見出し画像

アウトタグと自分のものさし

こんにちは!パクチーです。

最近のパクチーは「アウトタグ研究室」、ここに書かれているものは何だろう…と興味があってですね。いろいろ考えました。面白い話として読んでいただければいいかなと思ってるのですが、辛く受け入れ難い人もいると思うので、望まない人にはパスしていただく方がいいのかなと思います。

アウトタグとは。アーティストやファンに対して、批評的にコミュニケートする人たちに使われている共通のタグ、というのが、わたしがtwitterを見ながら得た理解です。わたしはBTSばかりが好きなので、今回のお話はBTSに限定した話です。

さて。前置きはここまでで終わって、パクチーが20代の頃していた演出助手という仕事の中に、「ダメ取り」というのがありました。演出家が、自分が演出した舞台の稽古を見ながら気になるところを助手に耳打ちします。それをひたすら書き取るのです。PTD on Stage in Seoulの後見たアウトタグでは、ダメ取りしていた時分を思い起こすものがあった。的確だな〜〜!そしてよく見てるな〜〜!!正直感心した。「批評的精神」とは、作品の精度を上げるために必須なものだが、主体的に能動的に観ていることを示すものでもある。

しかしアウトタグの中にそういう要素は部分としてあるが、そうでない部分もある。そうでない部分の中には、「例えどんな風に変わっても、とにかく延々と気に入らないところを見出し続けるんだろうな〜」…という「ツボ」に入っちゃってるような人もいて、こうなってしまうと問題は相手の側には一切なく、ただただ自分の問題になってしまう。

いろいろなトーン、いろいろな主張、いろいろなベクトルがあるにはあるが、時間をかけて見ているうちに、わたしは「メンバーに対して」あるいは「ARMYに対して」訴える彼・彼女らのメッセージには、大きく共通の念があると言えるような気がした。わたしはそれを要約したくて、要約できるのじゃないかと思って、ここ数日考えていたのだが、それとは、

「私が費やした時間とお金の価値を下げないでくれ」

ということではないか?と思った。

「今現在の彼ら」と、「自分の望む状態の彼ら」の在り方にギャップがあったら、これまでと同じモチベーションでは推せない、とファンである人は感じるだろう。ちなみにパクチーはプロフィールでも触れているが、人を推す能力のないパーソナリティーなので、「推す」ということにどのようなエネルギーが使われるか、憶測でしかない。憶測でしかないのだが、「現在の彼ら」に対して期待がなくなってしまうと、これまで懸けてきた期待、費やした時間、モノに対して、これまでと同じような愛情、愛着を持てなくなってしまうのではないだろうか。

アウトタグで表現されているのは、「自分が投資し続けてきた過去、モノ、時間、体験に、変わらずに価値を感じ続けたい」、「だから彼らには自分の期待する状態であって欲しい」という、「失いたくない」という悲痛な叫びで、

そのための、

「私の出す条件・基準にクリアして欲しい」

というリクエストであり、それがメンバーに対して、他の一部のARMYに対して、アウトタグとはつまり、他者に対して条件・基準を要求する、

「その条件をクリアした者を私は許可します」

という宣言である。

そして、この

「他者に存在条件をリクエストする」

という行為には、いつでも大きなカラクリが付いてまわる。

現在のアーティストの在り方が、「私」の求める基準に満たないことで、過去に費やした時間とお金の価値が下がる、喪失を感じるなら、熱中していた時の自分を肯定していたのは「当時のアーティストの在り方」という「条件」に寄っていたということになる。つまり、自分自身が100%自分を肯定していなかった、自分を許可するのに条件をつけていたのは自分だった、ということになる。

自分という存在に対する許可

お金というツールの認識

自分の時間(人生)の使い方

推していた対象が、自分の設定した基準を下回ると、熱から冷めてはたと現実に戻った時に立ち現れるのがこの3つだ。この3つは、統合すると、「この仕事でこのくらいお金をもらっている私は価値がある」という、社会に対して自分が自分に出している定義になる。そしてこれにはもう一つの意味が内包されており、「この仕事をし続けて、このくらいのお金をもらっていない場合の自分には価値がない」

アイドルに対して、「私の出す条件・基準にクリアして欲しい」というリクエストがあるとして、「これがあったら認めます」という条件が人によって実に千差万別であることは明らかであろう。つまりそこにはそもそも、「アイドルとしての絶対の定義」なんてものは存在しない。存在しないもので、存在している人を定義することはできない。

そう、この地上にすでに存在しているものに、価値を限定する条件も、定義も、適さないのだ。だって条件や定義より、「存在そのもの」の方が、いつだってスケールがでかいんだからさ。

精神だけの自分、霊体、意識体、スピリット、アストラル体、何と言えばいいのかね、その状態がどんなに素晴らしかったとしても、霊体という存在のままでは地球という物質に直接関われない。地球に直接関われるようであるために、万能の霊体が、地球の素材でできた肉体を纏ったのが人間だ。

地球に水があって、海があって、ミネラルがあって、塩があるように、花崗岩、玄武岩、雲母、水晶があるように、人の持つ感情に劣等感があって、支配欲があって、エゴがあって、憎悪があって、劣情があって、広い地球を開拓していくみたいに、人間の内の精神世界のさまざまな感情の粒を拾っていく。twitterで悪意を、ネガティブを、正義を、モラルを、他者に対する一方的な要求を、それを表現することには意味がある、それを経験することには価値がある、そこに情熱を持って、発信して、「体験」すること自体には尊卑がない。

