見出し画像

5/14 ここ数日の総括

5/7 日記をつけていますかという話 + 高地ヴァリリア語と韓国語の学習開始

ラルフ・ウォルド・エマソンがのちに「森の生活」を執筆するヘンリー・デイヴィッド・ソローに「あなたは日記をつけていますか」と聞き、ソローはそれに強く影響を受けたという話を聞いたことがある。確かに、その日に考えたことを簡単にでもメモしておけば、同じことをぐるぐると考え続けるだけで進展しない、ということは防げる。が、毎日日記を書くのはしんどいので、「ここ数日の総括」という形で週1回ペースで書くことがある日については何か書くことにした。

そういうわけで、前回の総括を書いた。

夕方ふと思い立って、高地ヴァリリア語(ドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」の制作のために作られた人工言語。作品世界内では、現実世界におけるラテン語のように、主に教養ある人が正式な文章に用いる言語として使われていたり、高地ヴァリリア語から分化したと思われる言語が複数あるという設定になっている)をDuolingoで学び始めた。

高地ヴァリリア語はそもそもがオタク向けの人工言語な割に学びやすく、また分からなくなった場合にもオンラインで参照できるリソースが充実していそうなので安心して学べそうではある。

ついでに以前から学ぼうと思っていた韓国語も学び始めた。現状ハングルが読め……少し読める + 挨拶や自己紹介と卑語がわかるという程度なので、もう少しわかるようになりたい。

いちど寝たあと明け方に目が覚めたのでTwitchで配信をした。

5/8 弟と作曲の打ち合わせ

家族で寿司を食った日に、弟と曲を作ろうという話をしたので、その打ち合わせをした。とりあえずコンセプトを決めて、5曲作るということで決まった。打ち合わせのときに雑談で、価値は他者と交換することが前提に決定される相対的なもので、結局「人生の価値」というものを考えること自体が破綻しているのでは? という話をしたのだが、これは結構よかった。

他方で、「人生の意味」について考えることは意味がありそうだが、しばしば「価値」と「意味」は混同されてしまいがちで、そういうことを理由に発生する不幸も存在する。

この日も早朝に目が覚めてしまったので、「ベター・コール・ソウル」の最新シーズンを見始めた。

5/11 配信7時間

長時間配信をした日は、基本それ以外何もしていないのであまり書くことがない。LoLは楽しい。配信も楽しい。

5/12 配信8時間してミートソースを作った

配信をしたあと、鍋いっぱいにミートソースを作った。おそらく6食分くらいはあると思う。

おかしな時間にツイートしているが、これを作ったのは12日の夜。

5/13 なすミートを作った

昨日作ったミートソースを炒めたナスとパスタを和えて食った。4食分作って家族で食べた。

これはマジでウマく、よかった。煮込む過程でブイヨンキューブが半欠け余っていたので何も考えずに入れたのだが、全体に対してほんの少しのそれを入れただけで味が決まり(「味が決まる」という表現は料理人らしくて好き。本来は味見をしながら調節するものであるということが前提にある)、企業の力を思い知ることになった。

最近は、この本がAmazon Unlimitedで読めるので、ときどきこの本のレシピで何か作ってみたりしているが、味付けは難しい。

5/14 配信4時間 +「裁き」について

この日はかなり勝てた。

「裁き」というテーマは私にとってずっと重要で、この日はこのツイートが目に入ってかなり気になった。このツイートは、性加害を受けたことが告発され、そのことに対する反応である。

「人が人を裁く」ことが傲慢である、という主張は、私にとって本質的に宗教的なものだ。つまり、「すべての人間は最終的に神によって裁かれるのであって、人による裁きは暫定的なものに過ぎない」と言っているのでなければ、何を問題にしているのだろうか?

私はすべての「裁き」が根源的に傲慢だとは思わない。いや、思うが、それを言ったところで、神の到来を待っているだけであって何も起きないので、「裁くべきだ」という前提のもとで前進するためには思わないことにするほかない。

不当な「裁き」が行われた場合には可能な限り中立的で公平な訂正が行われ得るような裁きの場を用意することが必要であるが、これは難しいのだ、という主張なら、私はこれに同意する。性加害が問題ならなおさらそうで、それは、裁きの場を大衆に公開すれば、実際の出来事に無関係で無責任なやじ馬たちが乗り込んできて私刑を執行し始める確率が高まることになるし、逆にクローズドなコミュニティで裁こうとすれば日常生活におけるパワーバランス(これこそが性加害が深刻なものになる一因だ)の影響を逃れることは難しいからだ。

「ベター・コール・ソウル」の以前のシーズンを見直しているが、ヴィンス・ギリガンがカトリックのバックグラウンドを持っている(ウィキペディア英語版調べ)と知ってからかなり見るべきポイントが変わった。観客はジミーを「裁いてほしい」と思っているだろうか? 「裁いてほしくない」と思っているだろうか? 答えはそのアンビバレンスそのものだろう。観客はジミーに裁きが下るのを期待してみているが、同時に、いずれ裁かれるジミーに共感してもいる。「ベター・コール・ソウル」の総体は、そうした矛盾にどう向き合い、どう生きるべきかという問題意識の中にある。

ところで、「スロッピージョー」という食べ物を今日初めて知ったが、めちゃくちゃウマそうなのでいつか作ろうと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?