それでも初めて見るオンラインライブは楽しみで、そわそわして1週間を過ごす。

13日日曜日、ライブ当日。そわそわ通り越してイライラする。こんなに繊細で、かつてわたしはどうやって舞台の仕事してたんだ?開始1時間前。無事にサインインして、なぜか思い立って突如掃除機をかけ、部屋を清めることで心を清め、プロジェクターの電源を入れ、オーディオを繋ぎ、ランスルーテスト完了。旦那くんと娘ちゃん、外出から帰宅。娘ちゃん(7)は自分で具材を切ってピザを焼き、旦那くんはグラウラーにビールを買ってくれてて、塩味のポップコーンを作ってくれる。10分前にはローテーブルに全てをスタンバイ完了。

なんて準備のいい人たち!!

ママは胸がいっぱいで無理…食べれん…。

とか言いながら、娘ちゃん作のピザも美味しくて、ポップコーンもビールも美味しくて、やや押している開演を待ちながら食べ終えてしまいそう。

そしてライブが始まる。

中盤、自分なりに楽しみ方を見つけたらしい娘ちゃん、画面の真前に出て踊りを模倣し、盛り上がるところでビーズを撒き散らして怒られる。いつの間にか紙吹雪を作って、それを何度も振り撒いていた。紙吹雪はプロジェクターの光に照らされて、ステージの紙吹雪と重なって、すごく、綺麗だった。娘ちゃんの勧めで一緒に撒き散らした。気持ちよかった。

娘ちゃんは最後のカーテンコールで、見えなくなるまで手を振っていた。純粋だから喜びも大きい。これこれ、自分が失ったものはこれだよ。目の当たりにした。

そしてライブが終わった。

オンラインライブの配信に関わるテクニカルチームが背負う壮絶なプレッシャー、蓄積されたノウハウ、技術の安定、ライブの最終日であること、お客さんの送るもの、メンバーの条件に対してやや慣れ。BTSのメンバーの戸惑い、気分、もどかしさ、歯痒さ、心地よさ、幸福、それぞれの顔を見るとその配分が目に見えるような気がした。彼らの懸念、ジミンくんの吐露、「こんなライブは嫌です」。そう語る時の落ち着いた目と声。泣いた。わあ、この方、想像するよりずっと高いところから物事を見渡している人なんだな。

パクチーはお客が着座で喋らない、拍手だけのコンサートの方が、今まで見たライブでは数が多いと思う。音楽家の発してるものが空間を満ち満ちに満たして、そのものと自分自身が直にやりとりをして、打ちのめされることに馴染みがある。そこにはピンと濃い空気と、ひりひりした緊張と、想像を超えるトリップがあることがある、わたしには掛け替えのない時間、掛け替えのない経験だ。

今回のように、望まざると、観客がより「見る」と「聴く」に集中するような環境であるとき、「So What」で、彼らが純粋に音楽そのものになっているように見える時間は、振り付けでなく、立って、言葉に集中して気持ちを声にしている姿は、それぞれがとても美しかったし、「IDOL」で段取りなどのタスクがない、意識に何かしらの際限のない状態のラッパーたちは、実に素晴らしくポテンシャルが高く、どこまでも輝きが弾けていて、痺れた。全然いけるじゃないか、アイドルとしてスタジアムでパフォーマンスする今回のようなケースとは別に、ゆくゆく、もっと演奏家にとって演奏条件の良い環境で、オーディエンスが聴くのに適した環境で、空間を支配する能力だって、彼らには十分あるなあ、と思った。そういう将来の楽しみもあるよなあ。

けれど、そんなこんなに関係なくいくつもの曲で、ジョングクくんが満面の笑みだったのは、本当にステージで生きる人なんだなぁ…と思った。すごいなぁ…。何の迷いも戸惑いも感じなかった。ステージにいることが家にいるより好きな人、ステージの上の方がより自分らしい人っているからなあ…。彼の声はマイクと、ポピュラーミュージックと、本当に相性がいいのね。彼の体力的な余裕は、先天的な肉体の長所でもあるだろう。自分の声が会場全体に響いてる実感、パワーが会場全体に及んでいる実感、そういうものが彼の生活、日常の全ての時間をひっくるめた上で、最も彼が彼らしく、ストレスなく彼自身を発揮している状態なのかもしれない。

