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高校時代の憧れの人


大寒と言えば、日本では一年中で一番寒いとされています。今年の大寒も名に違わず、ちんちんと冷え込んで、この冬一番の寒さとなりました。よし乃は、外出もままならないコロナ禍のせいで、炬燵に足を入れ、枕をあてがって、肩にはショールをかけ、眠りに落ちてしまっていました。


よし乃は、いつの間にか得体のしれない家に迷い込んでいました。その家は日本旅館のようで、部屋が複雑に入り組んでいるのが手に取るようにわかります。先に玄関から入っていった同窓会の友達の一団は、どこかに消えてしまいました。よし乃は、その同級生に追いつこうと、まず「ごめんください」と奥に向かって声をかけたのですが、誰も出て来ないのです。広い玄関には、大きな虎の置物が置かれ、子供の背丈ほどありそうな九谷焼の花瓶に、松や竹や梅、水仙や南天などが盛りだくさんに活けられています。藍染めの暖簾の奥には廊下が見えます。そこから女中さんが出てくるはずなのですが、いくら声をかけても、誰も出て来ないのです。
困惑したよし乃は、厨房に近いと思われる裏口玄関の方に回りました。裏玄関の板間はよく磨き上げられて黒光りがしていました。
「ごめん下さい」とまたよし乃は声をかけました。でも、誰も出て来てくれません。かすかにどこからか、スリッパで歩く二、三人の足音が聞こえるのみです。
さっきまで一団となって山道を歩いて来た同窓生がいつのまにかどこかに消えてしまったのです。この家の中に吸い込まれて行ったに違いありません。この辺りに家は一軒しかないのですから。
いくら声をかけても誰も出て来てくれないので、よし乃は靴を脱いでおずおずと上に上がって行きました。
よし乃はまず目の前の広い廊下を恐る恐るまっすぐに進んで行きました。すると左手に厨房がありました。よし乃は、暖簾の間から中を覗きました。中は、ぬくもりは残っているものの、人っ子一人いません。まだ片付いていないお膳が積み重なっています。
「もしもし、誰かいませんか」とよし乃は誰もいない厨房に呼びかけました。よし乃の不安は高まっていきます。よし乃はのれんから離れ、周りをきょろきょろ見渡しました。廊下を挟んで目の前は厠、まっすぐ行けば虎の置物があった玄関に出ます。その手前を右に曲がってみると、階段が、狭くてよく磨き込まれた木の階段があります。よし乃はそこを上って行きました。どこからか、消えた同窓生の集団のざわざわとした話し声が聞こえてきました。
階段を上りきると、左手に障子がありました。その障子を開けると、見知らぬ中年の男女が布団を並べて寝ています。これは失礼なことだと思いながら、よし乃はその男女の布団の脇を通って次の襖をあけて外に出ました。するとまた下りの階段があります。よし乃はその階段を下りました。
階段の下には渡り廊下が真っすぐに続いています。よし乃がその簀の子の上を素足で歩いて行くと、右手の草一本生えていない庭で、四、五人の女の同級生が輪になってしゃべっていて、その中の誰かが、
「よし乃ちゃん、早く行かないと、昼ご飯はもうすぐ下げられてしまうよ」と言うのです。そう言ったかと思うと、皆は消えていなくなってしまいました。
皆が消えてしまっては、どこに昼ご飯があるのか分かりません。よし乃は仕方なく渡り廊下を歩き続けました。
廊下を渡り切って次の建物に入ると、また階段があります。よし乃が上って行くと、障子があり、それを開けると、三畳ぐらいの小部屋に浄瑠璃人形がケースに入って立っているのでした。お面のつるっとした感じや、ぞろっと下に引っ張られているような着物の着方に、幽霊が立っているのかと思い、ぞくっとしました。この人形はなんの恨みがあって、こんなところに居て、ひとを怖がらせるのだろう。そう思いながらも、よし乃はそこから立ち去ることができません。じっと見ていると、黒い目が、よし乃を慈しむように見ているように感じ始めました。よし乃は、自分を放って行った同窓生を探している張り詰めた気持ちが溶けて、ぐにゃりと畳に崩れ落ちてしまいました。数分失神したようになって、ようやく立ち上がった時、人形の両眼から赤いビームが出て、よし乃の頭を打ったのでした。
よし乃は頭がグニャグニャになったような気がして、また尻もちをついてしまいました。すると、人形の目から煙のようなものがもくもくと出てき、その煙の後ろに人影が現れたのでした。よし乃ははっと驚きました。男の人の姿でした。整ったやや面長の顔の輪郭がぼやけています。縁なしの眼鏡の奥から叡智に満ちた眼差しがよし乃をじっと見つめています。嗚呼とよし乃は溜息とも絶叫ともつかぬ不思議な声を上げました。この眼差しは、顔こそ違えよし乃を救ってくれたあのお方の優しい眼差しに他なりません。よし乃は身もだえし、そのまぼろしがハグしてくれるのを待ち構えました。しかし、煙が消えてしまうと、同時に、そのまぼろしの方も消えてなくなりました。よし乃は寂しい思いに打ちひしがれながら、何故か帯を解き、小紋の着物を脱ぎ捨て、長襦袢姿になってその部屋を出ました。
