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言えなかった事…そりゃ色々あるよね。BTS【Take Two】

テイク・ツー、君にはまだ見えないだろうか
これから明らかになる君のためだけの物語

Can't you see the take two
Stories unfolding just for you

こんにちは!パクチーです。2023年のFESTAで公開されたBTSの新しい曲【Take Two】。7人が揃って歌うライプクリップも公開されて、

わたしが、一番、最も大きく感じたのは、

「安心」

だった。

ライブクリップと合わせて、メンバー1人1人にフォーカスした動画も公開されて、それを観た万人がきっと思ったことなんじゃないかと思うんだが、

なんて音楽の感じ方が異なる7人なんだ…。

と。それを見てですね。あ、やっぱり安心している、と。高い位置にある自分自身と完全に繋がっている。理屈じゃない、条件を超えた安心。超自我でもいいし、スーパーエゴでもいいし、ハイヤーセルフでもいいし、超自分でもいいんですが、メンバー達それぞれ全く違うスタイルで、彼らは高次の自分自身とパスを繋げたままパフォーマンスしている。つまり彼らは外側のジャッジメントから自由で、自分の今やっている行為に対して無心で、あの時、カメラは彼らの自意識を映していない。

これって、すごく安心感があることだよ。

どんな人の、どんなパフォーマンスでも、高い位置にある自分とつながっていて自意識から自由なものは、見ていて気持ちが良いものです。全てが淀みなく流れて、一瞬一瞬が貴重で、時が止まったような。そこだけ時空がパッケージされて永遠のような。エネルギーはその人の体の中だけに留まらないで、周囲に広がって流れる。画面を超えて。気持ちが良いと感じるパフォーマンスを見ている時は、限りなくうっすらとでも見る側は必ず良い影響を受けている。

今年のFESTAが無事終わり、わたしは、本当に!去年の!2022年のFESTAとまるで心持ちが違うぜ!と、思っている。丁度1年前、BTSはチームとして大転換する方向へ舵をぐわっと切り、この1年、ARMYさんたちは本当に良く付いて行ったよなあ…!!日々、自己を拡張し続け、誰にも全貌が分からないBTSが変容し続ける過程を見続けながら、自分から、彼らへ、橋をかけ続けたよなあ…と…どこから目線だという感じですが…わたしが自分に視点を置きながら、周囲を見渡すと、そういう感じがするなあ…と…SNSでちらちらと窺い知るARMYさん方それぞれの、素晴らしい努力を感じながら、

もちろん、途中で橋をかけるのを諦める人もいる。今日もどこかで、新しい橋をかけるのを諦める人がいるだろう、それは当然…。

だけれど、

この1年付いて行った人たちの中には、それぞれに、自分の中の考えを組み直していく、相当な努力が、あったのではなかろうか?

1年前。BTSが、団体にかけるモチベーションの形を変えたら、付いて行かなくなる人がいる。ということを、リーダーのRMくんは重々承知の助の助、すけすけ助丸だったろう。そしてそれは、最も大きな懸案だったはず。

だけどどうよ。この、プロセスを経てみると、なんとまあ!彼らは9年までの「BTS像」を、ざばっと一回、自分から切り離したのであった。そして「個」として内側から湧き上がるものを見つめ直した。「BTS」というジャンルからも、演出されたストーリーからも、構築された世界観の展開からも、両足を抜いて、自分の物語を、自分の足で一歩、踏み出した。二歩、三歩と。

今年、2023年のフェスタを楽しんでいる人たちは結果、BTSの変化に柔軟に寄り添った方たちだった。「個」としてのメンバーそれぞれに対して、新しい橋をこちらからかけ直した人たちだった。これは、「BTSは、7人の個人が、それぞれに奥行きのある世界を、歩み寄らせながら作る作品ですよ」、ということを、理解して尊重する人たちであるとも言える。この先の未来、BTSはどういう形式でもどういう形にもなり得る。だけど最もドラスティックな変化だったこの1年を、振り落とされずについて来てくれたファンたちに対して、【Take Two】から読み取れる、10年目を迎えるメンバーたちが感じている安心とは、「個」としての自分に、BTSのファンたちは橋をかけてくれたという実感、人格のすごい根っこのところで感じている安心感なのじゃないかなあ…。

…橋とは。関係性のことです。「あなた」と「わたし」に、言語化できる以上の何かが共有されていて、それをお互い理解していることが信じられている状態。と、そんなつもりで使っています。

ところで。

「忘れてない」記憶を思い出す時、大抵、感情のしこりと共に思い出されるじゃんよ。だからわたしが思い出さない記憶というのは、その時の自分が、広々とした、つまり抑圧されない気持ちだったんだな…と思って。

脳の構造上、抑圧されないでした体験は、忘れることが出来る。

抑圧されて体験した記憶が、忘れられない。

それは、Agust Dさんの【AMYGDALA】の例を紐解くまでもなく、みなさん、ご存知だろうと思うが…。

ジンくんが「過去は忘れました」と言う時、彼は、自分の本来の形を損ねて歪めたまま物事に当たるということを、細心の注意を払って選択・回避してきたんだなあ、と思って、

これって、まー!

