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ARMYというファンダムのほとりに立って、BTSが起こしていることについて考えたことを、少し。

こんにちは。パクチーです。

わたしは、これまでnoteでBTSについて書いてきたことを、これからも続けたくて、そのためにはどうしたら、彼らを愛して応援するARMYの人たちに、自分をどう定義づけたら、説明したら、誠実であれるか?ということを、ここ数日考えていました。

考えている間、改めて彼らの作品を一部、歌詞から一曲ずつ振り返ってみたりしました。ジョギングを始めてもみました(直接の関係はないけども)。いや、ジョギングを始めたかったんだけどあまりの筋力の無さに2分くらいしか走れなくて、40分くらいのウォーキングになってますが、始めて一応4日が経ちました。

結論から言うと、答えは出なかったんです。

「BTSが好きだ」と思う人の中で、どこからどこまでをARMYと呼ぶのか、それを定義することは、もちろんわたしにできません。それぞれがそれぞれの形でBTSを自分の中に存在させていて、そのあり方にどんなラベルを貼ったとしても、受け取っているものだけがその人にとっての真実で、それだけが変わらない価値のあるもので、だからラベルなんて実際はどうであったっていいのですが、ただ一点、わたしは自分が他のARMYたちと異なるスタイルでBTSを好きでいることを自分で肯定しながらも、他のARMYたちを尊重する方法を見つけたいと思っていました。

ファンクラブに入っていない自分を、彼らを応援するあらゆる「推し」的な活動をしない自分を、ARMYと呼んでいいのか、だめなのか。そもそもわたしがARMYをどういう人たちだと思っているのか。そこに自分を当てはめてわたしは自分をARMYだと思うのか。パクチーは統計学的に考える頭がまるでないので、わたしが書くことは全て「わたしが、わたしについて分かった」という、ただそれのみに尽きます。だから全体のことについて、世界のARMYについてを分析するものでは決してなく、ただ、わたしの個人の頭の中で起きていることを書いています。


答えが出ないなりに、でも、少し分かったこともありました。

わたしの悩みはそもそもどこからきたか。


BTSというアイドルがいます。「アイドル」はその性質上彼らを推すファンダムを不可欠とします。わたしには「推す」という方法で誰かをフォーカスする能力がありません。これまで人生に「推し」が現れたことがなく、「好き」が「推す」という表現形にならないパーソナリティのようなのです。

じゃあわたしが好きだと思っている彼らは何者なのか。

わたしはBTSを、「アイドル」という表現形をまとった、今の時代だからこそ成立可能な、新しい「アート」「芸術」だと思っているんじゃないか、と思ったのです。わたしは彼らがアイドルだということを百も承知で、でも自分を見てみると完全に「アイドルとして彼らを推していない」、ただ、アートが自分の人生に影響するように、完全に彼らに自分の人生は影響を受けている、それがわたしに起きていることなのかな、と感じました。

そもそも、防弾少年団の成り立ちの時点から、彼らのアイデンティティは、特にRM、SUGAにおいて「アーティスト」と「アイドル」の間で、葛藤し続けていました。彼ら7人は「アイドル」という完璧な仮面を保持することに合意し、素晴らしい精度で達成しながら、かつ「アーティスト」としてのアイデンティティを失わずにいることを選び続けた。彼らが初期に大きな葛藤を抱えていたのは、彼らが「アイドル」と「アーティスト」を全く相反するものだと設定していたからですが、今、彼らはその境目を、定義を、自分たちを苦しめるもの、不自由にするものだとは設定しなくなっている(Rolling Stone誌 インタビュー「RMが語るK-POPの定義、BTSと自分自身のアイデンティティ」)。

BTS『花様年華』『WINGS』『Love Yourself』シリーズを振り返ってみると、ファンが見ているもの、彼らが見せているもの、つまり自分のポジティビティの集合体であるアイドルとして完璧に作られた仮面、これは一体何者なんだ、ということが幾度となく叫ばれている。

彼らは仮面の下の自分、鏡に写った自分、自分だけが知っている自分、仮面のように完璧ではない自分と向き合おうとし続けます。それを語る素の自分、仮面の重さ、持ち続けることの苦しさ、素の自分の至らなさ、それらを作品の中で語らずにおれなかったのは、影を見て見ぬ振りさせなかったものは、彼らの「アイドル」じゃなくて「アーティスト」の部分だったのではないだろうか。

アイドルとして、誰かの人生をかけて推されるに値する仮面を保ち続けるとこと、それは世にも難易度の高い仕事であると思う。彼らがアイドルとしてその仕事に価値を見出し続けてこれたのは、きっとそのままイコールARMYの素晴らしさだ。彼らがアイドルとして持つことができた地盤、強度は、ARMY一人一人が育てたものだろう。やがて彼らは、世界中から膨大な愛を向けられる磨き上げられた仮面に、その強大さに、ある時期から「ARMYが求めARMYのために見せるもの」から、「素の自分自身を成長させ得るもの」という価値を付加させた。

これはとてもキーになる転換だと思う。

彼らに向けられるあらゆる種類の愛から、彼らは、すっかり学んだように見える。荘子が「虫けらの中にも道(タオ)がある」と言ったように、虫一匹から宇宙を感じ取ることのできる人がいるように、一般人であるわたしたちが、パートナーを見つけ、愛し合い、エゴをぶつけ合い、傷つけ合い、思いやりながら、人生の長い時間をかけて、あるいはパートナーを変えながら、学んでいくようなことを、彼らはこれまでのARMYとのやり取りを通して、もうすっかり体得しているように見える。愛の、無償の、一番純度の高いところを。その愛が、自分たちが自分たちの力で影響できる範囲を超えて、彼らの環境を動かしてくれるポジティビティと無償のサポートとして現れていることを。それはARMYが与え、ARMYが純度の高い愛を与える人たちだということを。どのARMYとのどんなやりとりの中にも、そのエッセンスが存在していることが、多分彼らにはもう見えているんじゃないだろうか。ARMYをマスとして認識するのでなく、一人一人別の人間としてそれぞれを認識したいと彼らが望むのは、彼らに無償の愛を見出す能力が備わっていることの現れなのじゃないか。

