Yoga Recollections 1959-1984 (03)
懐かしき我が家
用賀の家とそれに纏わる思い出をまた綴ることに。備忘録とは言っても書いたなりすぐ忘れるし、性懲りもなくだ。静岡県沼津市から東京都世田谷区用賀に越してきたのは昭和34年(1959年)3月。両親と妹とこの時点で家族は4人。後に次妹、弟が生れ、祖母祖父の順に迷い込んで最大8人に。のべ5匹の猫…の話は別のときにしよう。私が4歳になる8ヵ月前のことで転居は結構な事件なのにそれにまつわる記憶はない。幼児だから仕方はないとは思うが、もっと古い沼津時代のことなら結構覚えている。三島のデパートで風船を貰ったことや香貫山の山頂まで金柑の樹をたくさん見たこと、狩野川台風のとき近所の家が流された衝撃的な映像だって覚えている。隣の農家に卵を貰いに行ったり。父の勤務する市立沼津高校が甲子園行きを決めた予選決勝は応援席にいて、ヌガーみたいな菓子を手に取ったことも…これはまだ二歳の時だ。何の自慢にもならないね。もしかすると心理学者の言う構成的記憶とかで、後になって親の会話や写真から形成された可能性もある。とにかく引越しの道中とか、家具の運び入れとかは覚えていない。
住居は木造の二軒続きの都営住宅で、古ぼけて手狭な、いま風な言い方では3DKってところか。狭いながらも何とか工夫して愉しんだ、と言っていいかな。「こういうのハモニカ長屋って言うのよ」と母が後になって教えてくれた。熊さん八さんのいる粗忽長屋じゃないが、似たような人は回りに結構いた。タクシーの運転手、鋳掛屋、廃品回収業者、警察官、大工、レンズ製造家、ホテルマンなど色々な人が住んでいたし、仕事につかず昼間に酒を飲んでいる人もいたけど、会社勤めのサラリーマンは余り見かけなかった。両親は厳密にはサラリーマンだが当人たちは教師は別の種族だと信じていた。そもそも私が沼津で生まれた時の住処は父の下宿で、結婚後母が転がりこんでいたと聞く。長屋でも結構な話だ。急な引越しですぐに家が見つからず困っていたら、母方の伯父が前に抽選で当てて祖父と住んでいた都営住宅を譲ってもらうことになった。まだ焼け跡に建てた家がそのまま残っていた昭和30年代の住宅事情は決して良いものでなく、賃貸アパートも少なかったので運が良かった。父の実家は深川母は小金井で、いずれも20年3月の東京大空襲で焼失していたので頼るすべはなかった。小金井の家で育った母は小学校の時に通学路で和装にマントの不審者に出会い一度話しかけられたことがあると聞いた。祖父が心配で警察に相談したらその不審者はなんと太宰治であった。サイン貰っておくんだった、と母は惜しんでいた。
用賀の家の裏の壁続きのお隣りは安川さんで、同い年のチカ子ちゃんがいて、更に裏の弘子ちゃんと庭でママゴトをした。椿の葉っぱがお金。ヤツデの実がご飯。おかずは何故かアリ地獄。蛋白源とかじゃなくて、未舗装の路地にアリ地獄のすり鉢状の巣があったからだろうね。虫愛ずる姫君たち。二人は母と祖母役で私は夫ではなく何故か子供役。女性の方が成長が速いのだろう。弘子ちゃんとは14年後に駒場祭で再会した。大学正門で同人誌「河」を五百円で売っていたら最初に買ってくれて、あっ!と気づいた。「ここの学生なんだ」と感心してくれたようだが、小説の方は何も言わず。
