日記 01

 新年になって心がなくなった。アラーム音固定パターン1に感情まで支配されることさえなくなった。とにかく全部面倒くさくて、面倒くさいのに、全然怒っていない。溜め込んでいるような感じもない。不安や焦燥もあるようでない。あるはずのもの、感じているはずのものから、重さが失われているような······形骸だけが胸の内に投射されているような、透明な感覚。透明という感覚。
 俺は、感情はあった方が良い派だ。そもそも感情無い方が良い派があるなんてこと、俺は高校二年生の時分まで知らなかったんだけど。当時付き合っていた人が、どういう話の流れかよく覚えてないけど、「感情なんて無ければ良いと思う」と言ったその時に、そのことについて初めて考えた。
 感情。昔から、感情について考えることが嫌いだった。メンドクセーから。でも、いつしかソレが異常に気になるようになっていた。多分、不安だったから。一人になるのが怖かったからだと思う。感情のことをわからないと一人になってしまう。最近わかった······というか、認めざるを得ない事実に目を向けることにしたから、あえてはっきり言ってしまうけれど、俺はやっぱり孤独が辛いのだと思う。必要だけど辛いんだ。
 辛いのは嫌だ。苦しいのも嫌だ。
 感じて嫌になる感情は沢山ある。でも、俺は辛いとか苦しいとか感じる自分を結構気に入っている。辛いのも苦しいのも嫌だけど、感じることそれ自体は嫌いじゃない。(これはなんと例えたらいいだろう。リターンがないのは嫌だけど、パチンコはゲームとして好きでやめられない、みたいな? ちょっとちがうか)だから、孤独にしたって辛くても嫌いじゃなかった。そういう文脈で嫌いじゃなくなったものは沢山あったし、なにかを感じたり感じようと思うことはそれだけで随分楽しいのだとわかった。
 だから、俺はそれが正しいとしても感情を過剰に抑制しなければならない圧力の高まりを嫌うし、感情の介在しない理屈や道理にはノりきれないと思う。どんなに酷い状況になっても、感じることだけはやめたくない。上手く言えてるかわからないが、とにかく感じたいと思うんだ。感情が好きなんだ。
 でも、彼女の言っていたことも分かるような気がする。例えば今もそう。俺は今、端的に言って不感症のようになっている。とは少し違うのかな······鈍感になっているのは確かなのだけど、何にも感じないと言うよりは、何を感じているのか自分でイマイチわかってないというか、そもそも感じられているのかどうかも分からないし、俺は感じたいと思っているハズなのに、何も感じられないこの状況に甘んじていて、感じられないことに対して正しく反応できてない。悲しくもなければ苛立ちもない。トウメイ。
 それなのに、なぜか俺は感情がなければ良いのにとよく思うようになった。何も感じることがなくなってからより強くそう思っている。俺が何も欲しがらないでいられるヤツなら、ドーパミン・ジャンキーでなければ、こんな凪のような生活を呪わなくてもよくなって、色んなことを割り切れるようになっていたかもしれないのに。なんとなく普通にちゃんと大人になれるビジョンを、ほんの少し前には思い描けた。ドロップアウトをあきらめ、乗車券は渡されなかったんだと腐るのもやめて、なんだ今からだって間に合うじゃんって有り金はたいて切符を買って、なんとなく人間らしい人間になって、既定路線の正しげなレールの上に肯定的に相乗りすることができるような、そんな気がした。
 でも、俺は外に出るのをやめた。切符なんて無いならないでやっぱりいーじゃん、そんで考えることも、考えたがることもやめた。夢は諦めた。現実を見ることもしない。死ぬのをただ待っていようと思う(心構えだけしていても、どうせまずくなったら頭で考えるより先に一歩うしろに踏み出しているだろうし)。世界がレントゲン写真に移る腫瘍のような色のヴェールに包まれ、白んでいく。実験場、乗り換えで降りる西北のホーム、告解室、パーティーハウス、人でいっぱいの喫煙所。
 醜いヤツらをぶち殺して、それ以外には何も望まない、ということだけ書かれた本がこの世にありますように。

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