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[ə]の発音

恋をしている時、自分の世界を否定されても、そんなに傷つかなくていい。それは生卵と生卵がぶつかり合うような痛ましいことだけど、自分自身の世界の中身を本当に知るのはその時だ。夢を描いて否定されても、そんなにがっかりしないで。一番身近な人、親、家族に否定されたら力を失うけれど、あなたを良く知る人ほど、その言葉はあなたの夢の輪郭をはっきりさせてくれる。

否定される言葉が響くのは、自分も持っている潜在的な不安を明らかにするからだ。「ここにこのくらいの不安の塊がある」。

それでもわたしはやる。

夢が叶うことを始める最初のゲート。

 始めるにあたって、ぼくは体を温め、両手をこすり合わせて、勇気をかき立てようとしている。いま思い出したけれど、精神を奮い立たせるために祈ったこともあった。働くのは精神だから。祈るのは、沈黙して、誰からも隠れて自分自身にたどり着くためだった。祈れば、魂に空白を得ることができた。そしてその空白は、ぼくが決して手に入れることのできないもののすべてだった。あるいはそれ以上のもの、無だった。でも空虚とは満たされていることに似ているし、同じ価値を持っている。何かを手に入れる方法は探さないこと、所有する方法は求めないこと、そしてただ、自分の中にあると信じている沈黙が、自分のーー謎の答えだと信じること。

『星の時』クラリッセ・リスペクトル:著

ごくたまに、SNSでBTSの悪口を検索して見る。わたしのTwitterはBTSを公式しかフォローしていないので、あえて見なければ目にすることがない。

自分の反応はだいたい3つくらいのパターンに分かれる。1.何も思わない、2.もやもやする、3.びっくりする。

もやもやするのがわたしの場合、「自分はそうでありたくない」のに他の人の言葉の力に引きずられる時で、「わたしは別のように考える」、と、そのことについて思考するキャリアが十分に足りていない時だ。びっくりする時は、「そういえば、わたしもそう感じてた時があったあった!」と、自分の過去と出会う時、そして今そう思ってないことに驚く時。

眺めながら、いろんな感情を体験し、学び、自分の輪郭を明らかにしてたくさんの人が成長する、高度な学習の場…という感覚が浮かぶ。来るべき瞬間のために。

来るべき瞬間とは?

わたしの場合、それは妊娠している時であった。初めての妊娠。これまで自分のことだけで頭をいっぱいにして、自分がどう思うかだけが世界の全てだったのに、「胎児」に対しての決断を自分が下さなくてはならない。自分のことだったら失敗しても自分が被ればいい。わたしが初めて直面した難しさは、自分の器官に保有している新しい命が「誰のものでもない」という新しい難しさだった。

この誰のものでもない新しい命に対して、さまざまな専門分野の人が実にさまざまなことを「唯一の正しいこと」のように言う。産婦人科のお医者さんが「こうするべきだ」と言う。わたしはこうしたいと思う。そのどれもが真剣に最善を考えるからなのだが、食の好みが変わり、履くものが変わり、着るものが変わり、体型が変わり、日々重心が変わり、骨格が変わり、生理現象が変わり、思考も変わり、ダイレクトにそのものを感じているのは自分だけ、ダイレクトに影響されているのも自分だけ、あらゆる選択肢の中から自分が自分でない命の行末を左右する決断をする時、これまでの全ての判断は予行練習のようなものだった、これまでの試されるシーンは模擬試験のようなものだった、今が本番か、思った。

賭けてるもの。やり直し。どれもこれも次元が違った。自分の選択が自分じゃない人の全てを左右する。選択の責任は自分にあるが、結果をより多く被るのが自分ではない。

BTSを見ていて、わたしが良くも悪くもひりひりするのは、彼らが毎度毎度そのレベルの選択の連続で生きているように見えるところにある。子供を育てていると幼少の自分に改めて出会うような、追体験するような、「こうでありたかった」形に、自分が子供にかける言葉を通して形成し直しているような、過去をマッサージして整え直しているような、感覚になる時がある。

