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Vくんの男っぷりが上がるにつれ、世界が受ける恩恵について

Vくん、近頃男っぽい。彼の中で何か心境の変化があったのか、期が熟したのか、おひげといい、筋肉といい、男性ホルモン優位であるシーンをこのところちょいちょいとお見せ下さる。

「お?この方、随分男っぽいな」と、最初にしっかり感じたのは、2021.12.02のJ-HOPEのVLIVE(「hope u enjoy😝)」に、Vくんが登場した時だった。

うーん、このシルエットに既視感…。

と思ったら、わたしの、10歳以上年上の、東北に住む従兄だった。従兄はガタイが良く、背はそれほど高くないが筋肉量が多く、脂肪もみちっと付いているが、固太りなタイプ…、あ…、ごめんなさい…ファンのみなさんにごめんなさい…(そしてごめんって言ってごめん…従兄の兄ちゃん…)。

何が言いたかったかというと、この時のVくんを見て、あることを想起した。非常にマニアックな話だけど、Vくんの筋肉がついた時の体のシルエットやひげの生え方は、遺伝子のハプロタイプが韓国人の70%を占めるOよりも、Cに近いように、遺伝子学100%素人のパクチーには見えた。Cの壮年男性が体を使いながら筋肉を作って生きていると、全身が柔らかいフォルムを保ちながら、全身にみちっとした筋肉が付く、どうもそういう、Cっぽい雰囲気を今の彼から感じたのだ。

ところで。男性アイドルという業種における「男性性」の扱いは、基本的にひげがNGであるとか、体毛がNGであるとか、日焼けのし過ぎ、筋肉のつけ過ぎがNGであるとか、おそらく明文化されないルールがいくつもあるに違いない。

パクチーは性別が女だ。女性であるパクチーが、それらが忌避される理由を考えてみると、ひとつに、女性が「自分とおんなじだ」と思える共感が、できる範囲に収まっているか、否か、というところにあるのじゃないか、と、考えた。

ファンである若い子女が、その日常の中で味わう感情。アイドルである男性の彼らも、同じような内容に心を痛め、同じように悲しみ、同じように唇を噛み締め、同じような柔肌を持ち、いわば女性的な感受性、ウェットさを、持っているに違いないと疑いなく信じることができる。

そこに、強い相互の共感関係がある。

「この男性はわたしの痛みが分かる」。「だからわたしを傷付けない」、という安心や、信頼。

その時、適量以上の「オス感」は若い子女にとっては恐怖になり得るし、「既に十分成熟した大人」には、自分の共感者たり得ないと思わせてしまう。

一生懸命努力し、頑張っている、自分と同じかその延長線上の、完全に二次性徴が分化する前の「ティーン」の範囲。そこを超えてしまうと、自分から遠い、「別のもの」として扱う感覚にになってしまうのではないか。

「男性」に、「女性」が持たない性質を明らかにされて目の前に立たれると、圧倒的に「目の前の人と自分は違う」。はっきりとした線引きの前に、「自分は女性だ」という自覚をさせられる。「男性と女性に違いはない、精神的な豊かさは平等だ」と思いたい気持ちの横で、「自分は女性だ」と思わされる感じは、わたしはあまり心地の良いものじゃなかった。

かつては。

…ところで、最近までVくんのことをここまで男っぽいと感じてこなかったのだが、それが何故だったのだろうと考えて、ここで「Butter」のプラクティス動画を紹介する。

[CHOREOGRAPHY] BTS (방탄소년단) 'Butter' Dance Practice

この、左から2番目のVくん、黄色い帽子のVくん、の「手」。この、くっと下がった角度、よく見慣れたVくんの動作ではないかと思う。

Vくんの、この手首の「折れ」、あるいは手を開いたときの指の「反り」。彼の手のニュアンスが、彼のダンスから男性らしさを感じさせない要因としてあるのではないか。

歌舞伎の女形には、科(しな)というのがある。「いい女」の役所を表現するのに「科(しな)を作る」のだが、この時、手首はVくんのように折れ、肩が内側に入り、肩のラインを傾け、小首をかしげる。

そして一番の特徴は、「脇を開かない」。

Vくん、よくよくダンスを見ると、そこはかとなく共通点があるのが見て取れる。彼の動きは、女性の、もっとも女性らしさを引き立てる美しい所作のニュアンスが、所々に、やや含まれているのだ。