わが住処にはふつうの玄関があった。わずかな間だけだが。硝子引き戸の玄関で門との間には山茶花と木蓮が植えられ、原動機付自転車があった。オートバイのことじゃない。ガソリン燃料のモーターをつけて自転車を改造したもので、父は成城学園高校までこれで通勤していた。父が沼津時代に無免許で走っていたら巡査がやって来てこのままじゃまずいからとわざわざ免許証を作って家まで届けてくれた。親切なことだ。今じゃ考えられない話だが、これは本人の弁。得体の知れない魅力と人懐っこさがあるためか、父は困るといつも誰か助けてくれる人が現れた。6歳の時に本物のオートバイになり家族6名全員(母が後部座席で両親とも腹と背に子供を負い抱えた)を乗せて近くの砧温泉に行ったときも警官に呼びとめられたけれど、違反にはならず「一人くらい降ろしてくれますか」で許された。12歳の時のマツダのファミリアが最初の自家用車。あちこちドライブした思い出はまたいつか。
アンネの隠れ家のごとし
私が小学校にあがると、前庭に建て増したため玄関はなくなり6畳ほどの洋間に変貌した。向かいの山下さんにお願いしたと聞く。器用な人で素人とは思えないでき映えだった。井山家ではこの洋間のことを「玄関」と呼んでいたが、他人には理解して貰えなかっただろうね。「玄関」は直接通りに接する一枚戸の洋扉がかろうじて玄関らしき体裁をもち、半畳のスペースに6人分の靴が置かれ、据付の戸棚に道具箱にテレピン油や靴墨があった。不意の訪問客や友達が立ち寄ったときなどは、このスペースを足場に洋間に腰掛けて貰って応接したこともある。「玄関」は実に多機能の部屋で、ソファやステレオがあって客間の役割も果たしていたし、母が近隣の中学生に英語を教える教室でもあった。夜は父母の寝室に様変わりし、休日には父が同僚や学生を招いて雀荘に変貌した。
便所(勿論汲み取り式、いわゆるドボンの)の入口を隠すように木製洋ダンスが置かれ、左に折れると台所、まっすぐ進むと3畳の和室。その和室の先に4畳半、左手に6畳がある。そう、廊下のない家。田の字に部屋が並ぶ。旧玄関の位置にある洋ダンスには鏡が据え付けられていて、我が家で唯一自分の姿を見る道具であった。ということは風呂場にも洗面所も鏡はなかったことになる。ラカンの言う鏡像段階は、遅ればせながら4歳のとき不意に訪れた。指を鼻のところにもっていき、おそるおそる「僕?」と自問した。違う!こんなんじゃないと独り言。この洋ダンスはケストナーの童話「5月35日」に登場する異世界への扉のようにどこか神秘的な一面はあったものの、実質的には父母の布団をしまう押入れとして機能していた。
台所の記憶
「玄関」の入って左隣の台所は3畳ほどのスペース。ごく初期にはテーブルがありここで食事をした記憶がかすかにあるが、その後単なる物置台に変貌した。食事はもっぱら居間兼寝室の六畳間で。戸棚があったが食品は大抵その日に消費してしまうので、トースターや食器が置かれていて、中でもパーコレーター(後にサイフォン)が目立っていた。「サイフォンの原理は、古代ギリシアから知られてたんだ」と説明しながら、父は豆から珈琲を淹れてくれた。まだ自家焙煎店のない頃、ユーバンなど輸入品だったが、そこそこの味を幼少の頃から堪能できた。という訳でインスタント珈琲は買わなかった。道路側に窓のついた流しとガス台がある。最初は井戸水をポンプで汲んでいたし、流しの右側の冷蔵庫は最初は電気のではなく氷を容れる木箱だった。氷屋からブロック氷を買ってきて入れた。中型サイズの電気冷蔵庫が入ったのは小3の頃か。NEC製のもので、学校から帰ると必ず開けたものだ。というのも、母は仕事で遅いため、バナナやサンドイッチを入れておいてくれて、必ずその下に手紙が置かれていたからだ。「もう少し待っててね、お菓子まだどこかにあるよ!」。子供たち家中を探索してはおやつの第二弾と手紙を見つけた。冷蔵庫の白亜の扉はやがて汚れが目立つようになり、クレンザーで磨くという発想のないわが家では、汚れ隠しにかシールをべたべた貼った。狼少年ケンや鉄腕アトム。アトムのシールは明治製菓マーブルチョコレートに入っていた。そうそう、マーブルチョコの当時のCM嬢は上原ゆかりで、後に通う青山高校では1年後輩になった。気を遣ってたのか、テレビのことはふれなかったが、聞けば良かった。シール手に入らないかって。