BTSに対しても、彼らの活動を追っていると、人間未満だった自分が、「社会」にべこべこに祖形し直されて「人間」になっていった過程を、その時味わった扱い辛いさまざまな感情、瑞々しい興奮を、彼らを見ることで繰り返し体験するような、当時に再会するような、見たくないような、見たくないけど匂いまで嗅ぎたいような、懐かしい複雑な気持ちになることがある。

わたしがしていた舞台の仕事で、初めて出会ったゲイの男の子たち、ジェンダーレスな男の子たち、村上春樹の作品に出てくるような特有のニュアンスを持った独特の魅力を持った女子たち、ゲイの役者さんが注いでくれたビールが瓶から服にこぼれて「あんたがグラスを動かしたからでしょ」と謝られなかったこと、「女だからっていい気にならないでよね」、それでびっくりした自分が、これまでいかにただ・・女性・・であ・・ると・・言う・・だけで・・・男性から気を使われるのを当然と受け入れていたのかを知ったこと、楽日、舞台をバラした後、劇場の外の星があんまり綺麗だったので、みんなで地面に寝転んで見上げたこと、その時は有名な人もそうでない人もみんな心の中が平等だったこと、黒人のモデルの俳優さんがわたしの英語のギャグに笑ってくれたこと、イラン人の俳優さんの軟派師っぷり、いつでも自分が天秤にかけられているひりひり感、有名な俳優さんにみんなの前で電話番号を聞かれて応えて、後から「スタッフは火遊びに後腐れないくらいに思われている、仕事が出来ない奴だとレッテルを貼られるよ」と先輩にこっぴどく叱られ、「でも本気で好きになったら仕方ないじゃないか」と別の上司にフォローされ、実際には「2次会には後から行くので、番号教えといてもらえますか」というスタッフの下っ端であったわたしにされた事務的なリクエストであったので、電話は、「どこに行けばいいですか」の要件でかかってきてそれきりであった(番号は削除しました)。

これまでどれだけ全身を「もやもや」に苛まれたろう。

「もやもや」は不快感。嫌、なのに、自分の中にもどこか一理あるのを感じる自分に対しての嫌悪。そこから自分を掬い上げる言葉を持たない時、わたしの「もやもや」は、「なんであの人、ああいうこと言うんだろう」という怒りに転嫁されて、いつまでも消えない。

でも、静かに、どこに一番もやもやしたか、因数分解するように、大切に大切にほぐしていくと、その中にどうしても諦められない、愛おしい、きらきらの涙のかたまりみたいな、希少な輝きをもつものがある。ああ、これを蔑ろにしたから苦しかったのか。これを無視してたから悲しかったのか。怒りじゃなかった。「わたしにとって、この部分を大切に思う」、それが分かると「もやもや」のシークエンスが終わって、自分をもやもやさせた言葉はレトルトパウチの袋のように、役割を果たして用が終わる。

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[BANGTAN BOMB] Meeting with Megan Thee Stallionより

身体表現をしていると、人との身体距離感がバグる。かわいい頭たち。

わたしが出会った人々は、ある作品のために集まり、舞台が終わると共に解散し、ほとんどの人が再び出会わない。短い期間でも、互いの目の中に宇宙を見合った一瞬を、体の底からぎゅっと濃く感じた感情の、ぎゅっとしたところだけが今でも、色も、空気も、綺麗に残っていて、辛かったことや苦しかったことは時間をかけて、いつの間にか殻だけを残して、全体としていい感じの絵に収まっていた。わたしに初めて感じる感情を与えてくれたたくさんの人たち。ポジティブなもの。ネガティブなもの。拒否感。嫉妬。自己欺瞞。LGBTQ、人種、ハンディキャップ、精神疾患、メンタルヘルス、大麻、ニンフォマニア、浮気、不倫、中絶、DV、過保護、夢遊病、自傷、自死。わたしの態度は、これまでに出会ってきた人たちがわたしとの間で持ってくれたコミュニケーションの蓄積が作ってくれた。わたしの形は、これまで出会った人たちとの間で起きた良きこと、辛かったことが、少しずつわたしの余白を消して、見えるようにしてくれた。

Well, the song is about how the power of love transcends all things, borders and rules and genders and race and every sexuality. If you look at people right now who are divided by a border or can't be together. That's what the song is about. About how nothing can really stop people loving each other.