推しが自分の設定する基準を下回ったと感じた時は、自分に出している設定を見直すことのきっかけとすることができるだろう。

自分を許可するために出された条件。

お金とは。

何をして生きる人になるか。

そして、「こんなもん、どうでも、なんも、いらねーよ!!」つまり、貴方に許可はいらないし、お金は単にツールで実態はないし、何をしていたっていいし、していなくてもいい、ただ、貴方、存在している、それだけ、それ以上でも以下でもない、つまり最初から貴方には、「肉体」という制限の他にかけられている制限も条件も、何もない。だから、世界にはポジティブな意見があっていいし、ネガティブな意見があっていい。それぞれはそれぞれのように存在していていい、ネガティブはそこで、ネガティブとして存在することで、ネガティブが持つ機能があって全体に貢献している。役割がある。

と、ポジティブとネガティブが機能としてイーブンだという視点が持てた時、

多分、貴方は、もうネガティブなコメントに影響されない。そして、そういったコメントが目の前から消えていく。そういったコメントがないバージョンの世界に移動している。

「あれ、パクチーさんどうしちゃったの?スピリチュアル?」と、思われる方、抵抗のある方にはごめんなさいね、でもそろそろ、「んーと、世界の仕組みって、実際こうなってるよね」って言ってもいいんじゃないかと思って、今回書いてみたよ。アンチコメントが見るのが辛い方、「そんなひどいこと言う人がいなくなったらいいのに」と思う方、それを叶える方法はあります。別の世界線には、他の人たちが実現させた、その通りになっているバージョンの地球がある。貴方はアンチコメントの存在の理由を知る。そのネガティブが機能する必要があることを知る。不要じゃないと理解された時には、アンチズムとそうじゃないものの調和が出来上がってるバージョンの世界に、貴方の方がシフトしている。そのバージョンの地球には、以前のようなアンチコメントは存在していない。え?シフトって何?怖くない?いえ、実際に人は1日に何度もシフトしている、らしいですわ。分岐。選択。深呼吸。もしもこうしたら。もしもこうしなかったら。意識に考えが起こった時点で、そして行動にした時点で、プラスの方にもマイナスの方にもいくつでも近似値バージョンのパラレルな地球にシフトしている。

「条件を超えていけ」、わたしがBTSを通して自分に感じる期待を言葉にするとこんな感じがします。アイドルの条件も定義も超えて、一般韓国人青年、セレブ、青年実業家、なんでもかんでも固定概念を打ち破ってくれ。振り返ってそれは、アイドルである彼ら以外の全ての人に与えられた条件を外していくことに通じてもいる。その立場、立ち位置に与えられた既成概念、ぶっ壊そうぜ、お金の価値観を、仕事の価値観を、人に与えられた条件を、「こうでなければアイドルとして価値がない」という既成概念を、古いバージョンの地球に置いて、どんどん捨て続けて欲しい。

パクチーに推す機能は搭載されていないが、推される人の仕事を間近に見ていた時間があった。BTSのメンバーたちが今置かれている環境の中で、彼らが仕事に一定以上のモチベーションを保ち、一定以上の精神の健全さを保ち、幸福に対して積極的である今の状態は、10年前だったら本当に無理だったんじゃないか。あるいはもしかしたら、BTSが崩壊しているバージョンの地球もあるのかもしれない。今、彼らがこうしていることが可能なら、つまり世界は確実に、良く進化している。「アイドルはこうでなければ価値がない」すなわち「あなたはこうでなければ価値がない」という個人にかかる制約を外し続けたから、彼らは今もこうして、生きて、歌って、ステージに立っていてくれていると思っている。綱渡りの先のほとんど奇跡のようなことだろうと思っている。BTSが今ある在り方で存在する以上に価値のあることを、わたしは思いつかない。

でもそれは、「推したい」と思わせる完璧に作られた偶像から、もっと、そのことで、「人間」に寄ってしまうのかもしれない。

でももし、自分から条件を外して、推しに費やした時間とお金の価値を、推しによってでなく自分自身で担保できるようであったなら、制約を外し続けてくれた場合のBTSは、条件から自由になることを体現する可能性の塊のような存在として、そこに立っているんじゃないかな、何にも縛られない人。何にも縛られない人たちのグループ。それって、すごく、すごい、価値じゃない?見てみたくない?

万能な霊体が、とある肉体の存在の条件を外していくことでアンチズムが起こるなら、それは肉体に対して「必要な概念だ」と考える勢と「もう不要な概念だ」と考える勢の、新旧の転換が起こっていることを示している。そして、自分はどちらが当たり前のバージョンの地球に行くか、古いままの地球にいるか、新しいバージョンの地球に行くか、選択することになる。

「自分が存在するためには条件がいる」と思ってきた人に、そんなもの、貴方に必要ないんだよ、それを伝えるために肉体は、そばに寄って行って、心臓と心臓をくっつけてハートとハートをつなげて、愛を渡せる、ハグ、身体が遠いなら身振り手振りで、言葉で、声で、肉体は愛を伝える。歌は愛を伝える。叡智は愛の後に入ってくる。

それはBTSがし続けてきたことでは?

肉体を覆っていた存在の条件が、脱皮するように古いバージョンの地球に置いて行かれてるなら、代わりに、愛を、肉体は受け取るだろう。

ポジティブなファンにもネガティブなファンにも、ファンにはまざまなグラデーションがある。

「ファンダムとは、そもそもアンチを内包するものがファンダムである」と、もしも彼らに理解されているのだとしたら、

彼らの「ARMY愛している」には、もっともっと深い深い意味があるのであるな、と、思ったのであった。


それでは、また!




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?