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BTS Vくんの世界

彼がステージ上でコメントする時、
彼の思いの純度の高さに
彼の言葉が追いついていなくても、
彼が持っている気持ちが
あまりにピュアで、
優しくて、
シンプルな言葉が時に
全部の答えを含んでいる時があって、
彼が理解していることの広さにはっとする。

「目の前で痛そうな人を見るたびに
手を差し伸べてたら、
仕事に遅れるわ」

「目の前の辛そうな人を見るたびに
心を痛めてたら、
精神がいくつあっても足りないわ」

という処理の仕方が、
効率を求めた都会の暮らし方だと思う。

だから彼が、

目の前で痛そうにしている人がいたら、
痛そうな顔をする。
辛そうだと分かれば、
辛そうな顔をする。
大丈夫そうだと分かれば、
安心する。

その時、はっと、
「他人の痛みや辛さを見て、
本当は自分も胸が痛んだ」
ことを、
それを瞬時に自分でくしゃっと丸めて捨て、
扉の閉まりかける電車に飛び乗ったことを
思い出す。


Vくんという、
ピュアな優しい心の持ち主が、
世界を駆け回るアイドルとして、
肉体をフルに使って頑張っている。
今、同じ時代に、
感受性を総動員して、表現している。

そんな彼のパフォーマンスを、
パクチー独自の視点から
少し紐解いてみたいと思います。


Vくんとダンス

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photo by Vante(=V)

BTSメンバー、V。本名、キム・テヒョンくん。
メンバーからはテヒョンア(名前の後に「ア」の音をつけるのは親しみを込めている証拠)と呼ばれたり、韓国や日本のファンからはテテと呼ばれたりしています(英語圏の人は「テテ」という音が発音しにくいらしいのね)。



Vくん(以下テテちゃんと…してもいいですか…)のダンスを解説している動画がこの世にはいくつかありますが、パクチーが彼のダンスを見て常に感じるのは、

音に対する感度が非常に高い

ということです。
テテちゃんのダンスを細かく見ると、もはや「楽曲に対する理解」を超えて、「フレーズ」「音」「ドラム一音」が持つエネルギーにインスパイアされている、その音の理解が動きに表れている、それが結果振付に見える、というような時があります。作曲家がその音に込めているフィーリングが、彼を通して視覚化されている、という言い方も出来るかもしれない。

アレンジが変わればそのアレンジが録音された時の演奏家の、ライブ演奏ならバックミュージシャンの演奏する音と音の間すら聞き取って、瞬時に振りとして反応している。

BTSの音楽の多様な表現 = 彼のダンスの多様な表現

になっている。
彼の音への感度が高いゆえに、見ている側は、テテちゃんと音楽が一体になっているように感じられるし、パフォーマンスが表現豊かなのにやりすぎてない、自然に感じられるのは、彼の動きが音楽が動機になっているからで、音源がやっている表現と彼の表現が相互に効果し合って、より豊かに感じられるからだと思います。

クスリと笑っちゃうところ、ガツガツ決まっているところ、すましたところ、ふにゃっとしたところ…見ればみるほど細かいエッセンスがたくさん詰まっている、その全てが成立していて音楽と調和している…そんなところが彼のダンスの特異なところだと思います。


テテちゃんと音楽

ここで、大変人気のブログを書かれるテテペン(「ペン」は韓国語でファンのこと)さんが、「これを見てファンになった」と書かれていた9分弱の動画があるので、そちらを一緒に見てみたいと思います。

(今、そのブログの記事を探してみたんですけど見つけられなくて…もしかしたらパクチーの記憶違いかもしれない、そうだったらごめんなさい!)

パクチーはこの動画の彼の音楽の聴き方を見て、

ひっじょーうに!

感動しました。

パクチーは音楽大学に行ってたのですが、そこで「音楽の構造やエネルギーを体を使って理解する」というちょっと変わった学問を専攻していました。音楽という目に見えない、形のないものが聞こえてくる時、その音楽の中で起きていることを、体で表現して自分が体感したり、体の動きで視覚化したりするわけです。

もしそのクラスの授業ににテテちゃんがいたら、彼は100点満点だす!!

