見出し画像

踊るように生きる、生きるように踊る。ぱーみっしょん!とぅ、だんす!byBTS!

BTSの「Permission to Dance」のMVを見て、結局わたしが一番感動したのは、MVに登場する人物たちが、マスクを外した時に「こういう顔の人だったんだ」、つまり「こういう人だったんだ」と、はっとしたことかもしれない。これまで「マスクで誰かよく分からなかったよー」あるいは「マスク外すと印象が違う」という会話はしばしばあったけれど、たかだか小さな布一枚が顔の半分を覆うだけで、どれだけのパーソナリティをマスクしてしまうのか(駄洒落)、そのことにかなり無頓着でここまで来てしまったことに、はっとした。

そして最初からマスクをつけていないMVの中のBTSメンバーたちに関して、振りを踊っている時も、自由に踊っている時も、自由に演技をしている時も、最後に付け足されたスタッフとのダンスも、ほとんど境目なく、何にもマスクされていない(駄洒落)彼ら自身がそのまま、彼らのパーソナリティ、親密さ、信頼関係、喜び、優しさ、あたたかさが、現れているようだった。彼らが磨いてきた内面のポジティビティがどの瞬間にもキラキラ映り込んでいた。カメラの前で、セットの中で、その人の良さがそのまま出るなんて、すごいことだ。彼らはスタッフを信頼して、シーンの意味を理解して、このMVの趣旨を理解して、安心して自分を開放しているようだった。特に後半の群舞と笑顔の連続は、超強力なハッピーオーラを放っていましたね。ポジティビティの凸レンズみたいな。ぎゅーっと集約してその瞬間に放つみたいな。ビーム出てるみたいな。半径2km以内のウイルスだったら死滅しますみたいな。これが世界のアイドルの笑顔のパワー…ううむ。唸っちゃう。

でも、パクチーがこの曲の歌詞の意味について、言葉を超えてバーンと理解されたのは、実は、ライブ( 'Permission to Dance' @ A Butterful Getaway with BTS)のホビ(J-HOPE)を見た時だった。ショックを受けたことの一番は、この時だったかもしれない。

踊っているホビが、踊っていないホビとそのまま同じに見えたから。あ、生きることと、踊ることと、踊るように生きることと、生きることが踊ることと、完全に体現している人が目の前にいる。そう思ったら、ホビはこの歌以上に歌の意味そのものに思えた。同じバイブレーションで生きている。生きることを、ダンスを踊るのと同じバイブレーションで生きて、踊ることを、生きるのとの同じバイブレーションで、踊っている。ホビを通してこの歌の本質をダイレクトにバーンと食らったような気がして、それは、とてもとても良いショックだった。

「讃歌」と「歌謡曲」

正直、初めて「Permission to Dance」を聴いたときは、順次進行が連なる歌謡曲の王道だったので、結構動揺した。「Butter」がかなり緻密に綿密に計算されて構築されたポップスで、複数の人の脳が寄せ集まって隙なく構築された印象だったのに対し、「Permission to Dance」はインストゥメンタルver.を聴くとますます「エド・シーラン、こういう仕事もするんだなあ…」と、まさしくシンガーソングライターが一人で書き下ろしたような、さらっとした印象を持った。良く言えばひっかかりのない。

でも何度か聴いているうちに、朝ジョギング(98%ウォーキング)しながら、お皿を洗いながら、車を運転しながら、この曲がそういう日常の動作に違和感なく馴染むことに気付き始め、そしてある思いが湧いた。

ああ、すべてのバリアを外してみようとしてるんだな…

BTSがK-POPなのかどうかという論争があるらしいことについて、BTS以外のK-POPを知らないパクチーに意見は何もない。しかし、彼らがK-POPアーティストとして、彼らの特色として持っていた全ての要素、

・韓国語
・Hip-Hop
・ラップ
・若者の怒り
・EDM(電子音のダンスミュージック)