次男正彦のお産で母が関東中央病院に入院していた昭和36年夏だけ、この炊事場で父が腕を奮った。「サッポロ一番」にたっぷりと業務用バターをふるまった特製ラーメン。これしかない。後にも先にも父が料理した唯一の思い出。その時以外は奥沢や緑ヶ丘、後には砧中学校の非常勤講師で英語を教えていた母が、夕方遅くなってから帰り台所仕事をした。母のレパートリーは決して多くはなかったが、どれも子供の好きなものだった。料理は揚げ物ばかりで、石川精肉店で薄切りの豚肉を買ってきてカツにするか、野菜の天婦羅。残った油でドーナツを揚げてくれたけど、なかなか穴の開いたのはできなかった。あの穴の意味をいつも考えていた。パンの耳を揚げて砂糖をまぶして食べたこともある。これが普通と思っていたけどそうではないようだ。でも何と言っても自家製コロッケが嬉しかった。できあがりが待てず料理を眺めていて一人暮らしになってから自分で作ってみたけど、あの時よりも感激しなかった。
風呂場
台所から風呂場に行くようになっている。風呂は木桶に釜のついた当時は一般的なもので、炭屋の若松屋さんに配達して貰った薪と石炭に古新聞紙を燃やして火をつけ湯を沸かした。さてこの炭屋なるもの、思えば不思議だ。よろず屋としか言いようがない。燃料のほかに米屋もやっていて御米を届けてくれたし、子どもたちには嬉しいプラッシーという果汁成分が限りなく低いがそこそこオレンジの味のするジュースも配達した。調べたら実はビタミンC配合が売りのプラッシーは、わが家が越してきた昭和33年に武田薬品から米穀店を通して販売され、昨年2021年製造中止と分かった。果汁の入ったジュースと言えばバヤリースくらいの時代でそれも20%あれば良い方で、大抵は無果汁の粉ジュースを水に溶かして飲んでいた。昭和41年になると若松屋さんは「レコードも扱うようになりました」と挨拶に来た。変わりゆく時代の波に翻弄されていたのだと今なら分かる。おかげでビートルズのLP「サージェントペパーズ」「ホワイトアルバム」は若松屋さんに届けて貰った。それまでの「ラバーソウル」や「リヴォルヴァ―」やシングル盤は千歳船橋か成城学園のレコード屋で並んで買ったのでそれを思えば楽になった。
風呂の話だった。小4になると風呂焚きは私の仕事になっていた。火をつけることにはえも言われぬ快感がある。宮本輝の「泥の河」で舟に住んでいる少年が沢蟹に火をつけて燃やす悲しいシーンがあるけれど、深い共感が呼び覚まされた。火はときに人を慰む。放火はもちろんしないけど。シャワーがない頃だから、あがり湯は釜の上部に浸かり湯とは別にしつらえてあってそれを使う。親は「おかゆ」と呼んでいて、何故お粥なのかと訝しく思ってたが漢字で書くと「陸湯」となる。風呂に浸かっている時間は独りになれる貴重なひとときであった。人口密度の高い家なので。いつからかキューピー人形があり、それでよく遊んでいた。どう遊ぶかと言うと、即席でキューピーが主人公の物語をつくり、ナレーションをしながら戦闘シーンで終わる。筋立てはサンダーバード、ナショナルキッド、七色仮面と似ていた。私の独り言を聞いた上の妹が「お兄ちゃん、おかしくなった!」と心配してた。
