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ああ、そうだよ家族はノンフィクション

こんにちは!ジンくんに「パクチーが食べられない」と言われてショックで記事が書けなかった訳ではありませんが、「なんで、パクチーにしたのよわたし…!!」と思わなかったでもない、ジンペンのパクチーです。

パクチーは大好きですよ。ええ。

「ARTIST-MADE COLLECTION BY BTS」、メンバーたちによるオリジナルグッズのショッピングチャンネルシリーズが、色々興味深く、面白く見ていました。「BTSのメンバーはよく知らないけど、Dynamiteだけは踊れる」というパクチー妹と、正月に久しぶりに実家で再会して、一緒にBTSのパフォーマンス動画をテレビにでっかく映して見たのですが、妹に「これは誰?」「これは誰?」と聞かれるたびに、「ジョングクだよ」「ジョングクだよ」と教えてあげて、知らない人目線でいくつかのステージを客観視したことで、改めて、センターにいるジョングクくんの凄まじい吸引力、一分の隙も無いアイドルとしてハイレベルにバランスされた黄金マンネの「画力(えぢから)」を、ひしひしっと感じました。そしてVくん、ジミンくんのそれぞれ持つ吸引力についても。

そう。ジョングクくん、Vくん、ジミンくんらマンネラインは、初めて見る者を容赦無く撃ち抜いてくる、殺傷力のずば抜けて高い飛び道具だと言えましょう。そしてRMくん、ジンくん、SUGAくん、J-HOPEくんたちヒョンラインは、剣を収める鞘のようであると思った。保管力。飛び道具の。ファンの。しかし、デビューしてしばらくの間、BTSの飛び道具はRM、そしてSUGAだったように思う。

BTSの一番すごいところは、デビューしたての時点でRMくんがすでに完成していたところじゃないかと、個人的に思う。初期のアルバムを聴いていると真剣に驚くのだが、デビューの時点でRM、当時はRap Monsterが、これ以上進化の余地はないと思われるくらい、ラッパーとして、表現者として、もう完全に、完璧に、すでに自分の世界を成立させていた。もう一つのすごい点は、小さなステージからひとつひとつ経験を積んでいった彼らにとって、会場が大きくなるたびに、その舞台の広さを体験するのは初めてであったはずだが、SUGAくんがステージでの居方、空間の使い方、観客の巻き込み方を実によく把握していたところじゃなかろうか。「ステージの上を自由に動く」には、コツがいる。それが格好良く動けて、魅力を持って映り、観客を出演者側のムードに巻き込むにはスキルがいるのだが、SUGAくんにはその素地が十分にあった。これは当初ステージ上でフリーでパフォーマンスをする経験の乏しかったメンバーたちにとっては、大変に心強かったのじゃないか。

そんな、デビュー前からステージにキャリアのあったRMくんとSUGAくんは、音楽的な面でも飛び道具的な役割を持たされていたし、曲を作る段階でも彼らの意識は非常に熱い分量で織り込まれていた。が、やがてマンネラインの成長と完成がBTSに別の顔をもたらす。

ヒョンラインが全体のチームとしての構成を支え、精神面でも支え、土台であり骨格であり、その上で安心してマンネラインが、どこまでも飛び回れる。今のBTSは、ヒョンラインの安定した構成力がマンネラインを自由にしていて、マンネラインが安心して自由に飛び回れるところに、大きな魅力が生まれる、そんな構造になっているように思われる。ショッピングチャンネルでは、マンネラインが、糸のついていない凧のように、すんげー自由にふわっふわっしていたのに対して、ヒョンラインは、基本的に全体の進行、企画の趣旨、外してはいけないテーマ、つまり構成が、頭に俯瞰で入っているような感じがした。ううむ、ヒョンラインの把握している世界の広さたるや…。

ジョングクくん、Vくん、ジミンくんの、ステージにおける破壊力のあるすさまじい飛び道具っぷりは、単独で存在しているのじゃなくて、ヒョンラインのいる安心の上で初めて十二分に発揮されるのかもしれない、と、そんなことを感じたショッピングチャンネルでした。

でもさ、自分の背中に4人4様のこんなヒョンラインがいたら、安心して頑張れるし、集中してどこまでもやりきれそうな気がするよね…!

ところで。

パクチーは最近、合唱の伴奏を頼まれて弾きに行ったのですが、真剣に人様の前で曲を弾くのは、もう、超、ひ、さ、し、ぶ、り!!譜面がそれなりに難しくて初見じゃ歯が立たない系の曲だったので、必死で練習しました。そしていざ、かなり自信たっぷりで臨んだら、指揮の先生に「ちょっと、はしってます(テンポが速くなってる)けんね…」と優しく2度ほど言われて、

恥ずかしい…………!!!

「申し訳ありません………!」

……基本だし……!!!

