少女

 少女の影は、黒猫がしなやかに伸びて薄く曲線を描いているようだ。満月の出た明るい深夜に、黒猫の輪郭は仄かに輝いて際だって見える。彼は仕事疲れの溜まって潤んだ目で、暫くそこに倒れている黒猫の姿態をうっとりと眺めていた。
 それを見つけたのは、まさに彼が帰宅せんとするアパートの自室、そのドアの前だった。彼は商社に勤めている、若いながらも中堅社員の一人といったところだ。今夜は仕事が長引いたので、もう周りも静かになってしまった。だがどういうことか、帰ってくれば自室の前に黒猫が深く息をしながら眠っている。ぎくしゃく鳴るような痛みもどこかへすっ飛んで行ってしまったようだ。
 黒猫は月の光に艶めく長い黒髪を、土煙に燻された灰色の硬いコンクリートの床に投げ出していた。それに続くように、夜の闇が幾重にも交わったように黒いブレザー、鮮やかな紅色と漆黒とが交わるギンガムチェックのスカートが、黒猫の絹のような肌を覆っている。そんな制服はこの近辺では見かけないが、黒猫は中学生か高校生なのだろう。しかし学生にしては、重たい教科書や弁当箱を入れるバッグが無い。と、彼は黒猫の薄っすら石竹色に染まった指先が、何かを大事そうに抱えているのを見た。彼は黒猫の懐を覗き込んだ。それは黒猫の影になって見辛かったが、何かのケースのようである。しかしその形は、完全な四角ではない。真ん中からドレスのスカートのように丸く膨らんでいた。
 ふと、彼は――思えば最初に思うべきことだろうが――黒猫少女が何故我が家の前で寝込んでいるのか疑問に思った。何しろ、彼はこの黒猫に心当たりは全くない。親戚にも中高生程度の年齢の子はいないのだ。まず知り合い筋ということはないだろう。
 それをさて置いても、彼はこの黒猫をどうするかに頭を悩ませた。黒猫が眠っているのは、アパートの彼の部屋の入り口である。通行の邪魔になっている。退かすにしても、ただ邪険に横に放っておくのも躊躇われた。しかし、相手は中学から高校生程度の少女だ。下手に連れ込んで、騒がれたら事ではないだろうか……?
 遠くに踏切の警報機が鳴っていた。おそらくは、電車が最寄りの駅に迫っているところなのだろう。疲れと眠気で思考の蕩けかかった彼の耳には、警報の音がぼんやりと歪んで聞こえた。
 いけない、と彼は頭にこびり付いた眠気を払うように首を振る。そしてそのまま、自分の持っていたリュックサックを背負い直すと、黒猫に向き直った。
 彼は屈むと、黒猫を黒いケースごと脇に抱えた。片手で鍵をドアノブの鍵穴に突っ込み、金属の動く重たい音を確かめる。彼は歳に合わないだろう「どっこいしょ」という掛け声を挙げると、黒猫を小脇に抱えて部屋へ入った。
 部屋は窓から差す月光以外に明るいものは無かった。だが部屋の玄関には照明のスイッチがあるはずだ。彼は空いた手でそれを探って点ける。
 彼は黒猫が、照明の点いた瞬間に起きやしないかと心配したが、その必要は無いようだった。黒猫は彼の腕に抱え込まれたまま、大人しく、静かな寝息を立てている。彼は嘆息した。リビングまで辿り着くと、彼は黒猫をソファの上に横たえる。
 彼は初めて彼女の顔を見た。彼女の前髪は、眉の位置で切り揃えられて整っている。その髪や眉や睫毛は、墨を何度も塗り重ねたように瑞々しく、深夜の月光に輝いていた。うっすら紅色を感じる肌や、血のように赤い唇は化粧をしているようにも感じられた。端正な顔立ちをしている。三月の雛人形のような、顔に表情を有しない、日本人形を鑑賞している気分だ。でも、この顔の造りなら、いっそ笑顔すら要らないとすら思えた。けれども、そんな美しい彼女の顔の縦半分は、血は滲んでいないものの、ガーゼや湿布で覆われている。
 その白いものを見て、彼の心臓は小さく跳ねた。急に寒気に襲われ、自分の体温が一度や二度は下がったのではないかと感じる。
 もしかしたら、と彼の脳裏をある推測が通っていく。今でこそ、この部屋で平穏な眠りに就いているが、本当は激しい現実に身を置いている子なのではないかという推測だ。よくニュースで聞くような、親から虐待を受けているとか、学校でクラスメイト達からいじめを受けているとか。黒猫のように強くしなやかな外見の彼女は、その実、激しい現実に耐えかねて、こんな見も知らぬ人間の住処まで逃れて来たのではないかと彼は思った。
 彼の口から溜息が漏れ出る。
 だがそう思えば、この黒猫を自室へ迎え入れても良かったのかも知れない。彼はひとり首肯する。この白雪に不気味に濁った青紫色の絵の具を滲ませるような現実から逃がすことが出来たのだから。
 すると、黒猫が重く閉じられていた瞼を開けた。彼もまた驚いて目を見開く。黒猫の開かれた瞳からは、光線が発せられたのかと思ったのだ。黒猫の瞳は輝く黒曜を秘めた水晶だった。月の光を吸って凝縮したのを、彼の眼を撃ち抜かんと放出しているような。彼は背筋を冷や汗が落ちていくのを感じた。彼はそれを誤魔化そうと、強張る口元を無理矢理歪ませる。
 しかし黒猫は彼のことを視界に留めておきながら、意にも介さない様子だ。黒猫は寝起きとは思えない素早さで懐を探っている。手はすぐに奇妙な形の黒いケースに触れた。それを抱きしめると、口元を歪ませたままの彼を放ったまま、彼の部屋を駆け去った。

