BTSに学ぶ、人が育つのに大切なこと
こんにちは!パクチーです。
先日「はちみつと焼酎」というブログで文字起こしされている記事を見まして、
もう大変に感銘を受けて、感動して、一気にほとんど全部の記事を読んでしまったくらいなのですが、
いやーーー。これすごくない?
と思ったいくつかのことを、「なんと、なんと育っているのか、こんなにも」という視点でいくつか書いてまとめることができたら、素晴らしいんじゃないかなあと思って、やってみました。別に彼らの誰かがそう言ったわけではなく、パクチーが書かれていることを独自に読み取って、「こりゃ人が育つのに大切なことであるな!」と感じて勝手に書いているに過ぎません。大切なこと?うん。本当に、まじですごい。むつかしい?うん。むつかしいと思う。以前パクチーが「ライフスキル」というテーマで書いたことがありましたが(これ)、分かりやすさを比べると、かなり分かりにくいような気がします。うん。もはや「スキル」っていう段階じゃない…。
……てことで!
引用元はすべて「はちみつと焼酎」さんからお借りさせていただいています。感謝。ほんとうに素晴らしい文字起こし、翻訳の数々。
それでは!いってみましょー!!
1.「喧嘩」が育てる関係性
「怒れる」って大事なことですね。大抵は、関係性を保つために、「喧嘩しない」「対立しない」方を選ぶのを良しと考えます。それは、喧嘩、対立した結果、関係性が悪くなる、気まずくなる、後味が悪くなることを忌避するからです。
しかし、喧嘩をして、解決して、そのプロセスを客観視する、チームメイトと共有する、自己のあり方を変える、変わる、ということを繰り返していると、そこには「喧嘩」の起こる根本の原因、対立する根本的な理由、それとはつまり「自分はこの先どう生きたいか」ということを明確にしていくプロセスであることがわかります。「なんであなたのあれは、ああなのよ!」と喧嘩を仕掛けられた時、自分の「あれ」は、自分の根幹に関わるのか、枝葉の部分なのか、相手のために変えられるのか、そうじゃないのか、他者にとってどういうものなのか、知っていく。喧嘩することを通して、喧嘩をする相手と、解決に至るまでを通して、自分自身で理解していく。相手の考えや望みについて知っていく。深めていく。
親和性とは、あらゆる関係性の中で、「喧嘩」が起きないように対立を回避することから生まれるのではない。「持ち出していない」対立要素をつまびらかにして、安心して対立できる、度を越したら止める人がいる、言い分を聞いてくれる第三者がいる。他者にぶつけられない「葛藤」とは自己中毒のようなもので、ぐるぐると解決しないまま前進も後退もできずにいる時間は苦しいものです。それを、他者と力を借り合って解決しなさい、と言う。10代20代の若者に、その「喧嘩・解決」のスキルを磨く場を与えたというパンPDは、さすがだなあ…研究生が日常どんだけ対立しようと、さすがに会社を傾ける、家族を崩壊させる、ほどのことはそうそう起きないですから。
大人になると、人を傷つける能力は上がりますね。
年齢と責任と権威が上がるにつれて、「喧嘩・解決」が上手くいかなかったときの影響と代償は大きくなってしまいます。
「喧嘩」を恐れずに、そして「解決すること」を繰り返すことで、やがて「喧嘩」自体に習熟してくる。相手に傷つける要素をぶつけることなく、時短で解決に至れるようになってくる。それは、「自分が一体何に怒っているのか」という自分の不快から、望む状態→それを実現するための協力・理解してもらうためにどうするか→フォロー、までの最適解が、訓練によって、経験によって、より良く素早く見通せるようになるからです。そのスキルは、大人になってからの彼らを、大きな対立や困難に陥るリスクから救うものでもあるわけです。
互いに互いが望むあり方を把握している状態、そんな時、プラスαの効果=シナジー効果が現れる。そこに今立ち現れているパートナーシップの中において、当事者が想定する以上の効果が起こる。場の雰囲気が良くなる。そこにいる他者がリラックスする。勇気がもらえる。人が育つ。別の場所に良い影響が伝播するなど。
安心して「喧嘩することを許されている環境」。そんなものもまた、関係の親和性を高めるためには必要な要素なのかもしれません。
余談ですが、我が家では「怒鳴るとエーテル体が傷つく…」と言って、理由はどうあれ、大きな声を出さないことを意識するようになりました。結婚後10年の間に、喧嘩の方法もさまざま変わりました。島暮らしでは向き合うしかない…!逃げ場がない!喧嘩しても夜7時以降行く場所がコンビニしかないし!向き合い続けた結果至った、まだ過程ですが、ひとつの、2人なりの方法論なのかなと思います。
2.「孤独」が育てる人間性
「彼は自分で自分の面倒をみられる人だ。」「自分の中心がある人特有の無邪気さと楽天性がある。」「苦痛に一人で打ち勝った人だけが、そんな歌を歌うことができる。」
くっ……。このコラムを書いたのはチェ・イサクさんという方だそうですが、この方のジンくん評、胸の深いところにぶっ刺さって不治なり……。
そう!そうなんだよ……!!
