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お祭りというもの


地域のお祭り。
下の子どもは山車引き、上の子はお神輿。
下の子どもは、お友達も参加するのがわかっているから、楽しみにしていた。上の子どもは、すごく行きたくない様子。
山車やお神輿参加の申し込みは、回覧板で回ってきて、出たい人は名前を書く。私は役員だから子どもの見守りとして参加。夫も、やりたくはなさそうだけれど、見守りとして参加。

上の子は、申し込みした時点では、誰かお友達もいるかもしれないしまあいいか、くらいの感じで、お神輿をやると言ったのだろう。
それから、私たちの、気乗りしないが行くか的なスタンスを見て、自分もそうしなければならない気持ちになり、参加すると言ったのかも。

結局今日、上の子どもはお留守番になった。ごねたのだ。
最初からお神輿が嫌だったんじゃないの。どうしてあの時に行くと言ったの?と上の子に詰め寄ると、夫が、不毛な質問はやめなよと私を制した。不毛かな。何が不毛なんだろう。どこが不毛なんだろう。私はいつも不毛な部分が気になる。

心に正直になるのは、大事。嘘は、後々違う場所で腐る。場所は、親から子へ飛ぶ場合もある。
娘とのいざこざを掘っていくと、必ず自分の汚い問題にぶつかる。許せない部分がある。
娘がまんま、自分を映す鏡のように思う。

そんなこんなの末、お祭りに参加。神様もビックリだ。こんな人もお祭りに参加するんですよ!
ここに住んで、初めて紙垂(シデ)というものを家につけた。ヒラヒラしたあの白い紙。毎年、紙垂用の紙が配られるのだけれど、今までは捨てていた。昨日の夕方、とりつけて、今朝、外に出てみたら、ヒラヒラが縄ヒモの片側に寄ってしまっていた。

お神輿が大好きな人もいる。お神輿が大好きな人を見るのはいい。
ひょっとこのお面をつけた人が、お囃子に合わせて踊る。それを見た時、お祭りがあるわけも、少しだけわかった。

埋め込まれた罪悪感が、後になって浮いてきて、それを味わうような人生は送ってほしくないのに、私はそういうふうになりそうな育児をしている時がある。なぞるべき道をなぞる仕方なさのせいにして。

鈍感と敏感が混ざった娘のいびつな逞しさ。省みなきゃならないのは、自分のこと。

お祭りは終わりました。やりとげた後の高揚感はないけれど、何もなかったわけではない。

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