すごーく難しいことよな!

「忘れられる」ということは、その時自分がしたいことを、ちゃんと選択してきたということである。あるいは、抑圧された体験の記憶の中で、自分にかけた制約を、さかのぼって「解決した」ということでもある。

あおいうえさんが【Take Two】を、「リテイク」、撮り直し、の意味ではないかと、noteに書かれているのを見て、その感じ方は面白いな!と思いました。テイク・ツー。

同じシーンを、再び撮り直す。

前のテイクは一旦忘れて。

新しい気持ちで、まっさらな自分で、それを初めて体験する、ということをやり直す。

生まれ直す。

【Take Two】のライブクリップ、そして歌詞からも、わたしは「安心」を感じると書いたが、本当は、この先の未来のBTSに対してメンバー達は、もっと不安とか、数え出したらきりのない不確定要素が、みっちりびっしりあるんだと思う。

だからこここで、「Take Two」と言いながら、

「もう一回仕切り直す」
「同じようにはしない」

「これから明らかになる物語がある」、

と、もし言うのなら…それは一体どういう心境だろう。

出せなかった手紙
Letters I didn't send to you

ううむ…

エモいじゃないか…


本当は、もっと不安とか、数え出したらきりのない不確定要素が、だがそれはデビュー前の彼らにだって、超!超!どびっしりとあったはずだ。今の彼らは、あの当時とは全然違うレベルの実力を持っていて、全然違うレベルのステージでパフォーマンスすることに対する理解と親和があって、全然違うレベルの厚みのファンがいて、

その状態で、この10年言えなかった、

これから言うつもりのストーリーを内側に抱えて、

全然まっさらな気持ちでリスタートするんだ、

そんな自分は「今までで一番少年らしい気分」だっつってるんだから…

どんなびっくりをかまして下さるんでしょう。


た の し み!!!!


「忘れる」ってのがキモなんだな、この話は。

ジンくんのシュチタ出演で、ジンくんの「忘れる」という話はとても意味深く、BTSの功績を「忘れる」、BTSの偉業を「忘れる」、BTSの作風・コンセプトを「忘れる」、

それが何故大事かと言うと、9周年のFESTAでRMくんは、「BTS」の延長線上には、どこにも行き場所がなかった。どんなしっくりくる選択肢も自分の中から生み出すことが出来なくなっていた。関わる人、期待、国家の威光、作品の生み出すバゲッジ、何もかもに配慮して、誰もが損をしない選択をしながら、未だ世に存在しない新しいアイデンティティを生み出せ。そんな曲芸、「賢い人たちが全部作ってくれ。俺は上に乗っかって言われた通りにする」、という気持ちでいる以外に、やれることがないという気分に、ならざるを得ないだろう!なあ…!

だから「すごかったBTS」を、意識の上で一度リセットして、彼を閉じ込めた、すでに出来上がったBTSから、自分を取り戻して、

解放する、忘れる=抑圧から自由になる。

一世一代の、物凄い勇気で、脱皮したんだ、RMくん。ね。

抜け殻を、置いて、必死で2023年の地点までやって来た。

同じやり方はしない。権威で首が回らなくなるようなこと。自分であることを手放して、プロジェクトのてっぺんに「リーダー」役として乗っかればいい、などと、そんな手に負える範囲を超えたブランドにしてしまうこと。

必要な、ものごとの「核」だけ覚えておいて、良かった思い出をガソリンにして、改めて、「防弾少年団」というブランドを、自分たちの望む世界に沿って、自分たちの手で主体的に構築し直す。

そういう決意の風が吹いているような気がしました。

語ることができた過去は、忘れていける。過去の来歴は、語ることを繰り返すと逆に手放されて行く。「語られないこと」は進行形で胸の中に残るが、「語ることができる」と、そのシークエンスが終わることを、何となくBTSやメンバーたちを見ていると、感じることがあるのではなかろうか。

「忘れる」ためには、体験が抑圧されていないことが必要だった。抑圧された体験を忘れる為には、自分の体験に対する理解と解放のプロセスが必要だ。まさにAgust Dさんの【AMYGDALA】、それは可能だ。そして時に困難だ。