Vくんに両極めいた相反する魅力があるように、しかしてそれとは別に、ジンくんにもただ「楽天的」「無邪気」では表現しきれない深い魅力があって、つまりそういうことなのだと思った。
苦悩。個人的な。他者に理解されない、自分だけが知る、誰とも共有できない、誰にも明け渡せない苦悩。それと向き合う時間は、永遠に、限りなく、完璧に、孤独だ。そしてどうしたって、個人的な苦悩に向き合うならば、孤独になる必要がある、孤独にならざるを得ない。
彼は、その孤独の意味と深さを知っている。つまり自立しているのである。
そういう人が務めて楽天的である、軽い和やかなムードであることを優先順位高く置くなら、それはそうであることに本当に意味と有用性があるからだ。(タモリさんの名言「やる気のあるものは去れ」にも、ふと、類似するものがある気がして思い出したんだけど…。あ。れ……ちょっと……似てるとこない………この二人…………?)
真剣な雰囲気にはなくて、軽い雰囲気の時にあるものはなんでしょう。リラックスですね。リラックスしていると人はどうなるでしょう。等身大になります。人は、等身大の人同士が向かい合って初めて対等になる。一般的に、地位や名誉や財を得た人は、その権威を尊重した態度を取ることを他者に求めるもので、そうでなかったときは軽んじられたように、侮辱されたように感じる。特に儒教圏では、権威とそれに見合った礼節の重要度はさぞ高いことでありましょう。
人が、「人の持つ本質的な価値に、地位や名誉や財は関係がない」と気づくためには、一定以上の精神的な成熟が必要だ。
「自分とこの人は対等でない」と考えるとき、それは一見、相手の地位を尊重しているように見える。しかし人は、「この人とは対等でない」と思う限り、相手を傷つけても、傷つけたことを自覚できない。
ジンくんは、自分が接する他者に対して、自分と同じく人として対等に接することを求めているのだ、というような気がする。それが一番簡単に起こりうるのが、彼がユーモアでもって場の緊張感を解くことなのだろう。
孤独も苦悩も十分すぎるほど十分知っているジンくんが、他者といる時には、楽天的で軽いムードであることを大切にしている。最近はJ-HOPEくんと飲む機会を持っているなら、J-HOPEくんこそポジティブで楽天的だが、彼こそ孤独でゆるぎない厳しさを知っている。ジンくんと、かつてはあんまり飲めなかったJ-HOPEくんが飲むなら、きっとすごくいい雰囲気で、楽しく、幸せな飲みなんだろうなあ!
誰にも理解されない孤独があることは、決して悪いものじゃない。相手の心と対等にあって、優しさを持って、楽しい気分を尊重する。大切に保つ。孤独を知る人は、孤独が、それを可能にする人間に育ててくれることをよく知っている。
3.「アート」の余白が育てるもの
言葉を生むことに躊躇のなかったようなRMくんが、時間をかけても書けないと語った時(参照:Weverse Magazine RMのインタビュー)、それは彼の経験して堆積した言葉たちが、すべて作品として出て行ったから。そしてそれ以降に経験した感情が偉大すぎて、言葉にまとめるには既知の概念が足りないから。だったろうか?
強い単語で吐き出して、ストレスは解消された、次の段階、それでも心の中にまだ存在しているものがある。それって何なの?
