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夏の記(下)

8月9日の早朝、自分は札幌駅にいた。今日から3日間かけて、日本海に沿って鉄道で大阪まで行くことになっている。なぜならば、鉄道に乗ることが自分の趣味だからだ。

物心ついてから、自分はJRの全線完乗を目指して鉄道に乗ってきた。いわば新規開拓が目的だから、既に乗ったことのある路線は避け、極力重複なく乗るように心がけていたわけである。しかるに今回は大阪に行くことを目的とした結果、はからずも随所で過去の自分の足跡を辿るような行程になっていた。
列車が札幌を出ると、程なくして丘陵に並ぶ団地群が見えてきた。学生の自分が幾度も鈍行列車から眺めた光景だった。青森から秋田までは、小5の夏休みに寝台特急「あけぼの」から眺めた車窓を逆再生するかのように進んだ。そのとき自分は祖母に連れられ、初めて北海道へと渡る途中であった。ブルートレインのB寝台個室で横になり、楽しみで胸が支えて眠れなかった夜のことがありありと思い出された。15年後の秋田の夜はフェーン現象で蒸し暑く、宿代わりに借りたレンタカーの荷室に横たわり眠れない夜を過ごした。

翌朝は高気圧に覆われ、荒れ模様だった高1の冬とは変わって、紺青の日本海が果てしなく広がっていた。まもなく盆休みに差し掛かろうとしていたが、新潟行の特急列車はすこぶる空いていた。並行する国道を行く車もまばらで、ときおり現れる入江の浜には海水浴客の姿がちらほらと見えた。長閑極まりない車窓だった。

すると突然、そのあまりに浮世離れした情景につけ込むかのように「こんなことをやっていていいのだろうか」という疑念が胸に押し寄せてきた。この旅行の目的のひとつは、労働の日々で塩漬けにされた頭をリセットして、自らへの眼差しを取り戻すことだったはずである。しかし蓋を開けてみれば、自分は札幌のまっさらな時間も人との面会で塗り潰すことを選んだし、鉄道での旅も側から見れば、過ぎゆく車窓に虚な目を向けているだけに過ぎなかった。忙しない日々の中に現れた11連休をこのように使うことは正しかったのだろうか。それこそ語学の勉強など「後に繋がる」ことに費やすべきだったのではないか──

新潟で乗り換えた越後線の普通列車は、平々凡々とした住宅地の狭間で発進と停止を繰り返した。おかげで、この後ろめたい気分は「貴重な休日を費やして、何が楽しくて自分は列車に乗っているのだろう」という自嘲に発展したまま続いた。この歳になっても、自分は相変わらず自分のことがよくわかっていないようだった。
気づけば民家の数はまばらになり、車窓は両脇を山地に囲まれた田園地帯という独特なものに移行しつつあった。するとにわかに「未知の土地に足を踏み入れているぞ」という感慨が立ち上ってきて、あらゆる鬱屈は上書きされた。越後線は今回の旅行で初めての未乗線区であった。新たなるものとの出会いはどうも自分の中で結構な重要性を占めているようで、そこに理屈はあまり関係ないようであった。

それから自分は予定通り旅程を消化し、石川県小松での宿泊を経て、8月11日に大阪府吹田に到着した。吹田の駅には7月付で大阪に引っ越したばかりの文学部同期であるT舘君が迎えにきてくれていた。
T舘君は自宅までの道すがら、「大阪は厚かましくてかなわんですよ」と「大阪疲れ」を隠さなかった。チリンチリンというベルが鳴ったかと思うとと、中年女性の跨った自転車が我々を掠めて坂を駆け降りて行った。それでも彼は持ち前のバイタリティで安くてうまい飲食店を開拓し、なんとか大阪暮らしのストレスを補っているとのことだった。夕食にと連れて行ってもらったガード下の中華料理屋は、その戦後を引きずったような薄汚れた外見とは裏腹に、とてもおいしかった。