だがそれは価値がある。

だって、10年の老舗のブランドを背負いながら、それを今初めて始めるような、今、最も若いと自分が感じるような気持ちで、新鮮に自分の人生の今を味わうことが出来るのだから。過去からも、自意識から自由で、今自分が心を込めたいものに、無心になれるのだから。

無心である時。

生きる意味とか、人生の価値とか、他者の評価とか、そういうものの全てが自分を邪魔しない。

安心して、エネルギーが循環してる。

結局、「Love Yourself」とは何であったのか、

今がその、答え合わせの段階だと、言ってもいいんじゃないか。

「こうしたら愛される」「こうしたらもっと愛してもらえる」。親から、学校から、世間から、時代から、様々に求められる、「だから、あなたはこうしなさい」「だからわたしはこうでないといけない」。それを様々に言われ続けたBTSの9年目が防弾会食だった。一般人であるわたし達も全く同じだ。誰かが当てはめた、あるいは自分が課した、「こうしなければならない」「こうでなければ愛されない」と思う行動条件のうち、

不要なものから順に、

全てを外して行って、

何が自分を抑圧していたか理解して、それが自分をどう、良く、悪く変質させたか、

そして最も自分の中が循環する形を見つけ出して、

全ての望まない抑圧がかかっていない、外部の制限がかかってない自分が考える「今すぐ、自分がしたいこと」を、自分が、自分にさせてあげる。無心にやらせてあげる。自分に対して最大の愛を示す手段、「Love Yourself」ってどうやるの、これがその方法だよ

「自分が心から思っているもの」と「人から思わされてるもの」の区別って、実際難しいんだけどな。「愛してもらえなくなる恐怖」に打ち勝って、「愛され続けるためにしていること」を止めることも、また実際難しいしな。ぼちぼちやるしかないよね。簡単な、「これなら確実に分かる」という大袈裟でない部分から始めて、徐々に慣れて行くしかないと思う。続けていれば、必ず習熟してくる。大きな判断も出来るようになるし、迷わないし、後悔しないということが自分で分かってくる…だってやっぱり、「Love Yourself」には、命がかかっているんだよね…自分に合わない行動基準は、やっぱり、どうしたって、自分を削る。極論だけど事実、最終的には寿命を縮めてしまうんだよ…。

そうは言ったって、嫌なことと分かっていても、そう簡単に止められませんよパクチーさん!社会人だし!責任だってあるし!人に迷惑もかかるし!

うん。そうだね。そういう時こそ、クリエイティビティの出番なのかな。「相手の意向」と「自分の意向」を折衷して、新しい形を生み出す。あるいは折衷している風に見せる。努力した風を見せる。そういう演出みたいなテクニカルな要素も、あるといいかもですね。そして自然に「頑張ったけどダメだった」という共通認識につなげる。無視した訳じゃないのよ、しかし「これは無理なことです」と。こう、納得してもらうプロセスがあるのは、親切で思いやりがあると、わたしは思いますけども。「これをこのままわたしに強いるなら、○ヶ月後に家出します」と、これはわたしの高校の時のスクールカウンセラーの先生からのアドバイスなんですけど。「家出しちゃえば良いんじゃない?」。

大分、「何の話だよ」って感じになってしまいましたが。

BTSを見ていて、その時々で色々な感じを受けるんですけども、一番大きなものは、「その時代が抱えている課題」みたいなものの解決点を、非常に彼らを見ていると感じる。彼らが、自分達自身が抱えている問題点から、突破口を探して、それを世界に提示して見せた時に、わたしは「そのアプローチは、効くな〜〜〜ッ!!!!」という感動をすごく受けるんです。かつて彼らが提案した「Love Yourself」は、わたしには衝撃だったよ。よーく覚えているんだけれど、あの頃「愛」は日常語じゃなかった。「Love Yourself」は、先進国が全体的に一定以上の生活水準になった時に、単に情報と化してしまった、若い人たちの人生とか、命みたいなものに対して、情報化してしまった部分以外のその人自身を、ひとつずつひとつずつ掴み直させる行為に、わたしには見えた。

名前。年齢。どこで生まれたか。情報になってしまった来歴。来歴を繰り返し繰り返し語っていると、それは物語になって、形骸化して、やがて自分から離れて、忘れることが出来る。それでもそこに残ってるものが自分自身だ。

