「親ガチャ」と教育
今年の大学入学共通テスト「倫理」の第4問において、「親ガチャ」問題が取り上げられていると話題になっていた。私は、この時はじめて「親ガチャ」という言葉を知ったわけだが、定義を調べるまでもなく、その意味するところが伝わってくるあたり、ネットのネーミングセンスには脱帽せざるを得ない。一応、Wikipediaの定義を確認しておこう。
GさんとHさんの会話から始まる第4問はGさんの「すごい豪邸・・・、こんな家に生まれた子どもは運がいいね。不平等だな。」という印象に残る一言から始まる。そして、格差と平等に関する2人の対話が展開される。この問題を非難する人の主張は、「このようなセンシティブな問題を、まだ年端もいかぬ高校生に提示すべきではない」といったところだろうか。このトピックに対して社会がどう反応を示すかというのも面白い論点ではあるが、その深堀りは割愛する。
私が着目したいのは、同じくGさんの次の一言である。(大学入試の問題においては、設問に繋げるために、稀に、鋭敏な知性を示す高校生が登場する。)
Gさんの上記発言においては、「インセンティブ・ディバイド」(意欲格差)や「学習資本」といった言葉でもって理解されている問題が提示されている。今回は、このインセンティブ・ディバイドの問題を検討したい。
所有権・自由・平等
現代社会に生きる我々は、「個人」の主体性を前提とし、その個人が努力して入手したものは、その個人に帰属すべきだという「共通信念」を持っている。そして、この共通信念が「所有権」を裏で支えている。例えば、Aさんが寒さを凌ぐために薪を作ったとしよう。その作った薪を、Aさん本人が使用できず、①家族、②集落、③都市、④国家などに収奪された場合、Aさんは納得できるだろうか。自分がAさんだったとして、躊躇なく、抵抗なく、①~④に薪を提供できるだろうか。
一方、そもそもその個人の「努力」も、社会的に構築されたものであり、言い換えると、努力出来るか否かそれ自体が、「生まれ」や「環境」に依存すると見ることも出来る。例えば、重度の障がいを持って生まれたBさんは努力する機会を剥奪されている。自分自身で何かを生み出すことは非常に難しい。そんなBさんがその生を維持するためには、誰かの努力の結果(例えば、Aさんの薪)をBさんに提供するシステムが必要となる。そのシステムが税金だったり、家族だったり、互助組織だったりするわけだ。となると、努力の結果の全てを当該個人に帰属させることは、社会正義に照らして正当化できるだろうか?
近代社会は、「自由」と「平等」をその理念としてきた。しかし、自由な経済活動は結果として「格差」を生み、平等を損なう。仮に、生まれた段階における諸条件がほとんど同じであったなら、自由な経済活動の結果を、個人は受け入れることが出来るだろう(受け入れるべきであろう)。しかし、現実はそうはなっていない。親の家計年収、親の資産、親の階層、親の遺伝子そういった諸条件により、スタートラインに大きな開きがある。自由と平等を両立させることは、至難の業であり、近代社会の永遠の課題と言える。
社会学者が明らかにしたこと
社会学者は、「階級(階層)は如何に再生産されるか」という問題に長年、取り組んできた。有名なのは、フランスの社会学者ピエール・ブルデューの仕事であり、上流階級が、「文化資本」を駆使し、階級の再生産を実現するロジックを明らかにした。一方、ポール・ウィリスは『ハマータウンの野郎ども』において、労働者階級の子どもたちが如何にして、労働者階級の文化に適応し、その下層文化を再生産してしまうかを明らかにした。
ここで重要なことは、これら社会学者の仕事が、(明言しているか否かは別にして)、「一般に個人の自由意志に属すると思われている"努力"それ自体が、社会的に構築されたものに過ぎず、それゆえ、努力ができず下層に留まる人々を、その個人の責任に帰すことは出来ない」という事実を詳らかにしたところだろう。
例えば、家計年収が2,000万円を超える家の子どもは通塾できるが、500万円に満たない家の子どもは、通塾できず、それゆえ、学歴・就職先において差が開き、階層が再生産される。このロジックは分かりやすいし、それへの対策・政策は見えやすい。
しかし、上位階層の家に生まれた子どもは、努力したら努力した分だけ経済的に成功できるという実例(両親)が目の前におり、それゆえ、「努力すること」の価値を理解している。一方、下位階層の子どもは、努力することの価値を知らず、努力の仕方を知らず、結果として、階層が再生産されてしまう。これがインセンティブ・ディバイドと呼ばれる事態である。
例えば、日本においては、平成に入ってから土曜日の授業を減らす動きが始まり、2002年に正式に学校週5日制が導入された。学校の拘束時間が減少したことによって、通塾出来る生徒とそうでない生徒との学力差、自宅でも勉強ができる生徒とそうでない生徒との学力差は拡大した。そして、自宅でも勉強ができる生徒とそうでない生徒というのは、親の階層と正の相関を示すため、格差の再生産に寄与してしまったと言われる。
努力しない人を救済すべきか?
これはHさんのぼやきであり、少なくないわれわれ日本人の声であろう(働かない生活保護受給者を、なぜ私たちが養わねばならないのかという思い!)。ただ、格差が広がりすぎると、「自由な競争」という前提、それ自体が覆えってしまい、結果的に社会から自由が失われてしまうという事態も視野に入れるべきであろう。だから、相続税や累進課税制度により格差を是正することが正当化されるのである。
とは言え、結局のところ、正当性の問題は、社会の構成員であるわれわれが、どんな社会を望み、どんな政策に納得するかという問題に尽きる。だから、「努力しない人を救済すべきか?」という問いに正解があるわけではない。努力の仕方を知らない人、努力が出来ない人も、人生を楽しむことが出来る社会を用意すべか?そのために、われわれは一定の代償を支払うべきか?この問いに我々がどう応えるかにかかっている。
親ガチャと教育
「親の世帯年収と子どもの学力は正の相関を示す」(≒親ガチャ)これは厳然たる事実である。この事実を明言することを嫌う日本人は多い。しかし、この事実を直視しないと、それを是正(修正)する方途も見失いかねないと私は考えている。
この問題を考える上で、大事なことは、確かに親が子どもに与える影響は無視できないものがあるが、個人を形成する要素は、親だけではないし、まして学校だけでもないという事実であろう。一生涯の中で、出会うあらゆる他者(自然を含む)が、その個人に様々な影響を与え、その個人を変容させる。
確かに、ヤンキーの子どもはヤンキーの子どもとつるみ、金持ちの子どもは金持ちの子どもとつるむ。ヤンキーは勉強をせず、金持ちの子どもは塾に通い勉強をする。そうやって階層は固定化され、再生産される。しかし、そうではない偶然、そうではない出会いというのもまた無数に転がっている。そういった接触を意識的に用意すること、それは「学校教育」に限らず、教育が果たすべき一つの役割であろう。
インセンティブ・ディバイドについて論じた苅谷剛彦氏の『学力と階層』の解説で内田樹氏は唐突に「私はとりあえず苅谷さんの本を読んで「私塾を作ろう」と決意した」と書いている。彼の真意は説明されないが、おそらくそういうことを言いたかったのではないだろうかと思う。
坂口安吾は「親がなくても子は育つ」を反転させ、「親があっても、子は育つ」と言った。その言辞が含意することを嚙み締めつつ、今日のところはここまでとしたい。
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