基本的に音楽とは、
「メロディー」
「リズム」
「ハーモニー」
で出来ています。中にはこれらの要素を外したものもありますが、一般的に人が聞いて「音楽に聞こえる」時、この3つの要素が組み合わさっています(例えば街の雑音は、音ですが音楽に聞こえません、3つの要素のどれも満たしていないからです)。

そしてメロディーを小さい単位に分けたものを「フレーズ」と言いますが(文章で言うところの一文でしょうか)、
フレーズは
「緊張」と「弛緩」
で出来ています。

童謡の「ぞうさん」で例えてみましょう。

例:♪ ぞうさん
ーう さん | ぞーう さん | おーはなが ながいのね |
緊張  弛緩 | 緊張  弛緩 | 緊張    弛緩    |

なんとなく伝わるでしょうか。「緊張」と「弛緩」を意識して「ぞうさん」を歌ってみて下さい、きっとワンランク上の「ぞうさん」になるはずです。

そして、実は「緊張」と「弛緩」の前にもう1つ要素がありまして、それをパクチーが専攻していた学問の専門用語では
「アナクルーシス」
と言います。
「緊張」と「弛緩」にもう1つ「準備」という要素を足して、

「アナクルーシス」(準備)
「クルーシス」(緊張)
「メタクルーシス」(弛緩)

と説明するのです。
ラケットでテニスボールを打つことを例にして説明してみます。

手を後ろに引く = アナクルーシス(準備)
球を打つ = クルーシス(緊張)
ラケットを振り切って腕が降りる = メタクルーシス(弛緩)

テニスでは、アナクルーシスに相当する部分で、例えば、
飛んでくる球種を見極め、
コースを分析し、
回転を殺す為にラケットの角度を調整しよう、とか、
相手のコートのこの位置に、このコースで打とう、
などという情報を、「手を後ろに引く」動作をしながら瞬時に処理しています(パクチーにテニスの経験はありません!sorry!)。

音楽では、この「緊張」に向かう前(テニスでポコン!と球が打たれる直前)、つまりアナクルーシスの時に、

直前に鳴っている音のエネルギーや感情を把握し、
自分が次に出す音をイメージし、
それをイメージ通り表現できる感情と体の姿勢を用意する。

ということが行われます。
テテちゃんはこの
「アナクルーシス」に対する感受性がとても優れています。
つまり、
音と音が鳴っている間の情報を聞く力が、ものすごく高いのです。

彼が音楽に合わせて体や、手や、表情を動かしている時、

演奏者が発しているテンションをほぼ同調するようなレベルで感じ取っていること

演奏者が音に込めている緊張の度合い、高まり、弛緩、を非常に敏感に感じ取っていること

が見て取れます。
そしてそれらは、「音が聞こえてから反応する」のでは遅くて、音が鳴ってない間のエネルギーの流れを感じられているからこそ、音が鳴った瞬間に、まるで音と一体になったような表現が出来るのです。

テテちゃんはこの動画でジャズ(ブルース)を聴いていますが、ジャズやクラシックは繊細な情報が非常に多いジャンルです。ジャズが「好き」で「やりたい」と思っているテテちゃんは、ジャズの演奏家が演奏に込めている豊かな情報量の、例えば切なさ、温かさ、ノリ、全体的な意図、いたずら心など、たくさんのものを感じ取って、それが音楽を聴く楽しさや、喜びに繋がっているのでしょう。彼の聞く力は、ジャズやブルース(時にクラシック)を好んで聞くことからも、磨かれたのかもしれませんね。

ちなみにBTSの『Dynamite』について、他の人がTwitterで言っていましたが、この曲は

♪  Shining through the city with a little funk and soul

の部分がややfank & soulで、音の取り方が難しいのですが、ライブでの精度はテテちゃんがダントツで素晴らしいです。


ついでにもう1つ、パクチーがテテちゃんの音楽の聴き方に感動する動画があります。2016年のテテちゃん、今やこの感じ、懐かしいですね…。


「二極化」で表現されるテテちゃんの魅力

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photo by Vante(=V)

さて。世界のテテペンさんの数だけテテちゃん像があって、そのどれも「正しいテテちゃん像」ですし、また愛ゆえに「言語化して欲しくない」「自分の考えと違う」と思われたら申し訳ないのですが…。
あえて、勇気を出して、ただ単純に、パクチーの視点という一点で、パクチーが感じたテテちゃんの魅力を言語化してみたいと思います。

パクチーが思うに、彼が世界中のファンを深く惹きつける理由に、
テテちゃんの持ついくつかの要素が「二極で表現出来る」

ということが一つあるんじゃなかろうか?と思うのです。

例えば、

美人的美しさ ↔︎ 男性的な骨格
妖精的な雰囲気 ↔︎ ノーマルな声の低い響き
クールで妖艶 ↔︎ 子供舌
シックでフォトジェニックな写真写り ↔︎ 天然

などなど(書いててホントすごいなと思った)。
このどれかの要素に「キャ〜!」となると、その対極の要素でまた「ギャ〜〜!!」となる。その両極でグワングワンしてしまう。