彼は少しずつ、ひとつひとつ、アートという第三者が作った別の具体的な何か違うビジュアルと対峙することで、自分を相対化、客観視して、知って行ったのだ、己の中の、言語化されない、具体的に把握できない、とりとめのない思い、考えを。リトマス試験紙のように、作品の前に立ち、自分を浸して、「これは心が動く」「これは苦しい」「これはほっとする」「これは楽しい」「これは見ていたくない」「これはもっと見ていたい」。
「削った」。自分が不要な、自分が担いできたものを、捨てる。
ここで、アートが具体的に彼の何を育てたのかを考えてみる。
基本的に近代アートには命題、テーマがあって、それを具体的な形、色、さまざまな別の形に置き換えて作品になる。けれど実際の作品を見た時、見た人が「なんじゃこりゃ」となることは当然ある。タイトルに命題が明記されている場合もあれば、テーマが明かされない場合もある。「なんじゃこりゃ」の部分、作者が込めたかもしれない色々のうち、ビジュアルになって言語にはならないものを、自分の経験と想像でもって補って、脳内で言語化し、あるいは音にして、あるいはイメージにして、あるいは感情として、受け取る。
命題を通して、作者が込めた世界を受け取る。それは、自分の脳内の既知の素材を使って、脳内に新しい世界を構築し直すということにあたる。
彼は、言語化されない作品から受け取る印象を、その時感じている気持ちを、幾度も、別の素材に置き換える。ある程度の強度を持ち、しっくりくるまで繰り返す。毎瞬、自分の心臓に近い部分を様々な方面から構築し直して、具体的な形にして、第三者の目に見える形で取り出すことを、訓練のように、トレーニングのようにして、ずっと努力し続けた。
そしてついに、
彼は、自分の感受性が受け取り、他者に「伝えたい」と心に描く世界の中で、言語化できない、音にならない「質感」を、「抽象」という方法ならば自分は「具現」できる、そしてそのために必要な共感覚的な能力は「できました」、と言う。
できたらしい!!!
彼が「強い単語をよく使って」それで「ストレスは解消され」た、問題は終わった、と感じた、その先に起きた心の中の世界、「だから、それで、どうする?」の世界に踏み入れ、初めて見たその空間の、何が置いてあるか分からない、何一つ整っていないさまに混乱した、のだろう。アートの余白は、その新しく自分の心の中に見出した世界を、一つずつ整理しながら、一つずつ積み上げなから、自分は何者になっていくのかを明らかにするのを、ずっと近くで手伝った。
「だから、それで、どうする?」の言語化されない世界に、言語のサポートは出来ないのだ、そこを整理するハウツー本は存在しないのだ、なんたって言語にならないんだから。本ならば言葉にならない行間を読み取るか、絵や、立体や、映像や、から、自分で、能動的に自己を整理するのに共感するパスを獲得するしかない。だからRMくんは、そうやってきた。そう、世界には、「だから、それで、どうする?」の心の中を素晴らしく構築し整理し続けた人物によって作られた作品が、たくさんある。
だから、つまり、RMくんはそんな芸術の、アートの歴史に続いて行こうとしていることになる。
彼が、余白の余地のある作品を、そんなBTSの作品を作り出せるようになった時、それはまずARMYたちにとって、彼の作る余白が機能することを目指すのだ、と、彼は願っているように思われる。一人一人の「だから、それで、どうする?」の世界に寄り添う存在として、言語化できない内側の世界が構築されていくことに、自分の作品が、手元を照らす灯りとなって、側に寄り添う存在になりうるように。
彼は、自分のアーティストとしての矜恃を今、そこに見出しているのかもしれない。
4.「期待」から自由になる方法
普通に、単純に考えるならば、これだけの規模の「事業」、ものすごいマーケティングと、データ解析がなされているだろうから、BTSに「称賛と肯定的な反応」があるならば、それは「戦略が上手く行っているから」で、「Vはその方針に沿ってよくやれている」ということになる。
しかしVくんは、なぜ自分たちがこんなに喜ばれているのか、「分からない」と言う。