   *   *   *

 彼女はケースを持ったまま、アパートの階段を下り、入り口を飛び出すと、満月に輝く夜を走る。彼女の足取りは力強い。脚は柔らかく優美で、筋がばねのように伸び縮みしているのが分かる。スカートに隠れた付け根から、ローファーを履いた足の爪先に至るまで、時に緩いくの字を描いて伸びるのだ。その時に現れる滑らかな膝は、月の光りを浴びて白く輝いた。
 彼女は疾風のようにコンクリート製のアルコールに煙る街を駆け、雨で泥と流木に濁る川辺を走り、汗と涙で湿った砂を浴びる学校の脇を馳せる。その足は、電車が警報機のけたたましい音を残して走り去った後の踏切を越えたところで止まった。
 そこは並木通りに囲まれた公園だった。寂れた雰囲気があるが、しかし公園を囲う木々は道路から向こうを隠すには十分に生い茂っていた。今日の月は満月ではあったが、公園の闇は深夜の闇を一層深くしているようにも見える。
 彼女はそんな闇の中に、あくまでも冷静に足を踏み入れた。ローファーの靴底が、公園の煉瓦の舗装を高く踏み鳴らす。
 ふと、彼女の前から泥の落ちるような音がした。あまりにも大量の泥が、次々に硬い地面に叩き付けられるような音だ。児童が、晴れた日の砂場で、水と砂とで作った泥の団子を投げ合う様子が、たちどころに連想される。しかしそれが再現されているにしては、今の時間は遅過ぎた。子供が夜の砂場で戯れていることはないだろう。連想を掻き消す地響きが泥の音に続いたことも、それに裏付けを与えた。
 先程通った踏切が、また鳴り出した。今度は逆方向に向かう電車だろう。間もなく電車がこちらへやって来る音がし、それと共に公園内が電車の明かりにはっきりと照らし出された。同時に、公園内に佇む何者かの影が浮かび上がる。
彼女の目の前の公園の木々の間に、異様なものが現れた。それは、公園を囲む木々にも負けぬ巨躯を持って佇んでいる。電車の放つ光によって、それの肌が爬虫類の鱗のように反射した。しかし身体全体に付いている柔らかな脂質は、爬虫類よりも肥えた哺乳類を思わせる。それは大樹のように太い二本脚で地を踏み締め、蜥蜴に似た手で何かを持っているように見えた。更に、丸い胴体から申し訳程度に突き出た頭に付いた口元からは、硬質なものを咀嚼する音がする。
 巨大なそれが、ゆっくりと彼女のほうを向く。小さいながらも鋭い眼光を放つ目。その下にあるぎざぎざと切れ味の良さそうな歯が並んで生えた口からは、人間の細い腕が、くの字を描いて垂れていた。おそらくそれが抱えているのは、腕の持ち主の胴体だろう。丸い巨躯の足元で、血溜りを踏む音がする。口から垂れた腕の先には、手に握り締められたままの日本刀が、未だ執念深くぶら下がっていた。だがそれに感心している暇はなかった。麺を啜るように、腕は口にすぐに吸われてしまったのだ。日本刀が腕の吸われた勢いで、中空に放り出される。
 彼女はそれを合図に、手元にあったケースを開けた。冷静に、ゆっくりと取り出されたそれは、トランペットを思わせるシルエットを持ったライフルだ。正面にいる標的は、抱えた得物を啜り、咀嚼し、貪っている。彼女は標的が食事をしているのを観察しつつ、しかし悠然として、トランペットのマウスピースを標的に向けて構える。