Coldplay X BTS Inside 'My Universe' Documentary

BTSがコラボしたColdplayのクリスさんのメッセージ、「今人々を見れば、国境で分かたれ、一緒にいることさえできない場合もある。でもどんな枠組みも互いが親愛の感情を持つことを妨げられない、愛の本質は人の枠組みを超越するものだから」。

宇宙的な次元では、条件の下に愛を分たれた2人が共に愛で満たされている状態が成立しているタイムラインがある、そこにシフトすることを祈る歌のようだった。Vくんが信じているのと同じか分からないけど、わたしも宇宙人がいると思うので、ボーダーに影響されている今の状態をやがて解決しないと、次の「異星間ボーダー」に太刀打ち出来ないよ〜もっとすごいの来るよ〜、と、ファンタジーと多少のユーモアも含めてこのMVが言っているような気がした。

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Coldplay X BTS - My Universe (Official Video - Behind The Scenes)より

「もやもや」が嫉妬の場合。

嫉妬、嫉妬…。嫉妬はすごーーく難しいね…!

あらゆる嫉妬、恋愛関係、女性として、才能、能力、魅力、有名無名、成功しているかどうか、人として、わたしの脳を何度でも焼いた嫉妬心、理屈で回避しようとし、努力が足りないのだと考え、「たいした問題じゃない」と軽く扱おうとする試み、自己肯定感の損失?劣等意識?選民感?「わたしは嫉妬なんかしない、しても仕方ないもの」。

あるいは嫉妬されるのも辛かった。針の筵のような、対人関係の全てを不審に思わされるような、少しずつ構築してきた信頼や親愛の気持ちが幻だったのだろうかと思って、確かにあると思っていたわたしの頭がおかしいのだろうか?と思って、稽古場で人に会うのが怖くなった。

わたしが嫉妬を「悪」だと考えていた頃、頭が熱を持つような強烈な感情に毎回全身で抗って、わたしはそれを解決できるものだと考えた。

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Happy Birthday ! ジミンくん!
(weverse magazineインタビューより)

Weverseのジミンくんのインタビューを読んだ時、本当に彼のお母さまの言う通りに「彼は大人になったんだ…」と感じた。「嫉妬」の形を彼はもう知ったのかと思った。同時期にOAされたのバラエティ番組「You Quiz」でのインタビューでも彼の友人関係について話があった、自分に厳しく、人をどこまでも気遣うような彼が、同世代の友人たちとの間で気不味い空気になるのを避けるためにどれだけ細心したか、どれだけの長い期間友人たちの嫉妬を味わってきたのかを思った。

わたしが人を妬むことはしょっちゅうあるが、わたしが人を妬む時、それは自分が欲しいと潜在的に思っているものを人が既に手に入れていて、いい線まで一致しているんだけど、重要な部分で何かが違う時だ。でもそのズレているものが何なのかが分からない。分からないが得ているものに対してとりあえず嫉妬して、いらいらして、「あいつ嫌いだ」、というところに一度落とす(不思議なもので、コアが一致していると「素敵だな、気が合いそうだ」になる)。

嫉妬は、どんなに分析したところで、嫉妬であった。これ当分無くなんないわ!ひとつひとつは複雑な構成になっていたとしても、初めから組み込まれている臓器のように、心臓、肝臓、嫉妬、これ外界に対する生体反応の一部だわ、ほとんど反射。理屈じゃない。生きてたら仕様がない。

嫉妬から自己分析するのは大変高度すぎるので、「くそぅ〜〜〜あいつ、どうにかして苦しめてやりたい〜〜〜〜〜〜!!!!」「よしよし分かった、一緒にスパークリングしような」(元ネタ西炯子さん←ファン)、咆えたそののちスパークリングでもして意識を外す。嫉妬を自覚するところが一番のクライマックスで、開示したところをこんな風にジョングクくんが笑顔で声をかけてくれるなら…嫉妬すら生きとし生ける生命の甘い輝きに見えなくも、なく、ない…?  