んん?ある程度は予測通り、ある程度は想像以上に上手く行った、ある程度は全く想像できなかった、と言うことでなく??でも言葉通り「本当によく分からない」のであれば、考えられるのは、彼に「愛されることだけを目的にした行動がない」、から、ということになる。
もしもアイドルが「肯定的な評価を得る」ために、求められていることを分析し、実現できているかをモニタリングするなら、そのパフォーマンスやリアクションが結果人々の愛と関心を獲得し得たか、そうでなかったかは、それはいちいち不安で負担に思うことだろう。あるいは、上手くやれているなら、「人心を掌握している」「コントロールできている」という、全能感を得たりもするのかもしれない。
Vくんでなければ、頂点に立つ人がそういう精神状態になるのは、まあ、むしろ普通のことではなかろうか。
「気に入られるために、相手の望みを満たす」。
こんなこと、子供が親に、カップルが交際相手に、新入部員が先輩に、新入社員が職場で、やるやる、やっちゃう、そういう気負いで頑張っちゃうし、そうしなきゃ、と思う。
「どうやったら気に入ってくれるだろう」
「期待に応えなくては」
「がっかりさせたくない」
存在を許してもらうために。価値を感じてもらうために。「この場所に自分はいてもいいんだ」、あるいは、「いてもいい」と思ってもらえるように。居場所があることで、自分の存在価値を確かめているから。
でも彼はその原理で動いていない。
空気を読んだら、飲まれてしまう。
比喩でなく、本当に、それだけ膨大で莫大な果てのない期待。
彼は空気を読まない。
彼はもっと、別の動機から行動をする。
自分が美しいと思って、心が震えたもの見せてあげたいと思う。作品の持つ世界を通して、自分が作り上げた世界を、できるだけ忠実に再現して、ファンに共有することに集中している。目の前にいる人との、ファンたちとの、その交流の中に確実にそこに存在するものに集中している。
多分、そういうことだけが彼の行動の動機で、彼は、自分の心を置き去りにして、「相手に気に入られるために、相手の望みを満たすこと」を、しない。心が動かないことをしない。
だから、「愛と関心」「称賛と肯定的な反応」を得ることを根源的な動機として行動しているわけじゃない。なのに、人々が熱狂してくれる。どうしてだろう、なにがそんなに良かったんだろう、何が彼らの心の中に起きているのだろう、「本当によく分からない」。「些細な行動にも意味を付けられることに負担」があるかどうかについて、「ない」でもなく、「ある」でもなく、そういう負担の存在自体が「分からない」のである。
彼がしていることは、
相手に心を開いて、自発的な心で接すること。
大切にしようと思う目の前の仕事に集中すること。
であるように見える。
それを深い深い集中レベルで行う時、自分にかかるあらゆる期待、注目、あるいは失望、ポジティブな、ネガティブな、自分に向けられたあらゆる関心は、気にならない、関係なく過ごす、「負担を感じない」状態になっている。
他人の関心や評価から、自分を完全に切り離して無関係で存在する、なんてことは、並の精神では非常に難しいことだ。しかし他人の関心が「どうでもいい」のではなく、そのことを自分の行動理由にする以上に、自分にもっと、より本質的な、意味のある行動、行動すべき命題がある時に、それらのことはプライオリティが下がる、あるいはほとんどゼロになる。
つい、「本心」を担保にして、存在理由を他人から買おうとしてしまうね。誰にどう思われても、他人から肯定されなくても、欠けるという性質のないものが、初めから体の中には入っていているのに。初めからずっと、魂は何も欠けていなかったのに。圧倒的にこの地面に、空気に、エネルギーに、見えないものとのつながりの中に、肯定されているのに。
本当は、他人に受け入れられるために、本心では望んでいない行動をしていくと、自分の根本的な安心からは一歩ずつ一歩ずつ離れて行ってしまう。
そして、本心から起こることだけを行動に移すなら、本心がまっすぐでなければ人に好かれない。決して楽なことではない…!