…などと言い切ったら歌舞伎女形の研究者に怒られてしまいそうだが、Vくんを見て、そういえばTVで昔、歌舞伎俳優の人が言っていた遠い記憶が、呼び覚まされて書いてみた。番組ではその女形の所作の要素を部分取り込んで、男性を落とすのに活用してね…みたいなジョークにしてたけど、多分、本当の歌舞伎、あるいは日舞の動きを模倣しようとすると、全身の筋肉を伸ばしながら使うので相当にきつい。Vくんはすごく手首が柔らかいんだと思う。わたしがやってみたら、鏡の中に崩れた猫みたいのがいた。これが人間の、ましてや美女になるには相当に美意識とセンスがいりそうだ。

話を本題に戻すわね。

Vくんが、多少の事務所からのストップがあったとして(ひげ、半裸の動画は削除されてしまいましたね…)、彼が自分の「男性性」をより肯定しようとしたらどうなるだろう。

Vくん、その美しさは、言葉を、性別を、超えるようなものであるのはみなさんご周知のところだと思いますが…。

彼の造形にはもともと、男性的な美しさと、女性的な美しさが交差する部分があると思う。そして、東洋的な美しさに、西洋的な美しさも感じさせる、東洋と西洋の交差地点も含まれている。そして、ここにきてゼロからトランペットを始める純粋さに代表される無垢さ、成熟した感受性を持つことを伺わせる思いやり、大人と子供の交差地点、まぶたの一重と二重の印象の違う要素が、二つとも持っているのになお美しいことの交差、

そこに「アイドル」という職業上蓋をされていた「男性性」を彼が自分の中に認め始めた今、こ・ん・な・に・も!相反するいくつものいくつもの要素が、彼ひとりの人間の体の中で、完全に統合したらどうなる!!!!!!

き、きえーーーーーっっっ!!!

こんな、ホモ・サピエンスの最終到達地点みたいな人、他にいますかね。

この世の女性性が生かされるには、男性性が、男性性が生かされるには女性性が生かされなければならない、らしい。しかしその本質的な意味を理解するには、個人の中の「男性性」と「女性性」がタブー視されずに統合されている必要がある。

だが、自分の中の、どこからどこまでが女性特有のもので、どこからどこまでがそうじゃないかなんて、厳密にするのは可能だろうか?

そもそも、「男性性」「女性性」を普遍化することは可能のなのだろうか。

わたしは、自分が東京に住んでいた頃は分からなかったけれど、島に住むようになったら、島のじいちゃん達のガタイがめっちゃいいんだわ。近頃の若者が発育が良くて、背も高くて、スポーツやって筋力もあるとして、しかし毎日肉体労働で何十年と培われた無駄のない持久力のある筋力とバネと、もう体の質が全然違くて、70、80代でも「あ、つよそう…」って感じだ。

東京にいて「出来上がらない」身体のまま大人になった男性に囲まれていても、「やり方次第で自分もそう変わらない」と、「対等だ」と、わたしはどこか思っていた。しかし日々身体を使って生きていた「出来上がった」身体の男性を目の当たりにした時、「この先、どうやっても自分はそうならん」ということが実感としてはっきりと分かった。自分が思春期も超えて、青年の段階も超えて、「成長」がピークを過ぎると、そこから先の性差は「どうやってもこうならん」、「自分は女だから」。

それを、Vくんの今の体の感じからも、感じた。ある時期までは中性さ、それ以降に肉体の構造に性差が生まれるハプロタイプのCの体質と、「対等」「共感」「目の前の人はわたしを傷付けない」、からの線引き、「目の前の人と自分とは違う」。

しかし、自分が思春期も超えて、青年の段階も超えて、「成長」がピークを過ぎてみると、これまでなかった、別の感じ方も持つようになった。「どうやってもこうならん」という性差こそ、その圧倒的な違いこそ、「セクシー」さなのじゃないか、と思われるようになってきたのだ。