終わって翌日。旦那くんとライブの話になり、旦那くんが、

「BTSはよく「愛してる」と言うけれど、前はもっとファンに愛されている実感があって、それに応えるリアクションとして「愛してる」という言葉で感謝を発散しているような、勢いがあった。でも昨日のライブのコメントで言った「愛してる」は、自分のために言っているようだった。それが、20代から30歳の等身大の青年っぽくて良かった」

と言った。

旦那くん…お主ARMYか…?!なんて…鋭い!

パクチーは、正直に言うと、BTSに対する関心の強度が、この1年では下がり気味だったと思う。それがなぜなのか、旦那くんのこの発言で理解したわ。有人ライブができなくなって、出す曲出す曲がビルボードの1位になって、Run!BTS!も休止になって、彼らを見ることができる最新の動画が、きれいで滞りのない、整ったものを中心にマネージメントされてしまった、それは直接知ってもらうことのできない、映像でしか伝えることのできない新規のファンや世間に対して、誤解を生んだり、間違った解釈でとられたりするリスクを、極力避けるためのメディア戦略だったのだろう。

Run!BTS!が終盤、できるだけアーティストに負担をかけないような構成になって、それはもちろんそうであって欲しいのだけど、と同時に、極力負荷がかかった時にしか出ない、その人の地とか、機転とか、見えざる力みたいなものは、脳を打たれたような気付きや刺激があって、それをしばしば与えてくれることがBTSを好きでいることのかなり大きな動機であったと、自分の場合はそうだったのだ、と思った。

きれいすぎることが淋しかったのだ。

そういう風にわたしから距離が空いたのと同じように、彼らもまた、常に一挙手一投足に対して瞬時にARMYたちが反応してくれたかつてと変わって、尋ねなくても愛されているのが音圧で納得させられるかつてと違って、虚空に向かってアクションを取り、無音が応える状況は、何が起きるかといえば、等身大の素の自分と向き合わざるを得ない、ということが起きる。VくんがARMYの愛が本当に存在するのかを不安に思って、コロナ前もコロナ後も関わり方の変わらないわたしにすれば、「そっか〜…。そうなんだ…こんなに世界中にいるのになあ…」と、正直彼の心情を想像しきれなかったのだけど、PTD in ソウルのライブのエンディングメントの「愛しています」に内包されているように聞こえた「愛されているのかどうか分からない、でもあなたを愛する」という自認、「あなたへの愛は、自分を支える、自分の希望だ」という自認、熱狂を身近に感じる環境を失って、等身大の実力だけの自分と再会したことで、ただの「自分」が主体的に手に持てる愛を実感したのだとしたら、その体感は、人として成長していく上で、かなり重要な基盤の中心を支えるものになるのではないだろうか。

実力だけの自分に備わっているもの。

20代で瞬く間に成功のトップオブトップに至り、20代で実力だけの自分を知らされる機会を得るのは、しんどくて辛いことだとも思う。彼らの得ているものが実力に見合っていないという意味ではなく、彼らの実力に関係なく、彼らとのリアルな関係性に関係なく、ポジションにへりくだって担ぎ上げる大人はいくらでも、寄せては返す波のように常に周囲にいると思うからだ。それがじわじわと、時折差し込むようにピリッと気付く、冷やっと落ち込む、それがコロナ下の環境が与えたものだったのかもしれない、等身大の自分が持っているものの実態。高下駄もない、フィルターのない彼ら。それが我が家のスクリーンに映っていたもので、それこそが「今回だけは見たい気がする」と思った、わたしが見たかったものなのかもしれない。

これまで旦那くんと星野源さんのライブ動画を見たりしていた娘ちゃんは、シンプルに楽しんだようで、次を楽しみにしていた。ライブ楽しんかー。いい情操教育なんじゃない?


でも、とりあえず、ディレイはママ1人で見させてね…!




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