でも終わって2時間くらい経つと、「う〜〜ん、わたし伴奏向いてない!」「合わない音楽性の人とやるとやりにくい!ストレス溜まる!」「けっ!」、家に帰って愚痴までこぼした。指揮の先生は、楽譜の指定より♩=20程テンポを遅くしているので、わたしが持っていた曲のイメージのノリでノれなくて、弾きづらかったのはある。

とはいえ、決定権は指揮者にあるし、わたしは自分で「合わせられる」と思っていたし「合わせるべき」で、それが伴奏者の役割なのに…。しかしそれを責任転嫁してしまうくらい、この、「出来るべきことが出来なかった」ことによる「恥」の気持ちは、自分で受け入れるのが苦しい感情だったのだ。苦しさのあまり太字にした。

恥って辛ぇなぁ……!!

(こんな時思い出すのは、J-HOPEくんのインタビューの「いつも足りないところがあると思っているので」「それに対する反応があれば、それをきちんと認識して直さなければならないと思っています。そうやって直して練習して、直して練習してを繰り返」すのだと。腰が低く謙虚でいられるのは、つまり精神的に成熟しているんすね……。)

そして、そのこととは別に、わたしは最近、人生がサーフィンのようであると、かなり実感を持って感じるようになってきている。自分に向かってやってくる波が自分から過ぎ去るまでの間に、どれだけ、自分にとって未知の感情を、未知の感覚を、獲得することが出来るか。どれだけ粘れるか。どんな波も、ずっと続くように思われて、必ず去る。あっさり乗って流してしまって、そこで体験できるはずのものを吸い上げきれなかった時、同じ様なテーマの波がまたやってくる。じっくり味わえるなら、それが苦い恥の味であろうと、それが今世の醍醐味か…、口の中いっぱい噛み締めて隅々まで十分味わおう、次の波では違う感情を味わえるように。生涯にどれだけの富を築いたか、どれだけの名声を得たか、そんなのむしろ、もう、本当にどうでも良くて、今の波にどれだけ集中して、そこから、どれだけ多彩な情報を獲得できるか。魂に経験を与えてあげられるか。感情の色彩を。あっさり乗って、あっさり流して、何も残らない。そうはならないために、何ができるだろう。勝負はそこのみだという気がしている。

「今」自分がしているのは、波を待っているか、波に乗っているか、そのどちらかしかない。どうやら、ただ、いつも、そのどちらかであるらしい。

向こう側から、大きな波が近づきつつあるのが、見えている時。その時の自分の体が、血が冷えて、手が強張り、心臓がどきどきして、汗が出て、飲み込まれるかもしれない恐怖、上手くやらねばという思い、乗れなかったらどんな不幸が起きるかという予測、不安に囚われて心が凍っている時間までも、俯瞰して見ると、色彩のひとつだと分かる。

不安のドツボにいるところから「この波は超えられる」と、自分に疑いなく思える側にシフトするのは、呼吸ひとつだ。これまで自分が得た全ての経験、全ての記憶、全てのつながり、願い、祈り、愛、ラック、見えないサポート、聴いてきた音楽、見てきた映画、読んできた本、心温まった全てのエピソード、安心を感じた全ての場所…などなどとのつながり。ああ、こんなにわたしは持っている、この集合体がわたしだ、そういう状態でいる時、与えられた波は乗り越えるために与えられている。

ありがとう、ありがとう、音楽たち。ありがとう、たくさん、今まで何度も、どんな風にも、力を与えてくれて。

先日、かつて同じ舞台に関わっていた東京に住む友達が、はるばる瀬戸内に住むわたしに、ぴゅんっとメッセンジャーでVaundyさんの曲を3曲ばかりおすすめしてくれた。最初に「踊り子」を、「声の低い、いい声の女の人だなあ」と思って聴いて、別の曲で「あっ男の子だったか…」と理解。Vaundyくんだった。

1年後も、100年後も1000年後も分からなさで皆同じ、全部ひっくるめて「未来」と呼んでしまう感じ、20歳の今の自分が感じている感覚に「時代」と名付けてしまう感じ、ああ!分かる…!…静電気みたいに、パチパチとピリつく精神と、ぐるぐる渦巻く重い感情を持つ若者たちの混沌の中に、自分が一瞬だけ瞬間移動したような気がした。ライブパフォーマンスを、「この方、リアルライフでモテそうですな…」と、思いながら、見ました。

Vaundyくんの曲に、「愛とかノンフィクション」という歌詞がある。もう学生じゃないパクチーには「愛とかノンフィクション」に、合意、出来なかった…。「フィクションあるよね」と。「フィクションだらけでみんな苦労したよね」と。むしろ40代目前のわたしのリアルは「家族がノンフィクション」、逃れられない、洒落にならない、ずしーーーーーんと重たい現実に心を馳せながら、義父の救急搬送の電話、入院の電話、退院、義母の再発、また入院、度々電話、実妹が長く病気をしていたのがついて回るのがわたしの青春時代だったけど、子供の立場から転換して自分もそういう年代になったのだなと思いながら、軽快でお洒落なサウンドを聴いていました。旦那くんが辛そうでね。朝目が覚めたら、みんなが元気になってたら、夢だったらいいのにね。ノンフィクション。シャンシャンつったかつったかタン。