永遠にグワングワンしているのが幸せ…。

わたし、一生ここにいる…。

という気持ちになるのがテテちゃんの魅力に出会ってしまった時の心境ではないだろうか。
そしてその両極の魅力に両手両足を引っ張られている時、ふと

「あれ?いつも中心にあるものがある」
と気付いて、それは、

無垢、イノセント

だ…と思ったのです。


「四次元」とか「五歳児」とか

テテちゃんを表現する時にしばしば使われる「四次元」「五歳児」とは、日本語で言うところの「天然」に相当するのだと思いますが、で、またその天然要素が彼の愛おしさをより際立たせるパワフルなギャップになっているのですが、パクチーはそれらの単語を聞いて思い出すエピソードがあります。

32分11秒あたりからの、バンタン(「防弾」の韓国語読み)いちの正直男、ジンくんのテテちゃん評。例えば『野蛮TV』という番組に出演した時、さらっとゲームのルールを無視するということをやってのけるテテちゃんを思い出します。「あ、これ楽しそう」という思いつきが共有ルールを踏み越える時、一般的な大人は躊躇しますが、躊躇より「楽しそう」の方が勝っちゃう。あるいはケータリングに置かれた差し入れの苺、メロンを、全部食べちゃう。「これ美味しくていっぱい食べちゃうな」という気持ちが「他の人の分も残しておかなきゃ」という気持ちを上回っちゃう。箱ごと持って行っちゃう。『Bon voyage season 1』で自ら迷子になって行く。「これやっちゃお!」というドライブが入ると、ルールをパーンとすっとばしてアクセルをぐーんと踏んじゃう。

「テレビ的にはいいんだけど、周りの人間はしんどい」(パクチー意訳)

という発言が、パクチーものすごく、ものすごーく胸に刺さる。
いるいる。業界、そういう人、ホントに。いる…!(涙)
でもテレビ的にはいいんだよ…。
キャッチーなんだよ…。

そしてもう1つ。『Star Show 360』というトーク番組です。
テテくんはここで特技としてサックスを吹き散らかした後、番組始まって初、収録の最中にお手洗いに行くという、しかもカメラの前を突っ切って行く、ということをやってのけます(動画は自分で探してみよう!)。

「五歳児」とは言い得て妙だな…と。
小さな子供は、「やりたいこと」を我慢しなきゃいけない理由が理解できません(パクチーが娘ちゃんを育てている感覚からすると、「やりたくないことをやる」「やりたいことを我慢する」のは2歳児では無理なんですよね。例えば歯医者さんで、痛みと恐怖に打ち勝ってまで仰向けで口を開けるというのは、それをしなきゃいけない道理が理解できないんですよ。だいたい3歳〜4歳くらいから、道理を理解して我慢できるようになってきます。)。
そして「四次元」についても。
「今これがしたい」という本能的要求に、「スタジオの構造」なんて三次元な制約には囚われねーぜ!そんなものに思考を妨げられたりしねーぜ!みたいな発想。彼の発言も、彼は時々ユニークな言葉の選び方をする時がありますが、「単なる言い間違い」というよりも、「彼の感じ方が物質世界に囚われていない」という、そもそもの感じ方に由来しているような印象を、パクチーは受けます。

彼の周囲の大人たちが、ひとつずつ青年の彼に「いけないことの、なぜそれがいけないか」というのを道理から教えて行ったのかな…などと想像してしまいます。しかし教えすぎても彼の持ち味が損なわれてしまうし、その加減はスタッフたちが話し合ったのだろうか…なんていらん想像もしてしまいます。

しかし重要なのは、
彼が「これをしたい」と思うことに、どこにも嘘がないことです。誰かのことを陥れようとか、打算だとか、そういうものではなくて、純粋に彼の純度の高い好奇心が彼をドライブしている。