わたしは、日本が、民主主義が、資本主義経済が、世界が、「こりゃ…いつ転げちまうのかなあ…」と思うくらい、超、めちゃめちゃ現在不安定だと思っている。が、現行がどれだけどのように変化したとて、生身の人間の生活は続くんである。毎日必要なものって、そんなに変わらない。たまに必要なものも変わらない。あったらいいなあと思うものも、そんなには変わらない。どうあっても、「情報」になりきらない生身の「自分」が、毎日の生活をこつこつと日々、手を動かして足を動かして、半径数mの人たちと共に生活圏を共有しながら生きて行く。何がどれだけ変わっても、「Love Yourself」は要るし、【Take Two】の境地も要る。それとはつまり、自分のことを自分で愛せている人が、自分のコアを感じたまま他者に愛されていることを信じられている状態、他者を信じている状態なんだよな。

情報化されない自分、自分の大元の部分、自分のコア。コアが、自意識を超えた位置で感じる、安心とか信頼を他者と共有している状態、それを、難しく言えば、ワンネスとか言うんじゃないだろうか。ハイヤーセルフと繋がるのは、このコアの部分だろう、これどうあっても変わんねえのよ。変えられるのは小手先の部分、だけなんだわ。

【Take Two】のライブクリップ、写真、見て下さい、誰のことも攻撃しない、まる〜い、優し〜いスタイリング。くすみカラーで、どこにも文字の入っていない。現実でないような、靄の中の世界のような。時代がないような。未来の自分が考える過去のスタンド・バイ・ミー。

うすいブルー。うすいピンク。区切りなく。境目なく。混ざり合ってる。これは、ワンネスの、ひとつの表現なんじゃないかな…と…。

藤井風さんがイメージクリップを公開されて(【ガーデン】)、わたしは藤井さんについて全然詳しくないですが、一時期、彼の語る精神性の元ネタについて話題になっているのは知っていました。藤井さんの楽曲【何なんw】は、初見で完全にハイヤーセルフの話だと思ったし、彼が明言しているテーマは、スピリチュアルの系譜ではごくごく基本的なことなので、「誰が元ネタか」で取り立てて騒ぐほどのことではないんだが…。

「無心」も「今やりたいことをやる」のも、そこから「自意識」が殆ど抜けているなら、ハイヤーセルフと自分が一致している状態と、ほぼ言える。歌うとき、そうなりやすい人もいるし、踊る時そうなりやすい人もいるし、あるいは歌う時は絶対ならない人もいるし、つながりやすい行為は人によって異なる。だけど常時そばにいるし、本来、常時つながっていることが出来る。

わたしはかつて、一時期、毎日BTSの新しい情報を追っていた。他の方が書く解釈を追っていたし、海外の情報をも集めるARMYさんのブログをフォローして、いつも出来るだけたくさんの新しい情報を得ることに喜びを感じていた。けれど、今、この瞬間、自分に素直な気持ちを問うてみると、正直、彼らが最近どんなことをしているか、どのようであってもいい。何をしてても、わたしにとって彼らの存在が変わらない。彼らの今をそんなに気にしていない。何か、いつも追い続けなくても、いつ受け取っても、彼らの発していることはもはや古びないし、新鮮さを失わないから、という位置に、今いる。

彼らが何かしている時はハイヤーセルフと繋がっているし、彼らのハイヤーセルフは、わたしを含め全ての人のハイヤーセルフと、高次の部分で、ワンネスの部分でつながっているので、何て言うんだろ。同じ庭にいるみたいな。それぞれがそれぞれのことをしているんだけど、互いに気配は感じてるみたいな。同じところにいる安心感。例えばRMくんの表現形が、これからどのように変わっても、彼が今アクセスしているところ、今繋がっている場所から、きっと彼は今後はぐれない。

わたしの魂と彼の魂は、紐の端っこと端っこの遠〜〜〜くで結んであるから、姿は見えなくても大丈夫みたいな。

多分、今後、ずっと。

なんだこれ。

これがワンネスかぁ…。


不要な抑圧を外して、Take Two。例えばジンくんが、「撮影にメイクはいらない」と言ったとして、それは無茶苦茶おっしゃる通りの美しさ、なんだけど、実際はめちゃめちゃイノベイティブな事じゃないですか。この話は段階があって、「こんなにハンサムで、メイクの必要が分からない」みたいな発言がかつてあり、そして、ついに彼は実際に、メイクもヘアメイクも無しでの撮影を実現した。

自分達で、不要な制約を外す。ジョングクくんもちょいちょいジャブを打ち続けてる感じだし、誰が何と言おうと変わりようがないコアを、彼はもう見つけて生きている気がする。Take Twoは、BTSのネクストステージは、業界やアイドルの当たり前の制約のうち、ハイヤーセルフが不要と判断したものを外す。外すことで初めて、ファンに紐解くことが可能な物語が、「Stories unfolding」が、彼らの中には用意されているのかな、それを開く準備が…。


それでは、また!




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