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岩井 のぞみ 〜全盲のピアニスト〜



目を閉じてみると


 そっと目を閉じてみると、あなたはどのようなお気持ちになりますか?

 視界が遮断されたことにより、不安や恐怖を感じますか?

 聴覚が研ぎ澄まされ、時計の秒針音や水道の蛇口から滴る水の音などの普段は気にならない音が聞こえてきたりするでしょうか。

 幼き頃から目の不自由だった私の世界には、いつも美しい音楽が流れていました。

それらの音楽は、私を励まし、時に慰めとなりました。そして、喜びや生きる意味も与えてくれた大切なものでもあります。

 そのように音楽と共に生きてきた私は、現在ピアニストとして活動しております。

目を閉じることと見えなくなることの違い

 
私は、生まれたときから朝顔症候群(視神経の先天性奇形)による弱視と視野狭窄があったため、左目の視力がほとんどない状態でした。

 右目の視力は正常な状態で残されていたのですが、その視力も失うことになるのです。

 それは、追憶できないくらい前の幼少期のことです。

4歳を迎えたある日、通っていた幼稚園の男の子とオモチャの積み木の取り合いをしていました。

 すると、引っ張り合っているうちに積み木を握っていた私の手がすっぽ抜けて、見えていたほうの右目に突き刺さってしまったのです。そのときの記憶はありませんが、きっと鋭利な物だったのでしょうね。

 この事故により網膜剥離となり、右目を失明してしまいました。

 私の母は、「なぜ見えているほうの目に?どうせなら見えていないほうの左目に刺さってくれれば、視力を失わずに済んだのに・・・。」と思ったそうです。

 私は、事故直後に意識を失ってしまったようで、目が覚めたときは、手術台のベッドの上でした。

医師に「注射が良い?ガスが良い?」と聞かれたのだけは覚えていますが、次の瞬間には再び意識がなくなっていました。医師の発した内容は、手術に用いる麻酔のことだったのですね。

 それ以来、右目は義眼となり、わずかに残存していた左目のみで生活していくこととなりました。視力の悪くなっている片目だけで見るのは身体全体に過度な負担がかかるようになりました。

閉ざされたのではなく開かれた世界へ


 ピアノを習い始めたのは、この事故の後からでした。

 見えにくいからといって特別な指導方法はなかったようですが、クラシックを学ぶ上で楽譜を読むことは大切なことなので、楽譜を読めるように指導してもらっていました。そのおかげで、視力を完全に失った現在でも頭の中に楽譜を描くことができています。

ただ、目を酷使したくないという意識からか、楽譜を見ようとせずに、無意識的に耳で覚えてしまう習性がついていたようです。そのように視覚を他の機能で代償しながら、ピアノ技術やコミュニケーション手段を習得していきました。

 私の両親の方針は、「視覚障がいがあっても、社会に出たら自立してやっていかなくてはならないのだから、できることはなるべく自分でやっていく。」というものでした。

 よって、将来社会に出たときのことを想定した生活を送っていくために、盲学校でなく健常者と混合の小学校へ進学しました。

現代社会は、バリアフリー化が進んでいるといっても限界がありますし、いつでも介助者がいる訳ではありません。なので、この方針は正しかったと思っています。

 そのような中、私の目が見えないことをからかってくる人たちもいました。そのようなときは、義眼を取って相手に見せつけると、びっくりして逃げていきました(笑)

 逆に、目が見えないことを憐れんでくださるかたもいらっしゃいますが、私の場合は幼少期から目が見えづらかったこともあり、「目が見えたら・・・」と思えるほど見える世界のことを知りません。ですから、見える便利さを知らないが故に見えない不自由さも分からないところがあります。

 それに、オモチャの取り合いをした相手の子を恨んだこともありません。

子ども同士なら何かを取り合いっこするなんてあるでしょうし・・・。それに悪意などなかった訳ですから、仕方のないことだと思っています。

 私の母によると、相手のご両親が何度も謝罪をしてくださったとのことでした。何でも、ご家庭には4名のお子さんがいらっしゃったそうなので、我が子の視力を奪われることを考えると辛い気持ちを共感してくれたのでしょう。私と両親としましては、相手を責める気持ちはまったくございませんので、お相手のかたやご家族もどうかご自身を責めないでいてほしいです。

仮に悔やんだとしても、失ったものは返ってきません。考え方を変えてみれば、目が見えなくなったからこそ開かれた世界もあったのだと信じています。


母のノータッチが自立を促した!?


 就学してからの私は、見えないこと=劣っていると思われたくないという気持ちが強まり、自分でできることは頑なに自分でやるようにしていきました。母も必要最低限のことしか手助けをせずに関わりました。

何かにぶつかってしまった時には、「あなたは見えないんだから、ぶつかるのは当たり前でしょ!?」と言うくらい厳しかったです。しかし、このノータッチぶりが自立を促したのだと思います。

 中学校も健常者と同じ学級で授業を受けていましたが、体育などの他の人とペースを合わせづらい科目のみ弱視学級で個別授業を受けました。また、この頃から下垂体機能低下症による中枢性尿崩症(=ちゅうすいせいにょうほうしょう)の症状が出現し、排泄障害を併発しました。

 「この頃から目が見えないことへの劣等感を個性であると考え始められるようになっていきました。健常者との違いはありますが、そこに優劣をつけるのではなく、違いは違いとして受容するようになったのです。違いを楽しむとまではいきませんが、私には私にしか成し遂げられないことがある。私だからこそ奏でられる音楽がある。そう感じていました。このことは、皮肉にも障がいや難病を抱えたことにより気付かされたのかもしれませんね。」

なにを見てみたい?


