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「彼がいる」日常

BTSのジンくんが、長い兵役を終えてエンターテイメントの世界へ帰ってきた。これ以上ないという最適解の日程でオフラインミーティングを開催して、「2024年6月13日のソクジン、晴れ☀️」、歌い、踊り、みんなを喜ばせてくれた。わたしはアーカイブを観ていない。ファンクラブの会員ではないから、アーカイブはファンクラブの特典だから、観れない。それはいいのだ、わたしの「好き」はファンクラブに入る「好き」と違う…。ジンくんが帰ってきて、なんというか…彼が帰ってきてから、ずっと、かまどでお湯が、静かにことこと沸き続けている感じ?ずっと温かいような…つまり、これまで火は常時消えていた?そういう感じ?ソロの作品が発表されると、一時的に沸騰して、その後は余熱だったの?軍の施設のゲートからジンくんが出てきて、メンバー達に迎えられる動画を見た。無意識に、手が何度も再生していた。普段同じ動画を2度観ることのないわたしが、無意識を乗っ取って、勝手にクリックさせる…。この「好き」は、一体、わたしのなんだろうか?

何を見たくて、繰り返し再生していたの?

そこには何が映っていたのか?

Xで観たんだけど、似た動画があったのでペタ。

RMくんが、その後、メンバー全員の写真を共有してくれた。

https://www.instagram.com/rkive/

なんか、じっと見ているうちに泣いてしまって。

もしかしたら、本来、こういう風に育つ人たちだったのかもしれない…と思ったら、泣けてきた。彼らに被せられた数限りなくあるフィルターが、ほとんどゼロになっている風に見えて、なんだか、初めて、彼らに会うような。気のせいかな。良い写真だ。Agust Dさんから全ての毒気を抜くと、こうなるのかな。RMくんも、何の毒気もない、ただの少年みたいだ。RMくんが見せようと思ってくれた姿、良い写真、あまりに良い写真。

RMくんが、ジンくんを出迎えるのにサックスを吹いて、未経験から始めたはずの彼が出す音を聴くと、「毎日吹いてるんだなー!」と思われた。兵役を通して彼が身につけた新しいスキルを、カメラを通して世界中に鳴り響かせたわけだが、渾身のメッセージだったんじゃないか。と、そういう風に受け取ることもできるわけです。RMくん、彼は銃は持たないんだ、と。銃と、楽器は、本当に何もかも、根底の存在意義が違う。不器用そうなRMくんが、銃を扱うよりは楽器が安全…という可能性があるかもしれないことは置いておいて、もしかしたら経験者が優遇される軍楽隊で、彼がついていくのは相当な努力が要るかもしれない。彼は、決して銃は持たないという覚悟のために、その逆境には喜んで耐えるんだ、と、後から考えると、そういう風にも受け取れる…そういう選曲に思えた。観た瞬間は、単純に、「陽気で自由な人たちだな〜!」と思ってたんだけど。

わたしが、ジンくんを出迎えるメンバーたちの動画を、無意識で繰り返し観てしまったのはなぜか。

情報量がとても多かったからだ。

例えば、あなたが訪れた新幹線の駅のホームに、別れを惜しむ恋人同士がいたとしましょう。それが映画のワンシーンのように見えたとしたら、情報量が多いからで、それは二人が完全に今の瞬間感じる感情に満たされていることによる。だけど、もしもそこに誰かがカメラを向けて、「いい表情ですね!撮影してもいいですかぁ?あ、そのままそのまま!」とか言えば、ほら、もう、再び同じ気持ちに、同じ温度で別れを惜しむ気持ちに、ならないだろう。なれない。意識が自分の気持ちから離れてしまう。「見られている」という自意識が、感情へ至る道を阻害してしまうから。

ジンくんたちがやっていたのは、そっくりそのまま、そういうことだった。彼らは、今自分が感じている感情を、十分に感じて、感じる通りに表現して、そこに自意識が邪魔していないので、わたしたちは、彼らの感じた気持ち、そのまんまを見た。おびただしい人数の報道陣とカメラが、実際には道路を挟んだ対面側にいたはずだ。その「観察者」の影響を受け入れずに、そこに映されたのは、自分の今感じる感情の方を大切にして、束の間の再会と、変わらぬ愛情を表現する人たちだった。「この瞬間を生きている彼らの心の、今のそのままを見せられている」。だから胸がいっぱいになる。画面を通して、純度の高いエネルギーに、わたしたちもさらされる。彼らについてよくよく考察すると、ありとあらゆる様々な要因があって、あの再会になったわけだけど、様々な要因があっても、誰もがあの純度で再会を味わえるわけではない。稀有な感情を、他者にそのまま見せても大丈夫でいる、稀有な人たちである。

