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享受するという才能

振り返れば小学生の頃、自分は「金持ち」と言われることをなによりも嫌った。実際には自分の両親は典型的な地方公務員であり、資本も何も持っていないから金持ちであるはずがないのだが、そういった客観的な査定が下せるようになるのはもっと先のことである。とにかく自分は何かの拍子に「金持ち」などと茶化されると、顔を真っ赤にして否定していた記憶がある。愛情についても同様であった。こちらには自分が一人っ子であるという確実な「負い目」のようなものがあって、親からひときわ大事にされていると人に思われることをことのほか恥じた。仮に自分が金持ちで並々ならぬ愛を受けていたとしても、それは得意に思うことであれど恥じることではないはずなのだが、とにかくそういう子供であった。

それから幾分広い視野を獲得した自分は、親から子に向けられる無償の愛の尊さを知り、こそばゆさといった否定的なイメージを持つことはなくなった。けれども金に関しては、今でも正体不明の「負い目」を感じてしまうことがある。自分の家は資産家では決してないが、子一人ということもあって自分を遠方の大学に送り込むのに十分なほどの蓄えはあり、奨学金は受給していない。これは非常に恵まれたこと、に現状はなっている。そうした社会の是非はともかくとして、自分が有利な立場にいることは間違いない。だが、どうも自分はそうした恵まれたことを全肯定し、それを遺憾なく利用してやろうという気概に乏しいらしい。むしろ活かすというよりは抑制し、萎縮する傾向にある。つまり自分は、自らが持つ何かを「享受する」ということを屈託なく行うことができない。

こうした事実をひときわ自覚するのは、この「享受する」という才能に恵まれた知人と話すときである。しばらく疎遠になっているが、その友人は高校のときから月に2, 3万の小遣いをもらっているということを何事もなく話していたし、「東京が好きだから」という理由から都内の大学に進学した後、さいたまに実家を持ちながら池袋での一人暮らしを始めた。首都圏に住んでいること自体を恵まれていると自覚し、負い目のように感じてしまう自分からすれば想像にも及ばないことであるが、とにかく彼女は一切の屈託もなくそれらを言って、やってのけた。それを見ていた自分が抱いたのは内容に対する嫉妬とかではなくて、「うまいこと生きてるなあ」という、与えられたものを素直に享受できる才能に対する感嘆と羨望であった。「親に許されたからそれでいい」という単純な理屈は嫌味ではなく、爽快さすら漂い、異論などあるわけがなかった。ただ、自分は何をするにしても、公平性とまではいかずとも妥当性だとか、大義名分だとか、あたかも公共事業を行うかのごとく各方面からの検討を欠かさず、ことをややこしくすることに長けているのはなぜなのだろうという感想であった。

昨今が自由主義的な競争社会であるとしたら、より適応的なのは才能を「持つもの」のほうであると思われる。常に周囲の中に自分を位置づけ、自らに謎の公平性を要求するような傾向が自らの繁栄や「成長」の助けになるとは思えない。現状、自分は確実に自らを律する方へと向かっている。男性で異性愛者で健常者なのだから、マッチョな価値観に則って自らを利する方向で動いていけばよさそうなものだが、他者を慮る義務のようなものを自らに課したりする。けれどもそれは、そう振る舞うことによって虐げられる他者がいたり、あるいは自分が何かの拍子に虐げられる物の側に回ることがあったりするからそうしているのだ、という理由で説明することもできる。別に先天的に与えられたものを享受することで人が傷つくとは考えにくいし、いまあるものを使うのに永続性を検討することは必ずしも必要とされない。なぜ享受することに引け目を感じるのか。その性向はどこからやって来たのか。「利するより律する」自分への疑問は尽きない。

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