これら全てのとんがりを丸く研いで、今回の曲になっていることは異存がないと思う。BTSを、あるいはK-POPを好んで聴く「以外」の人達が感じる抵抗、全てのとんがりを無くして、世界のポップス視聴者に、一番抵抗なく、スムーズに受け入れられる「歌謡曲」という形で、彼らが全世界にどこまで受け入れられるのか知りたい、と思ったのかな、と思った。まさしくエルトン・ジョンのような。生の楽器を使わないところのみ、K-POPらしさがあるといえば、あるかもしれない。

「Butter」のプロモーションインタビューで、「讃歌」と言ったインタビュアーがいました。わたしに信仰はないけれど、その気持ちは分かるような気がした。メンバー同士が兄弟のように信頼し合って、一緒に歌い続けること自体が、「讃歌」だと。だから感謝すると。ブラザーアンドシスター。教会で礼拝すること、信仰の場で大切に共有されているものが、その人たちの実生活にどう影響しているか。それは想像でしかないけれど、BTSのメンバーたちのあり方そのものに、神様がわたしたちに持たせてくれた神聖なものを、教会に通い、皆でその大切さを確認しながら、よりどころにしながら、感謝しながら生きている人達が、そこにそれを見るなら、そうと知るのは清々しいような、ぐっと身近なような、新しく視界が開けたような気持ちがした。

そしてこの曲も、この曲こそ、「讃歌」の持つポピュラリティーをびしびしと感じます。曲の構成は、教会で聖歌隊が歌っても成立しそうな、割合クラシカルな感じがしたし。オケがクラップだけのところなんか4声くらいでハモったら、いかにもそれっぽい。

ポピュラリティー、親しみやすさが大きいと言うことは、その分匿名性が高まるということでもある。実際この曲のポリュラリティーはかなり高いと思う。わたしはBTSが好きだから、目を瞑ってもメンバーの顔が浮かんできてしまうけど、知らない体で聴いたら、アメリカのティーンエイジャーの青春ドラマのエンディング曲にもなれそうだ。

それはつまり、これを歌っているのが誰かということよりも、この歌のメッセージが広く伝わることの方に重点を置いた、という見方もできなくない。その場合、「We don't need to worry/'Cause when we fall we know how to land」のweは、BTSを差すのじゃなく、わたしたちみんな、と考えることもできる。わたしたちは、たとえ墜落しても、着地の仕方を知っているはずだ、と。

そしてダンスに許可はいらないんだと。ダンスを踊るのに、誰かの許可を待っていなくていいんだと。もし引き止めるものがあったら、それは自分自身だけだ。

この曲のコアにある想いは、BTSの初期のアルバムに込められた想いと、わたしは不思議と一致するものを感じる。8年経って同じ思いを、全く真逆のアプローチで聞いているような気がした。彼らのアイデンティティの一つだと思ってきたK-POPのとんがりの部分を全て外して、この曲は、例え匿名性が高くても、彼らの唯一無二の輝きがそのまま込められた、そのままの彼らの集合体であることに変わりがない。今まで持ってきた分かりやすいラベルを外しても、彼らの持ち物は変わらない。それが、ラベルが剥がれたことで、世界の人々にどう届くのか、どう受け取られるのか、見てみたい気がすると思った。今彼らが持っている以上のポピュラリティーにつながるのか。

「Speak yourself」から「Don't need talk the talk」

パクチーは公式の日本訳があんまりすんなり意味が頭に入ってこなくてですね、自分で訳してみたりしながら、もう少し理解が深まるように挑戦してみたりしました。「Butter」も難しかったけど、シンプルに思えた「Permission to Dance」も、なかなか和訳が多様。思ったより難しい。