考えれば考えるほど思うのは、「アイドル」というファクターがノーマルに人を成長させるのには、ものすごーーーーーーーーーーく難易度が高いんじゃないかということだ。どこの段階でいつ転落してもおかしくはない、いつ続けられなくなっても不思議じゃない。自分の足で立って、健康体で、前向きに取り組み続けることは、本当に難易度が高いと思う。逆に言えばどの側面をとっても、非常に高度なことを求められ続ける、それが「アイドル」であると思う。

彼らは自分を成長させるのに、「アイドル」という最高に難易度の高いフォーマットを選択しながら、その過程で起こる清濁を開示した。どうしてこんなに難しいことを…。けれどあらゆる条件を彼らはポジティブに転換した。綱渡りのようだったかもしれない。奇跡なのかもしれない。いつでも落とし穴は脇にあって、いつでも力を合わせて世界線を踏み換えてきたのかもしれない。彼らが見た清濁が他人に伝わる形でアウトプットされているのは、それをgoさせたのは、そこにあるものを見つめる視点は、完全にアーティストの視点だろう。このことは言葉にするとシンプルだが、実際には、本当に、このことだって最高に難易度が高い。

わたしはこの、「アイドル」がファンダムを抱えながら、自己開示の過程を作品にするということが現実に起きていることに、とても驚愕している。そのことが未来に与えるポジティブな影響について、その可能性を想像して驚愕している。わたしはこれらのこと全体から、自分の生き方、考え方についてとても影響を受けている。わたしのボキャブラリーではこの現象について呼びようがない、だからこのこと全体を、今、「新しいアート」と呼んでいる。

BTSは「アイドル」なのか、「アーティスト」なのか。

積極的なエネルギーで彼らを推すファンダムが世界中に存在することは、彼らが稀有で素晴らしいアイドルであることの証だ。疑う余地なく。

そしてBTSに、パクチーのような「推さないファン」が存在していることは、彼らにアート性があることの証明になるのじゃないか。

と、

そんなことを、ちょっと思いました。

BTSを推すARMYの力は、アイドルBTSを支える直接的なエネルギーで、彼らに最も影響を与えていると思います。BTSは、彼ら自身の闇、影と向き合うことに取り組み続ける人たちで、それは「個」の中の個人的な出来事です。でもBTSの変化はARMYの一人一人に直接影響する。この点が「アイドル」の最も特異な要素ではないだろうか。このダイレクトな影響を彼らはかなり深く理解していると思し、それが完全に理解された時、「アイドル」は(例えば「インフルエンサー」などの単語がおもちゃに感じられるくらい)、この世で持ちうる最強のファクターになるだろう。BTSが彼ら自身と向き合って成長するのに伴って、ファンダムは少しずつ変化する。ミクロはマクロとリンクしている。わたしのような、BTSのアーティスト的な要素に影響されているファンも、この段階から、大きな集いの中で、よりよく影響し合うことは出来るんじゃないか、という気もしています。


と、そんな気持ちです。


前回のnoteより、あたたかいメッセージを下さった方々、本当にありがとうございます。思ってたようにはすっきりとした明確な境地には至らなかったけれど、一度ちゃんと立ち止まれたことはとても良かったでした。これまでのアウトプットに対して、他の方の目線から肯定し直せたことも、わたしにとって本当にありがたく、このnoteや、これまでのnoteと関係なく、わたしのコアの部分に対して、大切なものをたくさん与えられた気持ちでいます。ありがとうございます。

わたしが彼らの「アート性」と呼ぶものについて、それが具体的に何を指しているのか、もう少し時間をかけてはっきり明示できたら良かったのかもしれないけれど、しかし「だから彼らはアイドルという要素を持つアーティストなんじゃ!」と言いたいとも全く思っていないし、わたしが彼らから受け取っているものの総体に、名前を付けたくないなあと思っているみたいです。わたしがどんな名前をつけようとつけまいと、それぞれの方が受け取っているもの、彼らに送っている感情の、それ以上に確実なものはないですし。考えがすっきりしなかった主な理由はそれです。

でも、そのもやもやしたものの総体をまるごと、定義づけることなく、今は受け取っていたい。BTSの未来を考えるとどきどきもするし、はらはらもします。これまでがきっと、そうと見せないながらも綱渡りのようなものだったのだろうし、この先もそうであるのだと思う。今回歌詞を改めて見て、以前のシリーズのあまりの暗さにおののきました。普段動画で見せる彼らとのギャップがあまりに激しくて、「こ、ここまでだったっけ…」、忘れていることもあったし、今になって新しく持った自分なりの理解もありました。直近のVLIVEで彼らを見ながら、彼らが随分自分より年下だということをすっかり忘れている自分がいました。何かが完成されているわけではなく、彼らはこれからも変容し続けるでしょう。彼らには、わたしたちには、まだ超えなければならない世界線がいくつもあるのだと思う。わたしはその時に、ファンダムにとってポジティブに関われるようにありたい、と、今回のことはそういう準備の気持ちが起きるきっかけになりました。


関わりを持って下さる方々、みなさんに感謝しています。


それではまた、別のnoteでお目にかかれましたら。


追記
一時目の前が暗くなる感じでわたしを悩ませたこの件は、約1年半たってすっかり解決されました。

うむ。わたくしはARMYでない。
ARMYでなくファンだ!


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