ジンくんのオフラインミーティングの会場には、美しいセットが用意されていた。全部が、ちゃんと、ジンくんのエッセンスで成り立っていた。

彼は10年の間で、こういう風に彼自身のカラーを、アーティストとしての世界観を、BTSをやりながら、作り上げたんだな。優しくて、静かで、温かくて、品がある。ところどころポップでキッチュ。

たった一人でFESTAを開催して、

でも、

なんというか、

どこか、

のびのびとしているような。

そう、やっと、やっと、ジンくんの真骨頂、縛りのない創造性を、彼は発揮することができる。彼は軍隊の生活を、もう、これ以上頑張りようのないくらい、努力して…最善を尽くした…すごい…。知ってた、想像してた、だけど想像した以上に、実際に彼は、周囲の人たちにとって、希望的で、癒しの存在だったんじゃないだろうか…。人としても、能力的にも…青天井の優秀さよな!!

その彼に、ついに与えられた、許された期間。

では、気功師の脳波はどうなっているのだろうか。気功師の場合、精神集中状態になると、脳全体にα波が出る。普通の人の場合、たいていは脳の後ろ半分にだけα波が出るのである。気功師はふつうの人間よりも意識を集中させる習慣があるためだろう。また、気功師にイメージを思い浮かべてもらったり、気を出してもらうとき、β波が脳の左右を自由に移動できるという。こんなことは一般人にはまずできない。
 さらに興味深いことに、一般人が気功師から「気」を受けているときの、二人の脳波を同時に調べると、気功師の脳波と気を受けている人の脳波が次第に同調してくるのである。気功師の脳波全体にα波が出ているときには、それを受けている人の脳にもα波がひろがり、気功師がβ波を出すと、それと同じ脳の部分にβ波が出てくるのである。まるで、二人の心が一つになってしまったようにも見える実験結果である。

「呪いの研究」中村雅彦:著

ジンくんが、予告通り除隊直後に、Weverse Liveをしてくれて、ジンくん、こ、声低くなってるううぅうぅうう!!…とワイが吠えたことはさておき、「ARMYに会えなかった1年半、その期間の思いを昇華させるのに必要な行動、それはこれだ」「この人数以上のハグだ」と、それを、彼自身が明確にビジョンできる、その具現化能力の高さ、が、もう…我的に、すげえ〜…すごぇよぉ〜…。内側に生まれたエネルギーが、実際の現実で、どういう行為と等価に交換できるのか。彼は分かってる。ワイは…コレが出来ない…!!

彼は、自分の欲しいものが分かって、それが本質的に何を意味しているかも分かっている。だからブレることなく、周囲の協力を得ようと努力し続けられる。スタッフと初め意見が一致しなくても、ビジョンを、できるだけイメージに近づけて具体化できるように、努力し続けられる。

ジンくんを見ていると、「願った」「願いを叶えようとした」「叶った」の、ダイジェストを、一瞬で展開させてくれていると感じる。彼は、自分のエネルギーの使い方に熟知して、高度で、パワフルな状態でいる。わたしたちはそういうジンくんを画面を通して見て、もしかしたら、うっすらとだけかもしれないけど、ジンくんと同じ部分の脳波が、刺激されてるんじゃないのかな?シンクロを起こして、良い方へ、つられて動いているんじゃないのかな…?

優れた気功師は、クライアントの脳波を、自分とシンクロさせることができるという。それはまるで、二人の心が一つになってしまったようにも見えると。

一つで、一人きりでいる心が、

誰かと繋がれたら、安心して、温かくて、ほっとするじゃないさ。

彼から発せられる、存在そのものを肯定するような、許しとか癒し。あれ?ひとりじゃないかもしれない、と思わせるような。でも彼にはそれだけじゃなく、どんどん循環させて、現実にアプローチしてリアルを変化させていく力もある。欲しいもののために、彼は、想念から発せられるエネルギーを、「使う」。

ところで。

わたしは、これまでのnoteでも書いている通り、原始仏教、ゴータマ・シッダールタさん、ひいては「悟り」に興味があるわけですが、それは、「悟りってぇ〜現代の言葉で説明するとぉ〜、どういう状態?」っていう知識欲でもある。