後年この家から経堂にある公務員宿舎に移っていた伯父がまた転居することになり、プロパン用の風呂桶を運んでくれた。おかげで風呂焚きの仕事はなくなった。ところが移動したせいかこの桶はよく漏った。そのため父はセメントで穴をふさいだ。桶底のざらざらした感触をいまでも覚えている。風呂場と台所の境に洗濯機が置いてあった。当時のものは一槽式で脱水機は付属しておらず、ローラを回転して洗濯物を絞った。アメリカでも似たような時代で、ポパイがこのローラにかけられぺっちゃんこになるシーンがあったから、脱水のこの作業を子どもは喜んでやった。洗い場には簀の子があって、祖母は河に洗濯に行かないで盥と洗濯板で洗い物をしていた。
6畳の居間は人口過密
居間兼寝室で実質的な食堂だった6畳間に話題を移そう。この居間に置かれた家具の変遷をたどっていくと、我が家の複雑な寝室構造が鮮明になってゆく。小学校にあがって新学期早々に同級の門屋さんからクレヨンを忘れたことを詰られて、泣いて帰宅しそのまま不登校になったことがある。新任の斎藤幹夫先生が自転車に乗って汗だくでやってきてくれて、ようやく心を開いて元通りの生活になるのだが、この突然の先生の訪問のとき、私は奥の4畳半にあった二段ベッドの上段でふて寝していた。ということは、この時点では6歳の私と4歳の妹、玲子は4畳半のベッドを寝床に使っていたことになる。「玄関」の建て増しが完成するまでは、下の妹の光映と乳児の正彦は父母と一緒に居間で寝ていたようだ。居間にテレビが来たのがいつだったか定かではないが、エースコックがCМの「鉄腕アトム」や「まぼろし探偵」「少年ジェット」そして朝の登校時の「七色仮面」などちゃんと家で見た記憶があるから、かなり早い時期に居間の押入れ側にテレビが鎮座していたことは確かである。それまでは隣の馬場さんが電気屋をしていて、大相撲やプロレスを街頭で観戦したこともあった。当時はテレビのない家庭は多く、このストリートヴューは日常だ。食卓を出して夕食をとりながら一家団欒でテレビを見ていた、という点では高度成長期の標準的な家庭でもあった。
6歳からピアノを習っていた。最初は紙の鍵盤で練習し、古びた足踏式のオルガンを貰ってきてくれたので暫く使っていたけれど、とうとう念願のカワイ製アップライトピアノがきた。家計を考えればかなり無理をしたはずだ。車を買える値段だったらしい。それに狭い家なのに。今はとても感謝している。一生の楽しみを親は与えてくれた。他にもたくさんあるけど。最初は3畳間に置かれていたが前に書いた「騒音への馬場さん怒号事件」が発生し、悪いのは私だったけど、それがきっかけで6畳の居間に移されることに。台所側に響板を向けて置いたが、これでかなり手狭になったろう。夕食時にすわる場所がなく、私がピアノの椅子に腰かけ蓋を食卓がわりにして食事をしたこともあった。さらに追い打ちをかけるように、二台目の二段ベッドがやってくる。この時点で残余のスペースは実質4畳半だ。先に来ていた母方の祖母とく婆さんに加えて、祖父で日本画家の三浦廣洋(これは雅号)が一時同居することとなったためだ。この頃はいったいどのように寝ていたのだろうか。4畳半の二段ベッドの上段に玲子、下段に私で、これは前に書いた通り。居間の6畳の新二段ベッドは上段に光映で下段に祖父だ。父母は洋室の「玄関」で寝たことは覚えているが、祖母と末っ子の正彦はどこに寝ていたのか記憶が定かでない。一時期、正彦は押入れで寝ていたこともある。ということは祖母は3畳間か?とにかく十坪ほどのスペースにさながらアンネの隠れ家のように8人が棲息していたのだ。
ある時母はバス通り向いの酒屋丁店から大量の段ボールを運んでもらってきた。それに色紙を貼っていったい何を作ったのだと思う?「特大の積み木だよ!」狂喜した四人は私の監督のもと、海賊船、装甲車、シンデレラ城…似ていないといころは想像力で補いつつ、毎日空想の遊びに興じた。興に乗りすぎて片づけるのが惜しくなり、片づけないとご飯食べられないよ、と言われて渋々片づけたものだ。でも、いったいどこに片づけたのか? 思い出さないと。置く場所はどこだったのか。