それから我々はT舘君の住む公団住宅に戻り、近況についてあれこれ話をした。そのうち話題は第三者であるところの、学部の同期であるKの近況へと移った。彼は「うまく」生きるのが苦手な自分のさらに一枚上手を行く人物と目されていたが、T舘君や自分から遅れること丸2年、今年度から地元自治体であるC県I市へと就職していたのだった。
「なんだかんだ言って、彼は非常にいい選択をしたと思いますよ。実家暮らしも性に合ってるみたいだし、地元の公務員ってのは彼にあってるんじゃないですかね」とT舘君は総括した。彼はKが就職浪人中も定期的に面会し、労働者の財力を以て焼き肉などをご馳走していた。Kをよく知るからこそ、その言には説得力があった。自分はふと思い立って、「僕はどうですか」と訊いてみた。T舘君は突然の問いに面食らったかのような笑みを浮かべた。なんとなく、自分はKの時と同様に、どちらかといえば肯定的な評価が出てくるのではないかと思った。自信がないなりに、今の仕事や職場環境が最良ではないこそすれ、あながち悪くもないと感じていた。
「もったいないという気がしますね」T舘君は言った。
「なんでも相対的に考えるというその特性は、僕は才能だと思うんですよ。だからそれをもっと生かせる何かがあるんじゃないかと思ってしまうんですよね。それこそ研究職とか……」

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翌朝から、T舘君を含む大学同期4名での楽しいドライブが始まった。2泊3日で紀伊半島を巡ろうという趣旨だった。紀伊半島に来るのは実に9年ぶり、高校1年生の春休み以来だった。あのとき自分は小学生以来の鉄道仲間と、青春18きっぷを使ってやって来て、熊野本宮大社や那智大社からなる熊野三山を巡ったのだった。南紀特有のターコイズブルーの海は健在だった。初日は車で適当な浜辺を巡り、存分に海を堪能した。

翌日、宿泊場所の湯峯からほど近いということもあって、我々はまず本宮大社を訪れることにした。朝にもかかわらず、神社は参拝客で賑わっていた。敬虔な人々が深々と鳥居に一礼し、向こう側へと歩んでいった。9年前の自分はといえば、テレビで見た「正しい手水の方法」を実践することで頭がいっぱいの、健気な高校生だった。それでも、立ち止まって何かの「象徴」である鳥居に首を垂れるという行為は、何となく仰々しいというか、当時でも違和感が拭えなかった。そんな違和感と折り合いをつけるべく、高校生の自分が落し所としたのが、鳥居を通過しつつ歩みを止めることなく、しかしペコリとお辞儀をするという姿勢・態度だった。自分はそれを「ETC」と命名した。
9年後の、すなわち近代科学を信仰し、あらゆる宗教的権威を退けようとする自分は、はたして足を止めることもお辞儀をすることもなく鳥居を通過した。

「たしか真ん中は歩いちゃいけないんですよね。神様の通り道だから」とT舘君が言った。
「そうらしいっすね」と自分は言った。
「でも僕はそういう考え方を『採用』していないんで」

本当に自分が「成長」しているのか、自分にはよくわからなかった。


翌朝、旅行は突然の幕引きを迎えた。新十津川村の山中で、自分が車を脱輪させたのだった。免許取得以来144回目の運転にして初の事故らしい事故だった。あんまり人の道から外れると車も道から外れるぞということらしかった。幸い誰にも怪我はなく、我々はバスと特急列車を乗り継いで帰阪した。もちろんその運賃は自分が払った。

東京へ向かう新幹線の車中、過ぎゆく景色を眺めながら、結局何も考える暇もなく旅が終わってしまったなと思った。だいたいいつもそうなのだ。旅行前は「仕事から離れ、自らの身の上のことを見つめ直す機会」などと仰々しく思うものの、いざ旅が始まれば車窓を見るだの写真を撮るだの入場券を買うだので、自分の旅は忙しなく終わってしまう。列車の旅は常に先の行程を確認し、念頭に置いておかなければ、いとも簡単に旅程は崩壊してしまう。一度始まった旅をしっかりと輝かせるためには、立ち止まっている暇などないのである。
そこまで考えて、自分はふと、僕の目から見て「ちゃんと生きている」人々のことを考えた。自分の人生を自分ごととして見つめ、しのごの言わずにやるべきことをやるべき時にやり、信じた道を行けるあの人たちである。生を受けたことに感謝し、自らの人生を輝かせようと躍起になっている人たちである。そういった人はもしかして、旅行の途上にある自分のような姿勢で「人生」にもまた臨んでいるのだろうか──

そこまで考えて、自分は新幹線のシートに力なく体を預けた。もはや相対主義に侵され、自分の人生も他人事のようで、共感もできず、神も自らの運転の腕も信じられなくなった自分に、そのような生き方はできそうもない。けれども、たとえ自分の人生の中のごく一部でも、理屈や諦念とは無縁の領域が残っていること、差異ではなくて共通項を見出せたことが、夏休みの終わりを迎える自分の心を不思議と安らかにしていた。


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