「きゅんっ!ヴァンパイアガール」――アイドルの誘惑と拒絶と焦らし(2939文字)

今更ですが「きゅんっ!ヴァンパイアガール」がぼくにとってツボすぎるんです、という話と、ササキトモコ氏が作曲するほかの曲、たとえば「秘密のトワレ」にも共通するテーマがあるなあと思ったという話(の導入にあたるもの)です。歌詞と音楽(とMV)は各自参照してください。

この曲はそもそも、「ヴァンパイアガール」の本能である吸血衝動と「女の子」のゆらぐ心の葛藤を描いた曲ですし、ササキトモコ氏のブログにも以下のように書いてあります。

主人公は吸血鬼のお嬢様。このお嬢様、本気で好きになった男子に牙をたてられません。曰く「あたし、乙女チックすぎるから。」愛するがゆえに吸血鬼の運命にまきこみたくないのです。
しかし彼の血の匂いはエーテルのようにお嬢様を酔わせます。薄れゆく最後の理性を振り絞ってお嬢様は叫びます。
「銀の弾丸で今すぐ私を撃って! ハッピーエンドにして!」
これを意味する台詞は完全版にしかはいってませんが、かなり、きゅんっ!とくるお話でしょ?ズバリ、曲調はピンクレディーな感じで!

http://sasakitomoko.jp/2011/05/post_525/

この記事からもはっきり読み取れることですが、主人公のヴァンパイアガールは恋をしていて、すきな男の子の血を吸いたい、でも吸血鬼にはしたくない、という葛藤の中にあります。(典型的で、おそらく意識されているのは「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」とかかなあと思います)

「きゅんっ!ヴァンパイアガール」(ササキトモコ作詞作曲)のCメロの歌詞はこうなっています。

銀の弾丸こめたピストルであたしを止めて ハッピーエンドにして

これは、直接的に解釈すれば、「殺して!」ってことですよね。なんて破滅的で切ない歌詞……そうも取れるかもしれません。が、本稿ではもう少しだけ深く読んでいきたいと思います。

というのも、この歌詞を逆にとれば、「殺して!」の裏には「吸血鬼になっちゃってもいいよってくらい私を愛して!」があるとも言えるからです。だってそうでしょう?

「殺したくない? なら愛して!」ですもん。(「愛したくない? なら殺して!」でもありますが)

ここに込められた過激なまでに強い「愛の渇望」はじつはササキトモコの詞をつらぬく大きなテーマのひとつであるように私には思えるのですが、それはとりあえずおいておいて、この過激さは一体なんなのかという話をします。

商業的な前提のなかで活動するアイドル(「THE IDOLM@STER」というゲームが革新的だったのは、まさにその「商業的な前提(現実)」というのを導入したところであるように思えます)というのはそもそも、愛されてなんぼの世界だ、とも言えるでしょう。

しかし、アイドルであるために化粧をし素敵な衣装を着て歌い踊る「私」は私なのか? そうした結果ファンに愛されているのは「本当の自分」なのか? という葛藤がつねに裏面として存在し続ける世界だということも同時に言えるわけです。

この現象は、もっと普遍的なものとして語ることができると思います。

女の子はいつも「女の子」というガワを着ている。かわいらしい「女の子」であるために日々努力している。男たちはそんな彼女を好きになるかもしれない。

しかし、それは苦心してつくりあげた「女の子」という表面を好きになったのに過ぎないのであって、それは本当に「私のことが好き」だとはいえないんじゃないか。そうした怯えがどこかにあると言えるのではないでしょうか。(私は違う! という各位、いらっしゃったらすみません)

だからそれは、その「アイドル/女の子」という表面より奥に入ったら、あなたは私のことを嫌いになっちゃうかもしれないよ、それでも愛してくれる? 愛してくれるなら入ってきて? ということで、こちらからすれば絶対に断れない誘いのように見えたりもするふるまいになっているわけです。巧妙ですね。

また、これは同時に決定的にアイドル(そしてアイドルマスター)的なふるまいであることも指摘できると思います。

アイドルとファンの間には、ファンがどんなにアイドルを愛したところで通り抜けられない壁があります(あるとされています)。そしてそれがあるからこそ、ファンは安心してアイドルに恋をすることができる。これはAKB48の「恋愛禁止」とかを考えていただければわかりやすいかなと思います。その意味で、「普通の女の子に戻ります!」という言葉はこの壁をアイドルファンに突き付けるようなものだったとも言えるかもしれません。(ピンクレディーではなくてキャンディーズですが)

ここから考えられる、「アイドルは抽象化された人格だ」というテーマは、私の中で一貫したテーマなのでほかの稿でも触れていくつもりなのですが、ひとまず置いておきます。ここではまず、アイドルマスター文化の根幹にある、2次元とアイドルの親和性について話していきます。

2次元のアイドルには、当たり前ですが、バーチャル(仮想的)にしか身体がありません。そして、ない以上、そのような「通り抜けられない壁」の存在を想定する必要はじつはないのです。最初からまったくの2次元の女の子は普通の女の子には戻らない(戻れない)。

私たちはふだんそのことを都合よく忘れて、都合よくその虚構を楽しんでいますが、2次元のキャラはときどきそのことを揺るがしがたい事実として思いださせます。わかりやすく言えばルイズコピペです。

このことについて、ちょっとイキって、意表をつくようなことを言ってみたいと思います。

2次元のキャラクターは私たちの頭の中でのみ存在しています。絵とか文字とかを通して私たちが思い浮かべる限りにおいて存在しています。そしてそうである以上、私たちはそれぞれ、原理的に、同じ絵や文字を見ていても違うキャラクターを見ているとさえ言えるはずです。しかしその場合にも、誰にとっても揺るがない一点がある。「それが一次的には虚構であることを了解していながら、現実であると信じることにした」ということです。

それが表出するとき、2次元のキャラクターは、私たちの身に切実に迫ってくるという点で、もっとも「リアル」になる。私には思えます。

さて、そろそろ「ヴァンパイアガール」の話に戻って、すこしまとめて、本稿を閉じます。

「ヴァンパイアガール」のメッセージはわかりやすくて、冒頭にも述べた通り、「私を愛して!」なのですが、それは2次元のアイドルにとってみればある意味で諸刃の剣的要求でした。なぜなら、私たちが2次元キャラを真に迫って愛すれば愛するほど、その愛しい気持ちだけが「リアル」になっていくだけで、その空虚感はどうしたってぬぐうことはできないからです。

でも(あるいはだからこそ)もう私たちは止まらない。「それでも愛してくれますか?」という少女(「百年生きてるロリータ」)切実な願いに応じるために、その美しくて楽しくて素敵な夢に近づいていく。無限に近づいても無限に遠ざかる陽炎のようなものだと知りながら。

だめよいけない きてはだめ

その静止でさえ、私たちにはもはや単なる焦らしのように聞こえますね? だって、私たちはその泥沼にはまりこんだ先にある快楽をもう知ってしまっているのですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?