庭がチロの部屋に変貌
庭について書こう。風呂場の道路の反対側に6畳と隣接して2坪ほどの庭があった。だが庭については冒頭に書いたママゴトの記憶と、クレヨン事件で登校後すぐに引き返してきた時の記憶しかない。あの時は確かに庭から入った。窓越しに父と母が何か話している。うん?これはおかしな話だ。父も授業をサボって帰宅していたのか?冗談でなくてありうる話だ。だいぶ後になって父の同僚となった友人の証言では「井山先生は会議が嫌いだったから僕は先に帰るって、よく会議室から出て行っちゃう」ことになる。でも、かなり早い時期に庭は消失した。代わりに第二の建て増しがあって「チロの部屋」に変貌した。チロとは最初の飼猫の名前だ。長らく信州上林温泉にある広業寺に管理人がわりに住んでいた祖母が帰京し、暫くは富山化学の社員寮に賄婦として住込みをした後、用賀で同居するようになっていた。ややこしい事情があってとく婆さんは、親子ほどの年の差のある祖父三浦廣洋の三番目の妻に迎え入れられた後、若くして母を産んだが、祖父の画業に差しさわりがあったらしく(いや本当の理由はよく分からない)離縁され旧姓の秋本とくを名乗っていた。とく婆さんはよく捨猫を拾っては連れてきた。その第一号がチロだった。
別に猫のために建て増しをしたわけではない。ただそこしか居場所がなかったし、このチロの部屋は物干し部屋でもあり、荷物置き場でもあり、足踏みオルガンが置かれた場所だった。細長い机があって子どもたちはスリッパをラケットにして卓球をした。ここが先に述べた特大積み木の置き場だったのだと思われる。建増し部分は摺戸だったため外からは鍵をかけられない。今思うに不在のときは泥棒はいつでも入れたと思う。もっとも高価なものはピアノしかなく重いし、何も盗むものはなかったろう。風呂場の煙突は細くてサンタクロースが入れないと中2の時まではサンタを信じて心配したが、父は「チロの部屋が空いているから大丈夫だよ」と安心させてくれたし、実際毎年贈物はちゃんと届いた。ということは寝ている時も内鍵をかけなかったということ。
食べて、遊んで、寝るには何とかなった用賀の家。どこで勉強したのだろうか。よくミカン箱で勉強したという傑物の話を聞く。家は籾殻の中にリンゴを詰めた木箱は毎年長野から送って貰っていてチロの部屋にあったが机には使わなかった。勉強机は別にあり3畳と4畳半に一つずつ。あったにはあったけど、四人同時には使えないし、勉強は学校でするものと言われていたからか、家で勉強した記憶は余りない。するにしても畳の上で寝転がってしたり、あるいは食卓で。砧図書館や公民館、小学校の時は高校にある父の研究室で宿題をやることもあった。そうだ、思い出した!高校に進学するとさすがに「お兄ちゃんには必要だ」ということで「玄関」と3畳の間の狭いスペースにライティングデスクを買って貰った。使わない時は机を片づければ本棚になって通行を妨げないものを。
話は尽きないがそろそろ別の話題に移りたくなったので、それはまたの機会ということで、今は筆を擱く。こうして思い出してみると、体が小さかったにせよ、きっと窮屈で、家具も何もかも足りないものだらけの家だったけれど、人生でいちばん幸せだった、と思う。ほんのひとときでも幸せだった過去があれば、どんな辛いことも耐えられる、とある時父は感慨深げに言っていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?