 標的が食事を終えたのを見るや否や、彼女はライフルの引き金を引いた。攻撃開始の喇叭の代わりに放たれた銃弾の連射は、標的の巨体に鋭く突き刺さる。けれど標的はライフル弾の連射を浴びても、声ひとつ上げず、そこに立ち続けている。彼女のほうは、弾倉に入っている銃弾を全て撃ち尽くしてしまっていた。足元に置いたケースに向かってしゃがみ、新たな弾倉を取り出す。だが先程と同じくゆっくりと構えてはいられなかった。標的は目の前にいる彼女を、新しい供物、もしくは排除すべき敵と見做したのだろう。彼女に向かって突進してきた。彼女は素早く給弾を済ませ、迎撃の構えを取る――が、しかし遅かったようだ。標的に腹部を殴り上げられ、彼女は背後に吹っ飛ぶ。数メートル後ろにあった木立に背中を叩き付ける。彼女は殴り上げられた腹部を押さえた。だがそうしているわけにはいかなかった。彼女は手元を見、トランペット形のライフルを無事に持っているのを確認する。すぐさま、彼女はライフルを構え直し、正面に立つ標的に向かって再び銃弾を浴びせた。標的はそれを顔面に喰らって怯んだようだった。低くあぶくを吹くように唸る。
 一方で、彼女も手元のライフルを見やった。もう銃弾の残っていない弾倉と、先程まで立っていた場所に取り残していたケースを見比べる。給弾するには彼女とケースの距離は開きがあった。何よりも、標的が間に立ち塞がっている。深い吐息を漏らす。
 ふと、彼女の視界の端で何かが光ったのが見えた。標的が喰っていた腕が持っていた日本刀だ。日本刀は舗装の上に落ち、次の使い手を待つように月に照らされている。彼女は抱えていたライフルを静かに足元に置いた。標的を見る。標的は銃撃を喰らった顔を、痛いのか痒いのか、酷く引っ掻きまくっている。
 今ならきっと行けると判断したのだろう、彼女は標的を警戒しつつ、日本刀の元へ駆け出した。標的が、顔に構うのを止めて、彼女を睨むのが見えた。すぐさま彼女を追う標的。彼女は日本刀を拾うとしっかりと柄を掴んだ。標的が彼女の頭目掛けて拳を振り下ろす。彼女は刃を振り上げて、振り下ろされる標的の腕を狙った。二つ目の月のように光る刃と恐怖を纏う腕とが交差し――標的の太い腕が、彼女の後ろへ飛んでいった。それと同じに、標的の丸い身体も、勢い余ってよろける。彼女は刃を翻し、標的の首元に刺し入れた。
 巨大なそれは最早動かない。彼女は暫くの間、月光に照らされながら、そこに立ち尽くしていた。

   *   *   *

 気が付いた時には空は青く、橙色の太陽が白く照らしていた。近くに雀のくすぐったい鳴き声が聞こえる。正面にあるはずのソファに目を落とす。誰も座っていない、温もりの失われ空っぽになったそれを見て、彼は溜息をついた。座面に手を滑らせる。彼は肩を落としながら、やっと着替えに立った。

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