本当はね、誰しもが持っていたはずのものだと思うのですよ。

「美味しいものを好きなだけ食べたい」とか、
「ずるして勝っちゃおう」とか、
「いますぐトイレに行きたい」とか…。

だけどそれに蓋をして、社会に適応していく訓練の過程で、「思いの生まれるところ」「生まれる瞬間」を、自分で麻痺させてしまいます。

また、制限のない純粋な要求を実現しようとするとき、人は「自由に考えていいよ」と言われても、なかなか人間の物理法則に囚われて、所属する社会のルールに囚われて、そこをぶち破る発想は持てないものです。でも彼はそれを飛び越える魂の自由さと、妨げられないパワーがある。
それもやっぱり、子供の時のわたし達は皆んな持っていた力だと思うのです。誰の魂も、もともと自由なものだからです。
そしてそれは無視したからといって、大人になったからといって、その存在がどこにも感じられないように思えても、決して消えて無くなるわけじゃないんです。


テテちゃんの無垢さが世界を輝かせる時

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テテちゃんが、
素敵な大人になってもなお
持ち続けている無垢さ。
そのイノセントな輝きを、
メンバーやファンたちが
価値のあるものとして
大切に扱う時、
わたしはとても救われた気持ちになる。

以前、BTSがゲストとして呼ばれたニュース番組で、再びその思いを持ちました。

これはコロナの特殊な環境下で撮影された番組で、韓国のコロナ対策の責任ある立場の人から「コロナと共に暮らさなくてはならない今の社会で、BTSからの独自の提案がありますか」というようなことを聞かれます(12分19秒以降)。それに対してリーダーのRMがテテちゃんに「独創的だから」と言って、彼に考えを言うように勧めます。

テテちゃんはこの時、
この、誰も経験したことのない環境で、
あらゆる物理的、思考的制約を受けない
真に本質的なビジョンを
オーディエンスに提案した、
RMの言葉の通り、
まさに独創的な創造者、
クリエイターでした。

彼の提案は、子供っぽく感じられるでしょうか?

シンプルで、簡単な言葉で、ささやくように、
誰も苦しめない、誰のことも傷つけない、
誰のことも非難しない、
そして誰にでも可能なこと。
だけどすごく大きなところ、
今後の全てにつながっている自分に対する問い。
自分の未来にも、人類全ての未来にもつながっている、

あなたが幸せになるために必要なものを、
見える形にしてごらん?
それを見てみよう?
皆んなの幸せの形を、未来を見てみよう?

メンバーたちがテテちゃんの発想を、

どんな状況でも世界に共有する価値のある純度の高いもの

だと思うまでに、
テテちゃんの本質的な無垢さは
尊重されている。
周囲の人たちに守られている。

なぜだろう。
なんでわたしはそれを見て嬉しかったんだろう。

それは、
自分の中の、置き去りにしてしまった
大人になってしまわなくてはならなかった、
でもはっきりとそこにあるインナーチャイルドが、
テテちゃんが尊重されているのを見ることで、
癒されているのかもしれない。
自分でズタズタにしてしまった、
どんな垣根も飛び越えて発想できる無垢な思考が、
テテちゃんを通じて、救われているような気がするのかもしれない。

テテちゃんが、
あんなに美しくて格好良いテテちゃんが、
中心にイノセントをピカピカ光らせていている時。
メンバー達が彼の光を、
大切にしているのが見える時。
本当は
自分の中にも同じ光があって、
生まれた時は誰もが持っていていた、
そして育つ過程と共に捨ててきてしまった、
その光を、
テテちゃんが大切にされているのを見ると、
大切にされているテテちゃんと一緒に、
自分の光も
大切にされているように見えるのかもしれない。

そして冒頭に戻る。

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photo by Vante(=V)

目の前で痛そうにしている人がいたら、
痛そうな顔をする。
辛そうだと分かれば、
辛そうな顔をする。
大丈夫そうだと分かれば、
安心する。

他人にちょっと寄り添うことが、
他人にちょっと手を貸すことが、
他人にちょっと譲ることが、
自分にとって何でもないくらいのことだったらすればいいのに!
してあげられたらいいのに!

今、静かな島に住んでいるパクチーは、
かつてくしゃっと丸めて捨てたその気持ちを、
ゴミ箱から拾って、しわしわを伸ばして、
目の前の壁にピンで止めてあります。
自分の無垢さに目を向けたら、他の人にちょっと寄り添うことも、ちょっと手を貸すことも、何も特別でない、むしろそれが自分のありのままの形でした。そして島にいる人たちは、ずっと昔からそれが普通で、自然なこととして生きていました。


自分の無垢さを捨てて、
大人にならなければならない
と思っている人たちが、
自分が捨てた無垢さを見て、
捨てたことに違和感を感じているなら、
その違和感は自然なことだよ、
と言いたいです。

そこにある輝きは、
テテちゃんが持ってるものと同じものだよ、と。







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