未だ明確にならないところがいくつかあるので私釈はしませんが、冒頭を訳しながら、鮮明にパウロ・コエーリョ著『アルケミスト』のワンシーンを思い出した。

「あの男も、子供の時は、旅をしたがっていた。しかし、まずパン屋の店を買い、お金をためることにした。そして年をとったらアフリカに行って一ヶ月過ごすつもりだ。人は、自分の夢見ていることをいつでも実行できると、あの男は気がついていないのだよ」

『アルケミスト』より


エルトン・ジョンを、若い人は知っているでしょうか?イギリスでは若い人も聴くのかしら。パクチーは子供の頃パクチー父(先日74歳に)が聴いていて、家にCDがあった記憶があります。わたしがちゃんと知っているのは数曲ですが、英語の授業で歌わされた「Your Song」、久しぶりに聴いたらやっぱりいい曲だった…。ダイアナ妃の葬儀でエルトン・ジョンが歌った「Candle In The Wind 1997」は、もともとマリリン・モンローに捧げられた曲でしたが、当時「なんで替え歌作るんだろう、友達だったんならオリジナルを書いてあげればいいのに」と思っていた若いパクチー、今、原曲の「Candle In The Wind 」を聴いて、あれ、なんだろう、顔がびしょびしょに…。

ところで、楽曲提供したエド・シーランはイギリス人、サーの称号を持つエルトン・ジョンはイギリスのポップス音楽界の父か、しかしてMVはアメリカウェスタン風と、英語圏の東西をミックスした様相。

対して「Butter」はダフト・パンクのニュアンスをイメージしていたことがアメリカの楽曲制作チームから公表されているが、ダフト・パンクはフランスのテクノデュオでした。ヨーロッパとアメリカの要素がこちらでも融合されているのが、なかなかニクい。下記参照。

脱線しました。

さて。パクチーが訳していて発見があったのはここ。

Don't need to talk the talk, just walk the walk tonight
言葉はいらない、今宵を楽しもう
'Cause we don't need permission to dance
僕たちが踊るのに許可はいらないのだから

公式MVより

「今宵を楽しもう」の雰囲気は好きだけど。「talk the talk」で言うべき時に言うべきことを言う、「walk the walk」でやるべき時にやるべきことをやる、と、結構強いニュアンスを感じたけど、「talk the talk and walk the walk」で有言実行という慣用句だそう。Don'tがついたら「不言実行」か?

「今夜、不言実行」。し、渋い…。

スクリーンショット 2021-07-13 0.55.23

「今夜、不言実行だゾ!」

…もとい

前置きはいらない
始めよう、今夜から
僕らが踊るのに許可はいらないのだから

指輪の位置はそれで合ってるのだろうか、ジンくん。

と、なると、大分曲の印象が違うなあと思ったりしたのよね。訳が進めば進むほど、不思議と最初の癒し系の印象から離れていく。ダブルでもトリプルでも意味を持たせるBTSのリリック、この曲でも健在なのかしら。単に訳の方向が間違ってるのか、単なるハッピーソングじゃなくなっていくので、ここから先はわたしの胸に留めておこうと思う。I have my answer, you have your answer.

しかしもっともコアな要素、そこはどうあっても間違わないだろう。

And live just like we'er golden

君が君の中のゴールドを輝かせて生きるのなら、we、同じく瞳の中に見たものを信じて、突き動かされるものに夢中になって生きるもの同士として、僕たちは、対等になる。動き始めた僕たちを止められるものは何もない。

ダンスとは、セッションのことだ、とパクチーは考える。音楽というエネルギーのゆらぎを体現する「踊る」もあるし、音楽にのせて自分のパッションを放出する「踊る」もあるし、音楽がなくて踊る場合もある。どの場合も、それは「今」「今の瞬間」と、肉体とのセッションなのだ。頭で考えることから自由になって、どうやったら上手く見えるかとか、どうしたらセンスよく思われるかとか、格好悪く見えないかなとか、経験のない自分がやってもいいのだろうかとか、を抜きにして、今の瞬間のみに没頭する、今の瞬間を掴む、瞬間の肉体の感覚を捕まえる、そしてそれが次の振りにつながる、連続してそれが起り続ける。