 以前、ある記者さんから「目が見えたら、なにを見てみたいですか?」という質問を受けたことがありました。

 私は、これに対して「自分のMRIの脳画像を見てみたい」と答えました。

 この回答に記者さんは驚かれていました。きっと「家族や友人のお顔が見たい」「映画や演劇を見てみたい」といった答えが返ってくると思ったのでしょう。

健常者のかたからしたら、意外というか理解し難いことかもしれませんが、私にもお話している相手の表情や心境って分かるものなのです。

 仮に、笑っている人がいたとします。

 みなさんなら、その人が笑っていることをどのようにして理解するでしょうか?

目が見える人であったら、目の輝きや目尻のシワなどで相手の心情を察するかと思います。でも、実際は瞳の奥まで見えている訳ではないでしょうし、目尻のシワの数を数えている訳でもないかと思います。笑い声や呼吸、相手の発散する空気などからその人の気持ちを理解していたりしないでしょうか?

 なので、相手が笑っているかどうかというのは、視覚的に得られる情報以外でも十分に分かるものなのです。

 その後、桐朋学園大学音楽学部を卒業し、テキサス・クリスチャン大学音楽学部の大学院に進学するために渡米することになりました。しかし、アメリカへ飛び立つ前に、わずかに残存していた左目の視力も失い、全盲となってしまったのです。どこかで覚悟はしていましたが、完全に失明するとなると、やはりショックでしたね。

 いざ渡米してみると、アメリカでの暮らしは日本とまったく異なるものでした。

 日本にいるときは周りの人が助けてくれましたが、アメリカでは自分の思っていることを言葉に発して伝えないと理解してもらえません。これは、言葉の壁というよりは文化的な違いかと思います。あちらでは、日本のように何となく空気を読みながら助け合うということはないので、助けてほしい時は「助けてください」と声を上げるようになりました。 

ゼロから広がる可能性


また、全盲になってからの音楽の習練は、点字楽譜を使わず、耳を通してのみとなりました。友人や周りのピアニストの人たちに右手と左手で奏でる音を別々に録音してもらって覚えるようにしていました。その上で、楽譜に書かれている音の強弱などを教示してもらいました。

 視力の残存していた時期に、拡大コピーした楽譜をルーペで少しずつ読んでいた時よりも、格段に習得効率のスピードが上がり、身体への負担も軽くなりました。

 わずかに残されていた視力に頼るよりも、視力が完全になくなったことで他の機能やさまざまな方法を活かすことができたのです。

 視覚がなかったら情報が入りづらくなり、あらゆる可能性も閉ざされてしまうと思われるかたもいらっしゃるかもしれませんが、決してそのようなことはありません。

 美術館や博物館に行ったときは、母や一緒に行った人たちが作品の説明をしてくれます。また、その場の凛とした空気から雰囲気を感じ取ることもできます。

 それと、私は動物園に何度か行ったことがあるのですが、この話をすると「なんで動物園なの?植物園だったら、花々の香りや花びらを触る感覚を感じることができるんじゃない?」と言われたことがあります。

たしかに見えないままの状態で動物に触れるのはコワい気もしますが、鳴き声や動く音でも十分に楽しむことはできます。動物独特のニオイだってありますし。視覚障がいがあってもいろんな楽しみ方ができるのです。


大切なことは目に見えない

 私にとって音楽は生き甲斐であり、どんな形でも一生寄り添っていたい存在です。こうしてピアニストとして活動を続けることができているのは、私を見守りながら支えてくださった多くの方々のおかげです。その中でも、私の家族の温かく深い愛情と彼らの生き様は強い原動力となっています。

 これからも舞台に立ち続けることで、家族とみなさまに恩返ししていきます。


現在の私は、障がいや難病の影響によって不調の日々が続くときも多いです。そのため、ピアノの練習をできる時間も限られてしまいますので、その限りある時間を大切に過ごしています。ピアニストとして大切にしていることは、自分自身が音楽を楽しむことで演奏を聴いてくださるみなさんにも楽しんでいただくということです。なぜなら、音楽には技術だけでなく感情や人間性などのすべてが表れるからです。そのような私の演奏する音楽が、聴いてくださるかたがたの心を晴れやかにすることができたら本望です。

仮に、楽譜を読めていたとしたら、私の音楽はまったく異なるものになっていたでしょう・・・目では見えないことへの想像性を駆使することで、私にしか奏でられない豊かな音楽性も与えられたからです。

愛おしき人の存在、麗しき音楽、苦楽の果てに練り上げた哲学・・・そうしたすべてが私の演奏に込められています。

 必ずしも見えることだけがすべてでなく、見えないことで何かを失うとも限らないのです。むしろ見えないことに目を向けるべきだと思っています。

愛や優しさ、励まし、慰め・・・大切なものほど目には見えないのですから。







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