その部屋を出ると、両側に襖戸がある細い廊下がずっと続いています。いつ果てるとも知れない細い長い廊下に疲れ、よし乃は一つの襖をあけて、畳の上に力尽きて突っ伏してしまいました。それからどうなっていたのか、よし乃に意識はありません。ふッと冷たい風のようなものが背中にひっついてきた気配で、起き上がって振りむくと、猿とも雪男ともつかないぼやけた物体が立っているのでした。ひえーと言って一目散に廊下に走り出て、細い廊下を息が上がるほどの勢いで走り続けると、突き当りに煙とともに消えてしまった紳士が輪郭をぼやけさせて立っています。よし乃はその人に抱きつきました。その紳士はよし乃が抱きついた途端に泡のように消えて居なくなってしまいました。でも、よし乃は、化け物から解放されたと感じ、泣き出しました。
自分を救ってくれた人が、同窓会に来てくれない。神様に対するように感謝の念で一杯の人が、自分がいる限り来てくれない。でも、今日は別だわ、来てくれているはずよと、よし乃は思い続けています。あのお方は、名家のお嬢様を娶られた。夢を失くしたよし乃は、言い寄られるままに夫と結婚した。そして、二人も子を生した身でありながら、ある時あのお方に出会って、自分の方から誘惑し、たった一度の行為で妊娠してしまった。あのお方にそのことは打ち明けなかったにもかかわらず、あのお方は「僕にはギルト(罪の意識)と言う言葉が重くのしかかる。貴女にはそういう気持ちはないのですか。どうかこのことは忘れて下さい」と言って、以後は一度も会ってくれなかったのです。よし乃は、どうしていいか分からず、第三子を出産してしまいました。
その後、夫は家を出てしまい、残されたよし乃は、必死でパートで働きましたが、食べるお金に困るようようになり、夜は風俗で働きました。そこで病気をうつされて、やせ細っているよし乃のうわさを聞きつけ、あのお方は、病院を紹介してくれて、職も紹介してくれたのです。あのお方は、子供については何の疑いも持っていませんでした。あのお方はよし乃を助けただけで、それっきりよし乃には会いたがりませんでした。でも、あのお方の救いの手がなければ、自分はもう二度と立ち上がれないような病魔に侵され、痛みや苦しみの中をもがき続けていたと思うと、あのお方はありがたいお方なのです。よし乃はあのお方を求め続けていました。
せめて同窓会にでも出続けていれば、あのお方にお会いできるかもしれないとよし乃は思うのでした。自分にはなかったギルト(罪の意識)と言う言葉の重さが、よし乃には理解できません。あのお方は自分の子とはつゆ知らないし、よし乃もあのお方に言うつもりはないのです。としたら、たった一度肌を合わせたことに、罪の意識を感じなければならないのでしょうか。あのお方にとってはただ一度、妻を裏切り、よし乃の夫を裏切ったことが、ギルト(罪)なのでしょうか。もしも、あのお方に、あなたの子供を産んでいますと打ち明けていたなら、罪を感じるというのも妥当ですが、あのお方は何も知らないのですから、ただ一度肌を合わせたということだけでギルト(罪)なのでしょう。ああ、ギルトとか、そんなたいそうなことを思わず、会ってほしいとよし乃は思うのでした。
よし乃はまた立ち上がり、下げられそうになっている昼膳を求めて、階段を下りました。すると今度は姿の見えない同級生の男の人の声が聞こえてきます。数人がどこかにたむろして談笑しているようです。
「あいつなぁ、あいつは今年も来ないんだよ」
「あいつの奥さんの親父さんが、何か具合が悪いらしいなぁ」
「そうか、なら仕方ないなぁ。あいつは入り婿だからなぁ」
よし乃は悲しくなりました。自分だけに分かるあのお方の来られない理由。もしや自分が感情を押さえられなく、皆の前で特に親密な関係であるというような行動をあらわにしたら、皆が感づき妻に暴くかもしれない。そんな恐怖で来られないのだと思うのです。どうか来てください。今からでも、遅れてでも来てくださいと祈ると、
「来たぞ、珍しい奴が来たぞぅ」と騒ぐ声がしました。
遂にあのお方が見えたのだ、こちらにいらして下さいと祈るよし乃の心と裏腹に、あのお方の、ぼやけたような姿は、車座になっている男の人の中に入ったかと思うと、よし乃の方は見ず、「家のことでな、なかなか出てこられないのよ」と言ったかと思うと、その姿は消えてしまいました。
皆に見放されたよし乃は、赤土の山道を歩いていました。どの道が近道なのか、一生懸命考えても全然わからないのです。やがてちょろちょろと地面に張り付いたような草むらのあるわき道に出たかと思うと、なだらかに道は下って、わずかに水が流れる澄んだ小川に出たのです。よし乃はちょっと考えて、小川を飛び越えようと、長襦袢の裾を端折りました。足袋と草履は脱がずひょいと飛び越えた時、小川の冷気が内ももを撫でました。すると又あのお方とのことが懐かしく忍び寄ってくるのです。あんな神様のように優しく自分を更生させて下さったあのお方が、一度以外には自分に触れて下さらないことが、悲しくてなりません。とぼとぼと河原を歩いていると、いつの間にか小川は消えて、大木の生い茂る森の中に入ってるのでした。この道をたどって家に帰れるのだろうかと不安を抱きながら歩いていると、長襦袢だけの着物から、冷気が肌に入って来、寒ッと身ぶるいしました。そして寝返りを打つと手の中の本が滑り落ちたのです。