しかし、楽でなくとも、人生においてやる価値の最も大きなものであるのは確かだ。その人の最も豊かな力が発揮されるのは、本心から起きることを行動に移している時なのだから。そして、人はその時にあるエネルギーが見たいのだ、本心から起こす行動を目の当たりにして、力が湧いて、心が震えて、生き方を揺さぶられる、人は、人のそのエネルギーの密度の中にある、その人そのものの輝きに魅かれるのだ。
5.向上心を許す環境
ジョングクくんは、いつでも身の回りに、興味を引く、魅力を発する豊かな世界を内包する「何か」を、途切れず見つけることができる目を持っているのだろうか。とにかくスタミナが、爆発的なスタミナが無尽蔵にあるのだろうか。彼は、「表現者」「アイドル」という「総合芸術」を通して、それに付随するさまざまな職業、要素を通して、いくつでもやってみる、自分に取り込む、そして自分の言語になるところまで理解を深めようとする。
それは彼の言う「完璧」に近づくための作業なのだろうか。
彼は、自分のセルフイメージ聞かれて、最も完璧な形だと聞いた六角形の、ひびが入って「完璧」に至らない状態であると答えた。しかし、彼はその「完璧」を目指しているのに完璧に至らない状態を不安に思っていない。思っていない上に、「必ず自分は完璧な状態に至る」という自信を持っている。
つまり、自分の不安定な現状に対して、安心している。
そんな彼の状態を俯瞰して見ると、その背景には、固く、強く、彼以外の6人のメンバーたちが岩のように彼を包んで立って、彼が完全に守られているような絵が浮かぶ。
もしもジョングクくんが、理不尽で辛い目にあったとしたら、どのメンバーも、すぐに怒り、問題を取り除こうと奮起するだろう。そして、例えば、他のメンバー達の正当な権利や、環境の不都合、質の向上に関して、それを調整する必要があるとして、交渉するために働きかけるのは、おそらく彼の役割ではない。
彼は彼の自主性が守られたまま、安心して自分のことを考え、やがて自分が望む形に手が届くことを「できる」と信じていられる。そして「できる」と圧倒的に直感的に安心していることが、彼のエネルギーを、どんな要素も阻害せず流れるままに勢いを保たせている。だからこそ彼は最短で望みに手をかける。
メンバーたちは、そんな彼に対して、彼の好奇心のままに彼が新しいことに触れていくことに、驚き、心から称賛し、好きなようにさせ、妨げることをしない。
自分が望むことに、望むように、望むところまでチャレンジできること。数々のチャレンジの結果、自分はやがて自分が望むものになれる、と安心して信じていられること。
わたしは、彼がそのようであることを保つ他のメンバーたちの状態こそ、「理想の保護者像」である、と思った。
自分が子供だったときのことを思い出して、今子供を育てて、度々考えることがある。親が、あるいは保護者が、子供、被保護者の選択を、進路を、つまり生き方を誘導しようとする時、それは大抵自分が生きてきた経験から、自分が考える「安心だ」「安全だ」、つまり「幸福に近い」と思われるものを選ばせようとする。それは、予防線を張って、リスクを減らして、なるべく苦労をせずに幸せな生活をして欲しいと願う、「愛」だ、ということになっている。
けれど、育っていく子供を見ながら、こうも思うようになった。全てのリスクを回避して、何の失敗もせずに思惑通り成功したら、もしも人生初の最大の失敗が自分の死後に起きた時、何もしてやれない、天国からは何も手助けができない、一緒に泣くことすらできない。ならばあるいは、子供の望むチャレンジを妨げないことが、保護者の出来ることの最大値なのじゃないか?わたしの想定を超えて大コケして、傷ついて、全てを失って誰もいなくなったとしても、わたしが生きて体が動く間にそれが起こるなら、一緒に悲しんでやれるたった一人になることができる、寝るところと食べるものを用意してやることができる、立ち直るまで離れずにいてやることができる。自分にとって未知の何も手助けしてやれるものがないジャンルに子供がチャレンジするのだとしても、自分の死後、いつか一人で本当に窮地に立たされた場合に、「望むチャレンジをしたことがある」「失敗したことがある」「どん底から立ち上がったことがある」という経験の方が、本当にその子が遭うかもしれない危機から本人を助ける、救うを選択する支えになるものじゃないか。
「〇〇がやりたい」と言う時、それが実利のあることなら後押しする、実利のないものなら、やらせない、水を差す、やる気を試す、熱中しているなら程々にするようにやんわりと誘導する、「そんなに部活頑張ってどうするの?別にプロになりたいわけじゃないんでしょ」、実利に結びつくように提案する、「それだけ上手くなったなら、お金取ったら?」、ということは、人が育つ過程でしょっちゅう起こる。例えば受験生が「化学」に夢中になってそれが受験科目と関係がない場合、「進路」という考えにおいては、実利がない、リスクを増やす、不要な時間の方に仕分けされてしまうのかもしれない。