そして、今そこから派生して、「密教」「呪い」の方へ進んどるんですが…。

わたしはやらないんですが、「引き寄せの法則」とか「アフォーメーション」とかあるの、知ってます?アフォーメーションは五万回唱えないと現実に効果がない、とか、何かで見ましたけど、呪詛のやり方、一緒でしたわ。呪詛の方法も、プロセスは考えないで、結果が実現した状態だけを強くイメージして、ひたすら念じる。想念から通じる見えないエネルギー場は、ポジティブもあればネガティブもある。あたりまえだけど、想念を現実化するならば、ポジティブもネガティブもある力を扱うってことになるのだなあ、と、今更ながら思ったのでした。「悟る」という方向には、この「想念を現実化させる力を得る」ということも含まれてくるのだが、良い現実化を起こすことに長けていくなら、「これは苦しめることにも使えるか…」という認知も、同時に起こる。起こらなければならない。それが、自分のしている行為の、正しい認識につながると思うので。人の想念の中には、全部のポジティブとネガティブが含まれている。それを認めて、やっと、人間愛、慈悲の境地なんだろうと思うので。

うん。だから…、そうだな…。そうだった。太古の昔から、日本人は、見えない力を具現化して使う、そういうことを脈々とやってきて、あたりまえに日常にリアルに使用しながら生きている人たちが、おったんだった。生まれつき、あるいは後天的に、見えないエネルギーに対する感受性が開かれている人たち。しかし、その人たちだけが特殊なのではなくて、実は、人がみんな等しく持っている能力で、塞いで、蓋して、「使えない」と思い込んでるだけなんである。決して使えないわけではない。意図せずに、使えてしまっている。養老孟司さんが、「SNSに書かれてる悪口は呪詛」っておっしゃってたけど、今はそれが…すげー良く分かる…!

だから、どこがワガママで、どこが一般的か、結構そういう事は難しい。だけど、やっぱりもう個性だとか独創性だとかアホなことは、やめてほしいなと思う。子どもとしたらツライですよ。普通でよろしい。普通というのは意外に難しいんだよ、と。そのかわり…そうでしょ、どこへ行っても、何に対しても、数字は同じなんだから…これはダメですね、意識は。
 で、感覚の世界は、ですから「全部違う」と。その違いを、なんとか共通のものに持っていこう、持っていこうとするのが、「言葉」なんです、本来の。一人ひとり違ったら、もう話にならないでしょ、それこそ。「群盲、象を撫でる」という話があって、最近は「盲」という言葉が差別用語だって言って使えないんですけど、目の見えない人が象を触ってみたら色んなことを言うっていう、そういう話です。そうでしょ、みんな、ローカルって言うのは。だけど、そうじゃないので。だから、それじゃあ、一人ひとり見てるのが間違いだって言うと、そうじゃないんで。そうでしょ。お互いに違うことを言うっていうのは、違うことを見てるんですから。それを合わせていくことが大事。それを、何とか、共通の「同じ」という世界に持ち込んでいくのが、人間の正しい営みというかね。一人ひとり体験していること、感じていることが違うんだから、それを人に伝えるために「言葉」があるんですよ。すでにできている言葉を運転することが仕事じゃないんですよ、根本的には。(略)
 一人ひとり独特のものである体験を、どうやって、何とか、共通のものである「言葉」の中に翻訳していく、写して伝えていくか、という努力が、正しい意味の、「創造」であって。
 だから文学とか詩とかに価値があるんですよ、古くから。皆さん、文学なんて、人に売れるとか、面白いとか、誰にでも読めるとか、そんなこと直ぐ言うけど、そうじゃないんですよ。文学で書かれていることって、ある個人でしょう、多くの場合。ある特定の状況でしょう。ある特定の状況を描いたら、どうして大勢の人が読むんですか。特定の状況が一般に伝わるという、そこのところの、まさに表現の力(=創造)が生じる。

YouTube 【養老孟司】呪い言葉とは何か? 養老先生がお話します。

今日、養老さんのこの動画を見て、だーん!と感動して泣けた。

わたくし事ですけど、わたしは瀬戸内の島に移住して10年になりますが、今移住者が増えていて、最近都会から移住してきたお母さんたちと、ローカルのお母さんたちとが、バッティングしている…ように見える…。互いに、「自分はこれでやってきた、自分の感覚は普通だ」という自負がある訳なんですが、「都市のあたりまえ」と「島のあたりまえ」は、これは、も〜〜〜〜違う!性質が、真逆ほど違う!