よし乃は起き上がり、自分に第三子がいないことを確かめました。あのお方の感じ方からすれば、あれは過ちだったのでしょう。一度だけの過ちの後、決して二度とは抱いてくれなかったあのお方のことは、まだ心のうちに埋火となって残っているのです。けれど、「ギルト(罪)ということが、貴女にはわからないのですか」と言ったあのお方の言葉の意味を、よし乃は納得できないまま年をとりました。そしてあのお方も同じように年をとりました。もうハグ以外には何もできないような年になりました。
よし乃は、いまだにあのお方の呪縛から離れられない業の深さを感じながら、炬燵を出て、決まった時間に規則正しく夕食を欲しがる夫のために、台所に立ってキャベツをきざみ始めました。


同人記
コロナ禍に揺れる世界。私もその「揺れ」と同じように、揺れています。もう二度と、コロナ以前の世界に立ち返れないのではないか、貧富の差がますます大きくなって、本当に今日のご飯も食べられない人が大勢出て、自殺を考えたりするようになるのではないかと、自分のことを含めて考えます。
『マスト』四十号がそんな中でも出せたということは慶賀に値することだと思います。皆それぞれ年をとりました。年に一回の発行ですから、四十年が経ったということです。四十三歳だった私も八十三歳になりました。創刊号に加わって、尽力を尽くしてくれた夫も亡くなって六年になります。今は八人の同人がそれぞれに頑張っています。できればこの火を絶やさないように、細々とでもいいから続けて行けたらいいなと思います。
何はともあれ、今は高らかに、
「マスト四十号おめでとう」
と、叫びましょう。      (眉山 葉子)
 


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