And roll in like we'er dancing fools」とは、そういう姿勢、その基本の状態のこと言っているように感じる。roll、そこから始まるんだと。「過去を振り返って生きるのでもなく、未来の計画実行するために生きるのでもなく、今自分が感じているパッションに自分をドライブさせて生きる」。そのことを説明する「ダンス」、ダンスが教えてくれる叡智には、この世界の本質がある。

そしてもちろん「ダンス」そのもの、体を揺らすこと、自由に動かすこと、力一杯大きく思い切り動かすこと、音楽に合わせて踊るのって楽しいね、というプリミティブな喜びも、この歌の「dance」は差している。

ナムさん(RM)が国連のスピーチで語ったフレーズ、「Speak yourself」。しかし今「Don't need to talk the talk」。なぜなら、そこで語られるべきだった言葉は、「 just walk the walk tonight」あなたが行動を始めた時には、言語を超えて、その立ち居振る舞いの中に全て含まれているから。

彼らが見ている世界のビジョン、今伝えるべきこと、今伝えたいこと、伝えられること、彼らはあの時とはまた違う場所に立っている。彼らの発見、彼らの深化を、世界に点在するクリエイターの力を借りながら、実現していく、そういうチームプロジェクトとして、今やBTSは、彼らのメッセージをコアに置きながら、有機的に機能しているグローバルなチームなんだな。そして、共感する力強いクリエイターたちとパートナーシップを築いてきたことが、素晴らしくもあり、彼らの持つ裏の能力でもあるのかもしれない。


「ぱーみっしょん、とぅ、だんす!」

「だ、誰か一部代わってあげて…」という思いと「ずっとやって…」という思いが交錯する、最後のジンくんの「Da na na 〜」。「だなななな」と言ったら、「Dynamite」じゃなく「Permission to Dance」になりますかね。彼こういう繋ぎ的な役回りが割合多いと思うが、さすが包容力あるなー、構成力あるなー、と毎回思う。構成力。音楽家には大切。最近自分が3分走ったら息切れすることを知ったパクチーには、ますます、歌って踊ることも、踊って終盤あのフレーズを歌えることも、神妙なる神技以外の何物でもないわ。

ちなみに「ダイナマイト」は日本の子供層に浸透したけれど、「Permission to Dance」は小学1年生の我が子が発音できなくて苦労していました。タイトルの言いやすさも人気と関係あったりするのかな。「ぱーみっすぅ」。給食の時間の放送にリクエストしたいのですって。伝わるかどうか。

今回、マンネ(末っ子)ジョングクの存在感がマンネっぽかったことで、いかに今までいつもセンターの役割を見事に担っていたのかを思いました。そしてグクがセンターにいる時、どこにいようと存在感の強い兄たちが、デフォルトだと何と存在感が強い人たちであるかということを思い知りました。

最近のVLIVEやYouTube動画で、グクが割合マンネっぽくいるのが、いつもこんな感じなんだろうなあ、と、なんだか気を抜いていて、テレビ用じゃなくて、自然体でいい感じがしています。実家の末っ子を思い出す。年長者が喋っている限り、自分が喋る必要があると思わない末っ子。いないのかと思うくらい存在感を出さない末っ子。でも全部聴いているし、考えている。ふと注目すると面白いことをしている。皆んなが彼を大切に思ってるんだなあと感じます。だいたい年長者が、グクの入る余地なくずっとしゃべってるしね。それを聞いている、というのが上京した頃の幼いグクのポジションで、今も染み付いてるのかも。家っぽいグクも魅力的。

いずれグクが、一人で、ホビのようによそのアーティストとコラボしたり、外国で一緒にMVを撮ったりするような日が来る時には、彼がどんな世界を見せてくれるのか、とても楽しみだ。

それではまた!




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?