島の人たちは、しかしそれを、言語化できない訳です、比較対象がなかったから。都市母がガンガン言う。島母がもや〜〜っとする。だが黙っている。さらに都市母がガンガン言う。島の人は、「自分たちはこういう価値基準で、こういうことをやってきたよ」と、説明する機会がなかったので、説明する言葉を持っていない。

それを、両者を、つなげる言葉を見つけ出すのが、正しい意味の「創造」だと…。こ、これは…!言葉が得意だと思い込んでいる、これは…!わたし…!に、しか…!できない「創造」なんじゃ…!!?島の人が持っている世界観を、彼らに代わってわたしが言語化する。都市母に、魅力を感じてもらえるように、パッケージする。さあ…!立ち上がれパクチー…!

つまり、それはストーリーを描くということなのです。そこにいる複数人が読んで、「わあ、それなら素敵そう」と思える、文学の創造。ストーリーによる、ビジョンの共有。両者の意図を汲んで成立するシーンを想像して、言語に写し変える。

…と、いつもこうやって自分の話になぞらえてメンバーの話をするのが、ほんと、傲岸で、ゴメンナサイなんですが、

ジンくんが、退役(本当は転役って言うんだよね)直後のWeverse Liveで、「自分はハグ会をするけども、他のメンバーはしないかもしれない」って、言った。だから、他のメンバーが仮にしなくても、何か思わないでねって。…この!この説明が、天文学的に素晴らしいんですがっ…!ジンくんがハグ会をして、「他のメンバーの転役の時、ハグができる!!」って楽しみができたARMYがいるとする。仮にしないとなったら、がっかりして、「ファンのことが好きじゃないのかな」と勘ぐりたくなってしまうかもしれない。感覚は人それぞれだけれども、それぞれ、別に間違ってない訳ですよ。

ハグ会をしなかったら悪感情を持つ人もいて、そうでない人もいる。「普通」は、実は難しい。しかし、「言葉」は、それらの別々の感情を持つ個人を、つなげることができる。共通するイメージを持たせることができる。つながる「言葉」を見つけるのが、真のクリエイションだ。

あの説明は、ジンくんがわざわざしなければならないような、彼に説明責任のあるようなものではなかったが、ジンくんが、あそこで、あえて丁寧に言語化したことで、個々人は共有したあるビジョンを持つことができた。それは、「その時々の事情が、ファンへの想いとは別に、あるであろう」。彼が言葉にしなかったら、確定しない、置き所のないまま、ずっともやもやし続けたかもしれないファンの気持ちに、ちゃんと、置き所を、言葉を使ってクリエイションしてくれた。彼は真のクリエイターだ。分断をつなぐのが、「言葉」なのか。分断をつなげる人が、クリエイター。おおわ…なんと大きい…BTSの意義よ…。

結局何が言いたかったかと言うと、ジンくん、彼は真のクリエイターなんですよ。その創造の力は、ポジティブにも、ネガティブにも、計り知れない。大きな力を持った創造者、が、ご帰還された訳です。

「彼」を媒介にして、…「ジン」はキム・ソクジン氏ひとりのものではないので…彼の考え、プラス、会社の色んな思惑や市場の原理や都合が展開されるものだから、その度に、大きなポジティブも大きなネガティブも、彼の名の下に創造されるであろうわけで。…そんなこと、彼は分かってるんですよ。きっと。自分の想念を、力強く具現化する…その想念の場は、ポジティブもネガティブもある…ポジティブもネガティブも、強く具現化される…、

それでも人を愛そう、

自分を愛そう、

気持ちが前向きであるように、日々、きれいに流れるように、整え、努める、

みんなの喜ぶことをしたい。

それが彼を磨く「行」になってる。

力の大きな人が、自分の力を意図したようにコントロールするために、何を心掛けているか。彼は、いつ言葉を発し、どんな言葉を選んで使っているか。余談だけど、わたしはジン氏の話す韓国語だけは、半分以上聞き取れるんですよ…ちゃんと勉強した訳ではないのに…。

それが、わたしが彼を見たくて見たくて、見てしまうものの、何が見たいか、なんです。おそらく。



…ジミンくんのアルバムの先行曲が公開され、Vくんの写真集のプロモーションがありましたね。回を経るごとに、どんどん縛っていたものから自由になっている気配を感じます。Vくんなんて…100冊くらい写真集出して欲しいですけどね…!向いてると思わん!?


それでは、また!!




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