どうやったってそれは身につかない。自分の延長線上には、それが手に入らないのだということが分かり、それが相手にはあることが分かり、きっと逆のパターンの、相手に無くて自分が持っているものもある。自分にないものが相手にあるのを認め、自分の持っているものを認め、相手が持つ差異が「セクシー」さとして魅力を感じた時、互いの凸凹を補完し合うことができる。精神的にも、肉体の機能でも、そのように出来ることが、人が性別の別れていることで至るゴールなのじゃないか。

Vくんがある時より、やんちゃものの悪戯っ子から一転、激せず囁くように、落ち着いたトーンでしゃべるようになった。単にアンニュイな出来事が多く彼を落ち込ませた可能性もあるけれど、彼の中に育ったそれぞれの相反する要素、つまり成長する「男性性」に振り回されず、コントロールする精神力を身につけるまで、一定のトーンに感情を抑えていたのかもしれないな、とも思った。「期が熟した」とも思えたのは、そんなイメージが湧いたことにもよる。

自分にないものが相手にあるように、相手にないものが自分にはある。自分の中の「男性性」、「女性性」を、余すところなく直視し、認識して認めるのは難しい。BTSのような男性アイドルが、女性たちに、男性であろうと、女性であろうと、どこまでも感性と情緒が、共感して広がっているエリアがあるのを実感させてくれる。その「同じだ」と感じられる先に、自分特有の「女性性」や相手の「男性性」があるわけだ。

逆に言えば、性差が魅力として機能するには、共感や安心のフィールドが、十分な広さで共有できている必要がある。

そのフィールドを大切に広げ続けるのが、思春期の、青年期の、大切な仕事なんじゃないかな。そしてその範囲は、BTSや、彼らを好きでいる人たちをを見ていると、頭で考えるよりもずっと、どこまでも、広げていけるものらしい。

Vくんを見ていると、彼1人の人間の中に、人々の補完された状態が、見事に調和して存在しつつあるように見えるのだ。ああ、こうあれたらいいじゃないか、男性性も、女性性も、融和しているところにあれば何も欠けていないし何も偏っていない。それはそれぞれその形だから美しい、その性質だから稀有である、そのものだから価値がある、何も間違っていない、そういう風に見える。それは東洋的でもあり西洋的であるところもそうだし、子供っぽくもあり大人っぽくもあるところでもそうだし、それはそうとして、そこにあって、どれも等しく、どれが未熟であるということもない。

調和しているから。

相反するものが融和しているから。

バランスを補完しあっているから。

という、わたくしの言葉の全てを完全に語る写真が、以下でございます。

っすっげーーーー。。。。

世の中、社会の中では、男女「どちらか」で語られることが多いじゃないですか。「女性をもっとどうこう」とか、「男性をもっとどうこう」とかさ。それをさ、男女どこまで「共有できるか」の可能性を広く持つ方にベクトルを傾けて、それでもはみ出してしまう凹凸を、「セクシーさ」として、個々の魅力として、めくるめく補完の対象として、どこかの誰かが補完するのにちょうど良い凹凸を持っているのだと考えて、融和を待つ機能だとすればいいんじゃないですかね。この写真を心の神棚に置いて。彼が今あるように。

というわけで、どこまでも穏やかで繊細で、とにかくやわらかくやわらかく保たれている彼の心の部分が、その繊細さをそのままに、明らかに男性と分かるフィジカルな要素をを持って、ビジュアルで「女じゃないよ〜〜」と言ってくる。生物的にこんなに、確実に、はっきりと女性とは違う。だけど彼がどれだけのものを世界中の女性たちと共有してきただろうか。その多くの人々と共有してきた世界を、彼の中にもそのままにやわらかく保ちながら、はっきり、「男だよ〜〜〜」と言われることに、すごく、これからの「男性性」「女性性」について、考えることの、「考える」という次元を超えた、次の次元、次のあり方を、自分はここから見ているような気がした。

それとは、「男性性」「女性性」にとどまらず、「東洋」「西洋」、「大人」「子供」、「一重」「二重」、でもそうだったりする。二元論の先の、全てがどっしりとカオスに混ざった状態。すごく豊かで、複雑で、

でもそれが、こんなにすっきりと美しい。

なんだか、とある若者たちが「すごいなあ」と思って見続けているだけなのに、こんなものまで見ることができるなんて、すごいラッキーなタイミングで自分は生きているなあと思う。やっほーー!



それではまた!!



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