わたしが「楽園」と聞いてイメージするものは、温暖な気候。柔らかい草の上、皆が裸足で、素足に刺さるものは何もない。衣類は締めつけず、白い布をひらひらさせて、樹木の下、思い思いの場所で、人も、さまざまな種類の動物も、一緒に憩っているところ。

そんな楽園に生まれたら、わたしは人と分け合い、学び、ただ幸せに過ごすだろうなあ…。

ああーそうか…。

「この」わたしは、ただ幸せに過ごしたかったんじゃない。生まれた時、すでに完璧な楽園が完成していたらつまらないじゃないか…。未知のものに憧れを持つのを、したかった。未完成なものに闘志を燃やし、情熱を感じるのを、したかった。未来の方向にエネルギーを動かして、今目の前に見えないものをやがて掴む快感、知らないはずの、でも本能で「知っている」楽園について、そこにいる人の状態について、その価値を、コントラストを、極上の味を、深く、完全に「知る」ために、わたしは殺伐とした、あるいは抑揚のない、あるいは世知辛い、あるいは胸糞悪い体験を、「得た」。

抑圧して、言いたいことを言わず、ぐっと押し込めて見えないことにした感情が、ひとかたまりの、ひとつの人格のようになって、それでも消えて無くならずに、ある感情が、真空パックのまま心のどこかに置かれていることがある。どこか、自分の内側の、深淵に。

アビス(深淵)にいる自分が、まったく自分とかけ離れた人物であるようなことは、よくあることだと思う。他者は鏡だと言う。世界は自己の内面の反映だと言う。他人は自分だと言う。アビスにいる自分が「自分」なのだったら、現実の、実際に目の前にいる、全く合い入れなさそうな他人が、「自分」の一部が反映したものであると、「自分自身である」と、言えるかもしれないと思った。困ったことを言う、迷惑で、相容れない、考えも価値観も違う、とうてい理解し難いもの。向き合えない、理解もできない、言うことを聞いてあげることなんかもっとできない人格の一部が自分の中にもあるのだったら、現実社会に合い入れない人がいるのは、至極自然なことかもしれない。

しかしどうしたってそこにいるその子、アビスの子が、そこにいることで分かることがある。現実の「自分」と認識している自分が、何をどう優先順位を置くか。明確にしなければアビスの言い分に引きずられてしまうからこそ、言語化して「自分」が固く持ち直すことを、努力することができる。「アビスの子でない、わたし」は、何をどういう順番で大切にするのか。

相反する思考が、1人の人間の中で共存している時って…エロいよね!「反省」とは、何が悪かったか、何をしたら今度は成功するかを考えるのではなくて、自分の行動の結果起こした後悔、情けなさ、恥ずかしさ、悔しさ、虚脱感、虚無感、を、自分に与えられた感情を、隅から隅までじっくりと、落ち着いて味わうことをする時間なのかなー…、と思い始めている。20代の頃はそんなこと、難しくて恐ろしいこと、血の気が引いて手が震えるくらい嫌だったよ。無理だったし。

でも年の功なのかね、エロいと思えば頑張れそう!

J-HOPEくんの格調高いinstagramが、他の方々のnoteのおかげで、尚のこと完璧な様相であるを知るにつけ、「欠点のないのが欠点」と言われてしまうくらい無欠のJ-HOPEくんの格調を、下げよう下げようとしているのがジンくんのコメントであるように思われた。「完璧な」J-HOPEくんの敷居を下げて親しみやすさを補填するのに、ジンくんが「見くびらせる」スキルを発動させている、そのバランス感覚よ…。最年長者が体を張って、そういうことが出来るってのが、やっぱ徳が高いんだなあと思っちゃう。2021年のAMAsのEPISODEでも、ジンくんだけ相当に髪の毛ほわっほわだったけど、どんだけオフステージで髪の毛ほわっほわしているところを晒そうと、彼自身の価値は何も損なわれないと、彼が自身を定義しているんだなあ、敷居のところには、その人の本質に関わる価値はないんです。ということでしょうかね、今回の学びは。

どう見られているか。どう見せたいか。そこで失敗すると、大きな恥をかいたり、ギャップに傷付いたり、調子に乗ったり、勘違いしたり、嬉しかったりがっかりしたりするわけですが、それはそれとして、人生の味わいとしてじっくり味わったなら、でも実際にはそこにその人の本質的な価値はねーんだわ。

予測する必要もなく、過去の波に囚われる必要もなく、重心を落として、頭の位置を変えずに、体を柔らかくして、瞬間瞬間をチョイスしていく。その時の波に対応する。起きていることをじっと見て、両手両足から伝わる感覚を、蜜の甘さを、苦さを、まったりと吸い尽くす。

パクチー食べられないジンくんも大好きです。


それではまた!



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