嫉妬が「悪」だ、という概念を外すことで、わたしは今、自分が、どんなテーマにどのくらい嫉妬するのか、大分いい感じで分かるようになった。エネルギーの居場所を認め、 背中をばしっと叩いてやる。「嫉妬してんな〜〜〜」。居場所を認めないエネルギーは腐って変質する。変質するとあまり良くない。意図しない行動を無意識に出してしまうよりは、自分の一部にそういうエリアがあることを諦めて受け入れる方が、意識は現実により良く対処してくれる。

嫉妬を観察できるようになると、嫉妬がいかに恐ろしいかが分かる。本当に恐ろしい…理屈が通らない…。だから煽らないように、相手を嫉妬に焦がさないように、工夫(=つまり謙虚でいるということ)することは、自衛と共に、マナーであると共に、思いやりでもあると思う。

先日、Clubhouseを、どうHackしたいか、数名の友人たちと話し合った。

その中で「ゆるしあうために使うのはどうか」という意見が出た。

SNSでは、いままで、大小さまざまなあやまちが、糾弾されてきた。糾弾すれば、同調する人たちから、大量の「いいね」がもらえる。
「いいね」の仕組みに、人間のほうが最適化されて、糾弾ばかりするようになってしまったのかもしれない。
(略)
ゆるしのSNS。ゆるしのプラットフォーム。

季刊誌『住む。』77号 「いつかここにあるもの」文:並川 進

嫉妬に焦がれても、もやもやを抱えていても、明日を生きるために「何から希望を得るか」、それがそれぞれの人たちの美しさを作っているような気がする。とりあえず立ち上がり、おそらく必ずやってくる明日のために、不要なものを捨て、埃を拭いて部屋を整える、明日以降の自分のために。

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Coldplay X BTS Inside 'My Universe' Documentaryより

「My Universe」のドキュメンタリーの超個人的ハイライト、ジンくんの歌を聞いたPdoggさんが「ヨンシュム チョン ヘワックナ、ノ」、直訳で「練習ちょっとしたんだね、君」。つまり普通はしないという意味か。

スタジオミュージシャンやポピュラーミュージックの奏者がほとんどぶっつけで収録したりレコーディングしたりするのを知っているが、練習して臨んだジンくんがこう言われてどんな心境だったか、すごく想像できる。

でも練習して応える準備の出来ている体、というのは、彼にとって希望なんじゃないか、それは彼が磨き上げて得た希望で、当たり前のことではない。彼の声を聴いて、わたしは分子の結束の固いクリスタルのような響きをイメージした。彼が曲に対して世界観を描き、フレーズの持つイメージを固め、彼なりの考えを提案できるレベルまで準備して、提示する。わたしから見てそのように見えることは、どうしてかわたしに希望を感じさせる。思わず「練習したのね君」と言っちゃう気持ち、このシーンを入れた編集者の気持ち、どれだけ愛おしい気持ちでブースに入っているジンくんを見ているだろう、それはジンくんの中にジンくんが蓄積してきたものが見えるから。確実に未来につながる希望を積み重ねられる強さ。

このシーンがあることで、このドキュメンタリーはわたしにとって20倍くらい味わい深い。

ジンくんは彼の努力が全世界に公開されてしまったことについてどう思うかな?と考えて、「…美味しいなら、いいよ」と言う気がした。

最後に。

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[BANGTAN BOMB] The 3J Butter Choreography Behind The Scenesより

3Jのビハインドで、モニターを見るジョングクくんが、モニターを見るどのジョングクくんも、プレーンな顔をしているのがとにかく印象深かった。なんか形容し難い、無垢さと言って良いのか…。これまでの彼らの10年間、他のメンバー6人が、どれだけ6様で、ジョングクという大きな容器に何を注ぎ込んでも、彼のプレーンさという一部分は何にも染まらないのだ、とでも言うような。

例えるなら、赤ちゃんの泣き声とでも言うような。可愛らしく感じるか、憎らしく感じるか、それは完全に聞く側の精神的なゆとりの度合いによっていて、赤ちゃんの泣き声はいつでも一定にプレーンなものだ。そういう質の人が一緒の空間にいると、リフレクションで自分の状態が自分で把握しやすい。不思議な質。


2年前にジンくんがラコステの帽子を被っているのを見て、わたしも帽子を買いに初めてラコステに行ったんだ、ヘッダーの写真の帽子、まだ被ってるのを見て内心狂乱したのでした。「put you first」の「first」、「背筋ブレーカー」の「breaker」。ジンくんの深い[ə]の発音が好き。


それではまた!




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