しかし、好きになってのめり込んで、夢中になったらなったまま、そのまま気が済むところまで追求していると、ある時から、その人の中には、ひとつの世界、自分の中に構築された知覚、体験、時間の、有機的な集合体ができてくる。
その、「好き…!なんだこれ!面白い…!」にまつわってつながり広がった、自分の中の時間のかたまりが、将来プロになりたいわけじゃない学生が、何かにつなげる当てなく部活に打ち込んで、全てを全振りして熱中しているその行動が、その集合体が一体何に相当するのかと問えば、
「人生そのもの」だ。そしてそれが、「永遠」なるものだと言う。
ジョングクくんは、自分の人生が「芸術」という最大の実利を生むことよりも、「僕が生き抜いた時間」の方を重要だと言っている。「芸術」という、人々が「価値がある」と定義するものに自分の人生が使われることよりも、今自分が、自分の意思で、望むことを望むようにやっている時間の蓄積の方が重要だ、と考えている。
それは、彼が、彼の望む「完璧」になるために、その方法が必要だからで、彼はその方法で、自分が「完璧」になると知っているからだ。彼は自分が「完璧」になることの方が、自分の仕事が芸術であることよりも重要であると考えている。彼が言う「永遠」とは、ソース(魂の集合体)にとって、彼が彼であるから残すことができる永遠に価値あるもののひとつは、彼が獲得する完璧への道筋である、と、自分で分かっている、という意味だと考える。
死の間際に人生を振り返った時、「魅かれた何かに夢中にやり尽くした時間」は、明らかに「自分の人生」で彩り豊かな部分として思い返されるのではないだろうか。さらに言えば、そろそろ40になるパクチーの個人的体感で言うと、インプットががんがん入るのは20代半ばまで…それ以降は新しいことが入ったそばから抜けていく。20代のうちにどれだけインプットできたか、30代以降の全ては、既に得たものの集合体と応用で生きていると言っても過言ではない……(人によるかもしれない……)。
だったらどんなジャンルでもいい!「好きで夢中!」という一番効率よく最短で最大値吸収されるものが、いくつもあったら、その莫大な知識と知恵と人のつながりの集合体は、30代以降の人生をいかようにでも豊かに作ることができるだろう。
「向上心」は一般的に良いことだと認識されている。でも実際に歓迎されるのは、「実利」に繋がる分野に関しての向上心に限られることが多い。
けれど保護されている期間にあっては、
「どれだけ、自分の熱中する分野に関して向上心を持ち続けても、妨げられない、阻まれない、安心して夢中になっていられる、守られている」
そう思っていられる環境を用意してやるのが、「保護者」の役割なのかもしれない、と思ったのだった。
その向上心が何になるかと言えば、お金にはならないかもしれない。仕事にはならないかもしれない。でも「もっとやりたい」「もっと上手くなりたい」「もっと分かりたい」「もっと知りたい」、心が求めるままに熱中した時間は、「人生」そのもので、「人生」をつくる時間になるのだ。
と、ジョングクくんの言うことは(二重の意味で)、本当にその通りだという気がした。
終わりに
パクチーのnoteで最大級に長くなってしまった今回のnoteでした。ヘッダーはかっこ良過ぎて、見た瞬間に「ぐえっ…きれい…」と、変な呻き声が出てしまったジンくんにしました。
最近、まあ、こんなところで書くなよって内容なんですけど、ARMY界で見てはいけないと言われるタグ、そう言われると見てしまいたくなるもので、見てみたの。
わたしにとっては、両輪というか、社会に何が起きているかというような、すごくいろいろ意味があって考えることが多くあったので、いつかはそれについて書けるといいとも思っているのですが、そのタグを見る前から書き始めたこのnoteが、関係ないように見えて、遠く遠くから細く糸を放つような感じで、一種のアンサーのようでもあると思えて、長くなってしまったけど、このまま仕上げることにしました、次第です。お疲れ様でした。
先日『Permission to Dance on Stage in Seoul』の3日目のライブのディレイを見て、 本当に、ここに来て、「7人7様だなあ、『自分にとってライブとは何か』ということが」、そして、ジンくんが動画で言ったことがあったように、「本当にひとりひとり違うけど、『ある選択をする』というところで一致している状態なんだ」、と、すっかり理解されたような気がした。
「育つ」と「多様性」がセットなんだな、というのが、一番簡単に彼らを通して学ぶことを説明していると、今回思っています。
それでは、これに懲りずに、どうぞまた!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?